俳句を初めて、まだ一年半程である。それほど系統的な指導をうけた訳でもなく、まだどのような方向を目指すのか、自分でもよく分かっていない。読んできた俳句の書にしても、古くは蕪村、近代では漱石など、現代では飯田龍太から鷹羽狩行などなど。それに加え、くだけた句も好む傾向があり、江国滋(酔治郎)の句や東京やなぎ句会のものなど手当たり次第に読んでいる。
しかし本当にうまくなるには、ある人の作品を集中的に読むのが勉強になるようなので、今はある俳人の本を読んでいる。とくにこの人の秀句の解説が気に入って、そこからご本人の句をあれこれ読み出した。
今の季節にちなんで、春から初夏にかけての句のなかから好きなものををいくつか挙げてみました。さて、この詠み手はだれでしょうというのが今日の問題です。当ててみてください。
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馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ
牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ
おもはざるむかし語りや田植時
(修学院離宮)
雲の中に立ち濡れつつぞ春惜しむ
楢山の窪に池澄む芽立前
春深し紫髯(しぜん)の胡人遊ぶ壺
山桜雪嶺天に声もなし
(法隆寺 夢違観音)
草枕小春は替へむ夢もなし
遊蝶花春は素朴にはじまれり
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彼は、私の俳句のつくりかたと題して、語っています。そのなかで印象に残った点を書き抜いてみました。
○作法書1冊、歳時記1冊、一万句集1冊。これだけ座右に備えた。現今では、よい作法書も、歳時記もいろいろ出版されていて便利だが、それを読まずに作句している人も多い。それはいけない。作法書を読まずにはじめると、初めから横道にそれてしまうからである。
○(はじめた頃)ある新聞社の月例俳句会に出席した。俳句表現の、あの手この手を覚え込むのにこれほど好都合なことなはい。自分の得点は度外視して、もっぱら各派の表現の型を研究しようとした。
またある時期、短歌の勉強をしたことがある。俳句と両方を勉強することはできなかったが、教えられた短歌の音調ということは決して忘れなかった。
○年齢を加えるにしたがって、句が清澄になってゆくのがよいと考えていたが、どうやら清澄と痩せることと取り違えていた。ここらで自分の持っているものを余すところなく出し切って、明るく美しい句を詠んでみようと思った。
昔短歌を研究して、その音調を俳句にとりいれたいと考えていたころの勉強心が甦ってきた。その対象として唐詩を暗唱できるように努力した。音調をしっかり学ぶためには、やはり暗記して5,60首はいつでもそらんずるようにしなければいけないのではないか。半年ほどして長短あわせて、6~70首は暗唱できるまでになった。そうしてそれが自然に作句のときに役立つようになった。
○俳句は、一読したときに、意味が明瞭に通じ、しかもその音調によって心を打つようなものでなくてはならぬ。
一句を詠もうとするとき、まず第一にその内容の分量が、17音に対して適当であるかどうかを考え、自分ではむしろ、適当以下と思われるまでに減量した上、充実した気力で、音調を強めて詠むーこういう常識的ともを言われそうな勉強を、私たちは繰り返さなくてはならない。
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諸兄姉は、如何思われますか? オンライン句会を目前にして、話題を提供申し上げました。
(追記)上記の「俳句のつくりかた」の中で、短歌を研究して、その音調を俳句に取り入れたいと考えていた頃の勉強心が・・・、という一節がありますが、その中でこんな文があります。
”フランスあたりの象徴詩を勉強しているひとがあり、その表現を取り入れたと
思われる俳句も散見するようになっていた。しかし象徴詩に比喩が多く使われていて、ともすれば意味不明という欠点に陥りやすい。俳句は、いうまでもなく東洋の詩で、簡潔にして格調を重んずる性質を初めから負わされているのだから、比喩を重んずる外国の象徴詩を研究するのは、方向違いのことと私は思った”
俳句ビギナーが、大先達に申し上げるのも恐れ多いことですが、私はすこし違う受け止め方をしています。比喩うんぬんは、そうかも知れませんが感性を刺激するには、象徴詩もわるくないと思うのです。たまたま今、手元にヴェルレーヌの詩集があり、象徴詩の影響をうけた薄田泣菫の「白羊宮」があるのですが、私にとっては俳句とか詩とかの仕切もなく、愛読しています。どちらもポエジーをあらわすものですから。