草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

今日の俳句 秋/龍峰

2022-09-02 | Weblog

               高岡大仏

 

先月長岡の花火の帰り、高岡の街を散策。高岡と言えば400年の歴史を誇る銅器づくり、全国の90%を占めるとか。加賀藩の城下町として栄えた、今に伝える古き街には貴重な情緒が漂う。

猛暑と言っていた今夏も、後半は雨模様、早くも家の周りには、秋の気配が感じられる。

 

       大仏に日の傾くや寺の秋

       青銅の店先昏し秋簾

       幾たびか頭上飛び交ふ去ぬ燕

 

       門を閉ず画家の庭越し青棗

       八十路越え太字の跳ぬや新豆腐

       山郭の空き地の天下男郎花

 

       天空に放つ音とや牽牛花

       鳴きいそぐ声日のかなた秋の蝉

       蜩や鳴きつる間にも時は過ぎ

 

コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日の俳句 金魚 / 九分九厘 | トップ | 今日の俳句:爽やかに・葉有露 »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
好きな句 (九分九厘)
2022-09-03 12:24:06
龍峰さま
 下記五句を頂戴いたします。

     大仏に日の傾くや寺の秋

 5年前の9月に「おわら風の盆」に行ったときに、この高岡の大仏さんにも御参りしました。街中の一角の小さなお寺に鎮座していて、とても庶民的な大仏でした。鎌倉の大仏に夕日が差すといった光景でなく、付近の民家や通り道と渾然一体となる夕方の風景をこの句から思い出しました。
       
     門を閉ず画家の庭越し青棗
     八十路越え太字の跳ぬや新豆腐

この二つの句は、いずれも其の句意を問う謎懸けの句と思う。
 最初の句。先ずは季語「青棗」であるが、熟れたナツメの季語としてホトトギス歳時記では10月(秋)となっている。青棗となるとそれより少し前の季なのかもしれない。それはさておき、棗の実は美食の果物として楊貴妃が好んだものとされている。本句はいささか言葉が多い嫌いがあるが、あえて画家と入れたところが気になる。深読みすると最愛の人を屋敷に囲い、その人をモデルとして筆を執っている景を詠んでいると解釈する。妄想をするとかなり隠微かつ淫靡?なる感じもする。
 八十路の句。中七はどう考えても書を墨でしたためている景としか思えない。太字をうまく跳ねることが出来ないのは歳のせいにしている。季語の新豆腐を持ってきたのは、八十路の人が豆腐屋の主であることを意味している。豆腐屋やおでん屋などの看板は、太字の墨で描かれるのが普通である。「八十路の古し」と「新豆腐の新しさ」を中七の「太字の跳ねぬ」がうまくつないで、時代の流れを表しているお見事な句である。

    山郭の空き地の天下男郎花

「女郎花」を使わずに「男郎花」としたところがこの句の落とし所である。上五・中七が現代の荒涼とした世相を暗示していることに拍手喝采。
 
 
    蜩や鳴きつる間にも時は過ぎ

 日常感覚における「時間」は、過去・現在・未来へと流れていき、過去は変えられず未来は決まっていない。その中で我々は現在を生きている。人間も蜩も同じであることを本句が教えてくれる。
ところが、アインシュタインの物理学では、このような日常的時間は存在しないという。そもそも唯一かつ絶対的な「現在」というものはない。過去から未来にいたるあらゆる瞬間は,等しく実在しているとするのである。一方、量子力学では相対性理論と全く異なることを主張しているのが現状である。本句は「時間」そのものについて、もう一度よく勉強することを私に要請しているものである。
                                        以上
返信する
お礼 (龍峰)
2022-09-03 22:51:39
九分九厘 様

早速拙句をご覧いただき、思慮深く、掘り下げた分析と機知に富んだコメント頂き有難うございます。

大仏の句、5年前に高岡に行かれたとのこと、あまり説明はいりませんね。訪れた時は日は傾き、ご尊顔を拝しているとき、ふっと涼風が吹いてきたので一瞬、秋だなあと思ったしだいです。

門の句、いつも散策している街筋にもう亡くなられた画家の家があります。週に何日かギャラリーとしてォープンしていますが、まだ入ったことはありません。その庭に大きな棗の木があり、ちょうど今は青棗の実がたわわに成っています。
画家と棗の取り合わせが面白いかと思い詠みました。
艶めいた話でなくて残念でした。

八十路の句、ずばり読み筋通りです。80歳過ぎても昔ながらの豆腐をつくり、太字で勢いよく新豆腐ができたと店先に書かれている。

山郭の句、深読み有難うございます。「--天下」と来たので「男郎花」と詠みました。これが上州で詠めば「女郎花」となるでしょう。

蜩の句、アインシュタインや量子力学を動員しての解読有難うございます。そんなに高尚な意味合いはなく、蜩の声を聴いていて、その一声の間にも己のこの世の時間は過ぎていくのだなあと、柄にもなく思った次第です。
返信する
 好きな句 ( 葉有露)
2022-09-04 15:14:46
龍峰様

 長岡吟行の旅から、次の五句を御土産に頂きます。

 ・青銅の店先昏し秋簾
 ・門を閉ず画家の庭越し青棗
 ・山郭の空き地の天下男郎花
 ・鳴きいそぐ声日のかなた秋の蝉
 ・蜩や鳴きつる間にも時は過ぎ

 これらの句を通して、長岡の街中を散策している気分になれます。できれば、これ等の句を携えて長岡に行き、まずは青銅の店を覗いてみたいものです。
                 葉有露拝
返信する
好きな句鑑賞ほか (かつらたろう(桑本栄太郎))
2022-09-04 19:18:26
龍峰様
連日の残暑も日中は兎も角、朝晩はかなり凌ぎやすくなりましたね?前回の長岡の花火大会に続き、冬は大変な積雪となる銅製品で有名な高岡の街の表情を俳句にてお伝え頂き、大変有難う御座います!!。
佳句、秀句ばかりの中より敢えて以下の御句を選び、鑑賞させていただきました。

     ☆大仏に日の傾くや秋の寺
高岡の青銅器製造技術の粋を集めて、26年の歳月をかけて製造されたと云う、高さ16Mもある日本の三大仏像の一つようですね?高岡市民は何時も見上げ、親しみを込めて生活しているようです。その大仏に秋の日差しが傾くとは、何という趣のある秀吟でしょう!!。
     
     ☆青銅の店先昏し秋簾
青銅器の製品を扱う店先の様子が想われます。戸外は秋の日差しが燦々と輝くものの、秋簾に被われた店先は少し小暗いようです。秋の日差しと日蔭の対比が見事に詠われていますね!!。
     
     ☆幾たびか頭上飛び交ふ去ぬ燕
初秋と云えども今頃の時季ともなれば、燕さん一家はそろそろ南方へ帰る支度ですね?若燕も含め、一家は仲間を誘って飛び交い、電線などへ集合します。
少し僭越ながら「去ぬ燕」との季語の措辞が気になります。勿論正しい季語ながら、ここは切れを入れて「幾たびも頭上飛び交ふ帰燕かな」などは如何でしょう?

     ☆山郭の空き地の天下男郎花
山廓とは中国江南の地の「水村山郭」よりの出典のようですね?山際の集落とも、山裾の城郭都市とも?その空き地に「男郎花が咲き乱れている」との、さすが詩吟も物される龍峰さんならではの一句のようです。又貴兄の詩吟を聞きたくなりました。
     
     ☆天空に放つ音とや牽牛花
牽牛花とは朝顔の別名ですね?謂れのある呼び方とも聞きますますが、咲く時は空に向かって音を放つようですね!!。
     
     ☆鳴きいそぐ声日のかなた秋の蝉
深まり行く秋と共に、子孫を残す相手を求めて法師蝉が時を惜しむかのように鳴き急いでおりますね?中には余りにも急ぎ過ぎ、「どもる」秋の蝉も居るようです。往く季節の移り変わりの早さに、気の毒に想える程ですね!!。
     
     ☆蜩や鳴きつる間にも時は過ぎ
蜩は別名「かなかな」とも云われ、朝夕のうす闇この蝉が鳴きだせば、「何もかもはたと手を止めて聞き入ってしまう程哀愁を覚え、とても好きな蝉です。
九分九厘様の解説にもありますが、方丈記の一節にもあります「行く河の水の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず云々」に通暁するかのように、「人間が生活上に編み出した時間の概念は本来なく」過去、現在、未来は繋がって居り『時』と云うものは無い」との示唆は、とても意味が深いものがありますね?「今を生きるとは、今生まれ、今死ぬ」とも概念としてあり、納得のあるような?

さて相聞の一句を!!。
     ☆京なれやちくりん良しと秋の蝉
     ☆きちきちを追ひ立て歩む川辺かな
     ☆白萩の雨の小径や触るるかに
返信する
好きな句 (龍峰)
2022-09-04 23:10:50
葉有露 様

拙句より5句もお選びいただき、光栄の至りです。

まだまだ暑いですが、歳時記では中秋に入っており、秋たけなわです。連日30数度の炎帝、たまらずクーラの下へ逃げ込む。そこで秋の句を詠む。芭蕉の頃からの歳時記に縛られ、現実と合わない句を詠む。いつも矛盾を感じつつ、流れてきた。

いつか俳句の世界にも革命が起きて、21世紀の歳時記の大編成が起き、肌感覚に合わせた俳句が詠めるようになる日が来ることを願うところです。

かなり、横道にそれ、失礼しました。
投稿の拙句は長岡の吟行ではなく、帰りに寄った高岡と自宅周辺の光景を詠んだものです。
最後の2句の秋蝉は、まだ暑さが残っていても、夕暮れ時に聴くと季節の変わり目と蝉の短い寿命が重なり、もの悲しさを強く感じます。特に蜩の声はその頂点ですね。古来歌われて来たのも分かります。
但し、秋蝉をもの悲しいと詠んだだけでは、もう句にはならないでしょうから、危険な季題でもあると思っています。

コロナがより落ち着いて直に俳句談義をしたいところです。
返信する
好きな句・追記 (葉有露)
2022-09-04 23:58:14
龍峰様
 小生のコメントでの「長岡」の表記は、すべて
「高岡」の間違いです。わかっていながらの過ちです。  大変失礼しました。

             葉有露拝
返信する
お礼 (龍峰)
2022-09-05 13:13:46
たらう 様

拙句を7句もお取り頂き、懇切丁寧なコメントを頂き有難うございます。

大仏の句、高岡はご存知前田家の城下町として発展して、今日に至る。銅器の製造には長い歴史があるとか。市内には江戸時代の精錬法など展示の博物館もある。この銅器を作る職人や昔の鋳物場があった街並みが保存されていて、落ち着いた雰囲気である。

山郭の句、ご指摘の通り、山郭は漢詩「江南の春・杜牧」の第2節「水村山郭酒旗風」から引用したものです。但し、日本語に訳せば「山あいの村」ぐらいの意味です。「山郭」は句を重くしたと思いますが、諧謔的に「天下」「男郎花」と続けたのでリズム的には、硬くても許容されるかと思い、詠みこみました。

天空の句、改まって「牽牛花」なる季語を使ったので、上五、七は誇張して「天空に音を放つ」と詠みました。

蜩の句、万葉の頃から日本人の心に、秋の定番としてこの蝉の鳴き声が影響を与えてきたようです。あの「カナカナカナ」は、秋の夕暮れのもの悲しい
代表として多くの歌に詠まれた。遠くに引き込まれていくような声です。
それだけに句に詠むのは、危険な感じがします。在り来たりの「もの悲しい」では句にならない。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事