いつもこの時期になると椿の花を思いだします。葉室麟の時代小説『散り椿』を読み、それを原作とした映画を観て、そして主題歌のチェロでの演奏会に行き、また京都の三名椿をめぐる。そのことを思い出しながら、椿にちなんだ句を詠んでみました。
散り椿残りしものへ別れ告げ
目をやれば残る椿に散る椿
来世にも逢はむ日あらむ冬椿
椿寿忌や心に深くしみじみと・・・・机上の「五句集」(虚子)を眺めながら
横丁の赤色夕陽椿散る
椿散る琴の調べの音のやめば
回廊に雨ふりやまず白椿・・・京都永観堂の思い出
白椿恋知り染めし君のごと
濃茶して姫路を思ふ玉椿・・・姫路の銘菓玉椿を思ひて
貴兄の最初の3句を、頂きます。
小生が普段利用するのが、阪急夙川駅と阪神香櫨園駅です。その香櫨園駅を北側に出て4~5分、、夙川の東側の川べりに、椿が4~5本植わっています。
かなりの高さがあり、密集していて、、葉が重なりあっています。そのため、周囲の光に包まれた桜や松の木とは異なる陰影のある空間になっています。
貴兄の3句は,正にこの空間を描き、物語っています。
散り椿も残る椿も同じ顔をしていて、ついさっきまで同じ高さの枝で顔を合わせて居たかのようです。
散る椿も残る椿も、先程まで語り合っていたようにも
見えます。
人の世にもまた、このような出来事が多々あります。
これを知るがゆえに、出会いを、その時々を、大切に
していきたいと思います。
感じるままに書かせて頂きました。
葉有露拝
相変わらずのご無沙汰であります!!。
連日、朝より夜遅くまで、ニュースと云えば「コロナ禍」の事ばかりでうんざりです。
小生は1月末より電車、バスを利用しての外出を自粛の日々です。ただ楽しみは天気の良い日は人混みを避けて、近在の洛西の田園散策のみが息抜きとなって居ります。
このようなご時世の中、活動的なゆらぎ大兄に於かれましては如何お過ごしかと想うばかりであります。
さて今回の「椿」をテーマの御句の内、下記の句を選ばせて頂きました。
椿は桜同様、華やぎの中にある儚きものの代表的な花であり、「もののあはれ」を思うこと頻りですね?
☆散り椿残りしものへ別れ告げ
☆目をやれば残る椿に散るつばき
椿は山茶花とは違い、花弁が散らずごっそり落花する様を見て、「首が落ちるようだ」と昔の武士は嫌ったと云われています。しかし反対にその潔さが武士らしくて良いのでは?と想う小生です。
この頃の国会議員は自身の保身ばかりを考え、少しも潔さが無く、そのように想うばかりであります。
☆椿散る琴の調べの音のやめば
少し頬にひんやりと感ずる春のひと時、戸を開け放ち庭を愛でながら琴の音に聞き惚れ、興ずる光景が想われます。琴の音が終わるやその一瞬、芝生の上に真紅の椿が落花しました。「雅」とは斯くのような光景ですね!!。
☆回廊に雨ふりやまず白椿
秋の紅葉で有名な永観堂の春の光景ですね?赤い椿の多い中、白椿の無垢の嫋やかさはひと際目立ちます。春雨が降りしきる中、回廊越しに愛でる白椿は、その場から動けなくなる程です。このような景色を眺めながら、一献手向ければさぞかし!と想われます。
☆濃茶して姫路を思ふ玉椿
「玉椿」とは、播州姫路の銘菓なのですね?濃茶を頂く度に、想いだして居る作者です。
「濃茶」、「姫路」との措辞に、戦国の世に西国を睨む要となりました姫路城も想われ、武家の格式と風格が想われます。
最後に、小生のブログをブックマークに納めて頂き、大変有難う御座います。駄句ばかりではなく、政治への愚説も述べています。是非お立ちより下さいますよう!!。
三句をお採りいただきありがとうございました。
”散る椿も残る椿も、先程まで語り合っていたように見えます”、とのコメントには深く感じ入りました。そのとおりですね。人の世での出会いも、またそのように思います。
五句もお採りいただきありがとうございました。今回は、いつもと違い椿の句ばかりを詠みました。縁あって、各地の椿めぐりを楽しんでおります。今年は、奈良の三名椿さんめいちん)を巡ることにしておりますが、コロナ騒ぎで電車に乗るのも憚られ実現しそうにもありません。残念至極です。
作者の深い思いが籠った秀句より、厳選して下記の4句を頂きます。
散り椿残りしものへ別れ告げ
「篠」彷彿させる思いの深い佳句です。
来世にも逢はむ日あらむ冬椿
本句も或いは「散り椿」が背景にあるのでしょうか。椿の花の華やかさより、来世も会はんと、冬に一輪咲く椿に思いを託す方がふさわしいですね。
横丁の赤色夕陽椿散る
谷中の夕陽に染まりつつ散る椿を想像しました。椿の赤が夕陽により、一層強調されて、椿が鮮明度を増します。
濃茶して姫路を思ふ玉椿
姫路の玉椿は懐かしいです。かって姫路で味わったお茶、その時最高の菓子と言えば玉椿でした。
拙句から四句をお採りいただきありがとうございました。葉室麟の小説をお読みになっているのですね。それだからでしょうか、深い読みを披瀝いただき感じ入りました。
新型コロナウイルス騒ぎの中で、このような句を詠んで遊んでいるのは、世間さまにいささか顔向けできないような気もしますが、一服の清涼剤としてお許しください。
姫路の「玉椿」は上品で美味しいですね。今でも年に一回、お正月に取り寄せて味わっています。
散り椿残りしものへ別れ告げ
亡くなった友や親戚を時に偲ぶが、いずれの日かまた私も別れを告げる日が来る。それは椿が散る如くに潔いものになるのであろうか。
目をやれば残る椿に散る椿
「死者は最大の他者」という言葉があります。他者の存在があってこそ己が生かされているのであるが、日常ではそのことに敢えて深入りをすることがありません。人間同士、同じ種の生命を長い時間をかけて繋ぎ続けていることを、この句は世相を諌めながら、暗喩しているのだと思います。
来世にも逢はむ日あらむ冬椿
この句の「冬椿」を季語ではありませんが「モーツァルト」に置き換えてみたくなりました。
三句をお採りいただきありがとうございました。その上情感溢れる解釈をお洩らしいただき、コメント楽しく拝見しました。
”目をやれば残る椿に散る椿”の句では、「死者は最大の他者」ということで他者の存在があって己が生かされている」という言葉があり、まったくそのとおりだと痛感しました。長い間の連れ合いが、また恋人が、そして長い間の友人たちがあってこその私の存在なのだと思いました。
”来世には逢はむ日あらむ冬椿”の句で、冬椿の代わりに「モーツアルト」に置き換えてみたく、とのことでした。まったく思いもかけぬ発想でびっくりしました。 →”鳥帰る逢はむ日あらむモーツアルト”、ではいかがでしょうか?(笑)