草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

久々に俳論を(ゆらぎ)

2008-02-04 | Weblog
(『俳句四合目からの出発』(阿部筲人)をご紹介し、みなさまのご意見を仰ぎます。)

「俳句 四合目から出発」
   ((阿部筲人 しょうじん) 講談社学術文庫 06年10月 第33刷)

阿部筲人は明治33年に生まれ、昭和43年に没した俳人である。加藤楸邨は、
年来の友人である。昭和21年という敗戦まもないころの荒涼たる世の眺めに触発
されて詠んだ句は、集中随一の佳品と評されている。

  ”若葉すやなだれ来る世をみるばかり”

その彼が、 初心俳句10万句そしてさらに5万句を加えていちいちカードで分類するという作業をくりかえし、俳句初心者の繰り返す過ちを拾いだした。500頁を越える大冊である。その中身の一端をご紹介する。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
 

”いままで無数の初心俳句に接してきましたが、常に痛感することは、どの人も常に同じ入り口から入り、常に同じ過誤を繰り返します。たとえば星や灯は必ず「瞬く」と表し、センチな人は「うるむ」と言います。雨は必ず「しとど」に降り、果物は必ず「たわわ」になります。紅葉やカンナは必ず「燃え」、空や水や空気は必ず「澄む」で、帰路は必ず「急ぐ」とし、自転車は必ず「ペダル踏む」とやります。農夫は「背を曲げ」、農夫は「腰太し」に決まっています。母は必ず「小さし」であり、これはまあいいとしても、どんな老齢の作者でも、必ず「妻若し」とやるのは、いささかベタ惚れが強すぎます。早乙女は必ず「紺絣」を着、どんな洗いざらしでも「紺」を匂わせます。日向ぼっこは必ず老人と孫と猫が縁側に登場します。犬は出てきません”

もうすこし、初心者俳句がはまるきまり文句のわなの例を本書から引いてみよう。

”年が明けると「孫の手」を引いて「古き社」に詣で、初日を「背に負うて」帰る。水「ぬるむ」ころともなれば、花は「ほころん」で「ほのか」に香り、空が「澄め」ば心も「澄み」、「子らの瞳(め)」はいつも「つぶら」。 「しとど」に雨が降り、「一陣」の風が吹き起こったかとみるまに台風「一過」して、やがてみかんは「たわわ」にみのり、なぜか「柿一つ」枝に残る。秋の夕べは、「どっと昏(く)れ」、夜の「帳」が「静かに」おりて「深い」闇のかなたで灯は「またたき」、星は「うるむ」。”    

 これはほんのさわりである。そして言う。

”日常氾濫している言葉使いや物の見方がいつのまにか頭にしみこみ、われわれはそれにとらわれてどうにもならない。日常はこれで用が足りるとしても、一歩俳句の道に踏み込むとなると、自分の深い心地を表すのに、道ばたに転がっているこんな言葉や見方で間に合わせてはいられなくなるのが、当然のことです。ここに気がつかないのは、永久に初心者であります。「自分の気持ちは自分の言葉で」ということが、ここにあります”

そうして次から次へと初心者の冒しやすい過ちの例を示してくれる。

”(夫婦俳句)
 秋灯下老妻ぼろを縫ひ綴る
 出張は明日妻の手料理夕茜

 夫が妻を詠いますが、甘い態度が川柳をぷんぷん匂わせます。

 (理屈の支柱俳句ーも・に俳句)
 紫陽花の雨に童話を読み聞かす
 
 雨で外で遊べない。だから本を読んでやる、という理屈仕立てであります。
 その原因は助詞の「に」にあり、これも「も」と同様に初心のそこつな使い方の
 代表語です。(注 子規も「も」は嫌味なり」と強く断定しています)

 この「も・に俳句」をすこし並べますから、その欲張り加減を十分に察しとって
 ください。
 
  絵葉書に河鹿の声「も」書き添えぬ
  一人にて今宵「も」蚊帳の灯を消しぬ

 (説明俳句)原因と結果、理由と帰結を一句の中に完備させる形になります。論  文などでは、筋道が立つことはいいのですが、理屈をいってはならない俳句に  は、かえってさまたげになる性質であります。

  毒芹に驚き山羊を引き離す、

 上半が理由、下半分が結論。ちゃんと筋が通っていますから、読者は想像を
 働かす余裕も楽しみもなく、触発される気分がありません。
 
  山涼し夜に居て地虫ひそかなる

 筋書き通り述べています。山は、涼しく、そして夜、だから地虫もひそかに
 鳴いているのだと、筋の明らさまな説明俳句となります。”


 (見方・考え方の陳腐俳句)
 「ビール」の飲み方は必ず「ぐっと」来て、泡を噴くのは当然でしょう。つまみ は「枝豆」

  枝豆の青さを添えてビールかな
  生ビールぐっと飲み干す映画出て
  泡多き人生の一夜ビール干す

  「アスファルト」は、必ず夏に溶けます。

  アスファルト溶け炎昼を無帽でゆく

 (個人的素材をあつかう俳句)われ俳句、自己宣伝俳句、親族俳句、師友俳句
  君俳句、などなどを俎上にあげる

   羅(うすもの)や浪費いつまで「寡婦われは」
   「句をつくる楽しみありて」盆の月
      ー結構なことですね
   久々の友と夜長を語りあう
      初心には、この「友」の頻出度が高く、かつどれもダメで・・・

 (主観露出俳句)
  「あめつちに寡婦生きがたき」秋の暮れ
   浴衣着て「若さを想い」星に立つ

       ~~~~~~~~~~~~~~~

 すこ長くなりましたが、ここまでのところは単に初心者が陥りやすい言葉のわなを指摘していますが著者の本当の狙いは、具象性です。これまでと比べると遙かに
重要な問題で、初心といわず俳句に携わる限り厳格に要求される、として根本的に説明をしています。そして心の中の感動を「外に定着する手続きを「具象化」としてかなりのページを費やしています。ひとことで言えば、こちら側(抽象名詞、抽象動詞)の言葉を「混入させることなく「完全な具象性を具備した」表現でなければならない、ということです。これに反した俳句の例を次々に取りあげ、ユーモアたっぷりにやり玉に挙げております。

 (野狐禅俳句)・・・自分一人で悟りきったつもりで詠んでいる
  さまよえる静かな「命」秋の蝶
  母の日や「生涯」小さき束ね髪
  夏菊の丘に妻と「世」を語る。
  春眠の父「人生」に衰えぬ

 (どんぞこ俳句)(自意識過剰俳句)
 (煩悶俳句)
  合歓の花乱れし「思索」まとめんと

  自分だけの心中を押しつけます。観念的に浮き上がります。

 (サッカリン俳句)
  水仙にある「純愛」よアイシャドウ

 (孤独俳句)
  秋涼ゝ「一人」の縁に星うるむ
 (思い出俳句)(春愁俳句)
 (形容詞の結論俳句)

 などなど並べ立てるときりがない。最後に「詳悉法」という事情を全部言い切る句について、きびしい言葉で語っている。

 (ああして、こうして、どうした俳句)

  香水のハンケチ忘れ客帰る
  土用入り花咲く稲穂に米は成る
  天高く白雲浮きて行楽日 
 
      ~~~~~~~~~~~~~~~

さてここからが本題です。みなさんは、この本の著者の語るところに、どのような感想をもたれるでしょうか?

文芸評論家にして書誌学の権威である谷沢永一は、その著「百言百話」のなかで、この一節をとりあげ、”日本人に通有の発想の型を浮かび上がらせた、と感嘆しています。

” (解説者の)向井敏のみるところ・・・だれでもはじめて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのがこうした決まり文句なのだが、阿部筲人はそこの<日本人の物の「見方の共通点・最大公約数、あるいは最低水準線>を見、<てこでも動かぬ固い岩層の存在>をたしかめたのである”


ある意味面白い本ではあり、一読するのも悪くありません。

 注)私自身の感想は、あえて省きました。みなさまに先入観をあたえてしまわぬように。失礼の段、お許しください。すでに用意してありますが、後ほど書き込ませていただきます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
(追加の書き込み)私の感想です。

なるほど、谷沢の云うところは、確かであろう。しかし、私は少し違うところに日本人に共通する発想の型を見た。それは、何事も常に欠点を探し、過ちを指摘して指導しようとする姿勢である。すこし話は、飛ぶが、欠点には目をつぶり、その人の良いところを伸ばそうとする欧米によく見られる姿勢とは、反対のものである。

 俳句の本として、時折ぱらぱ見るのは参考になっていいかも知れないが、その指摘するところを熟知したからと言って、いい俳句、感動を与える俳句が詠める訳ではない。解説で向井敏は、「実作者としての阿部筲人は残念ながらついに一家の
風を定めるに至らなかった・・」と書いている。

学ぶべき点は沢山ありますが、あまり気にせずどんどん句を詠んで行きたいと思っています。

 
 

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13 コメント

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次回企画 (ゆらぎ)
2008-02-07 22:01:16
フェニックス様
 何度も書き込みいただき、ありがとうございます。
お陰様で、とても盛り上がりました。

今から、お好きな句、名句を集めておいてください。
是非やりましょう! 桜の花の頃でしょうか。
返信する
次回は是非、「私の好きな名句」を。 (フェニックス)
2008-02-07 21:27:11
ゆらぎ様

ゆらぎ様の一石により、皆様の俳句に対する考えがよく分かり、大変勉強させていただきました。 有難うございました。次回は是非、「私の好きな名句、何句」とか言う企画を是非お願いします。とても楽しいものになること間違いなしだと思います。宜しくお願い致します。
返信する
お礼 (ゆらぎ)
2008-02-07 11:01:34
フェニックス様
九分九厘様
自由人様
かつらたろう様
龍峰様
百鬼様

 みなみな様、熱心に”俳句談義”にご参加いただき、ありがとうございました。予想を超える盛り上がりです。みな様それぞれのご意見、お考えに共感を覚えつつ興味深く読ませていただきました。自由人さんご教示の、小川軽舟の本は一度読んでみたいと思います。

 すでに私自身の感想は、記事の末尾に書いておりますので、改めてのコメントは差し控えたいと思いますが、ただ一点のみ申し上げておきます。この本は、余り好きな本でもありませんし、また座右のおいて参考にしようも思いません。しかし、既成概念、固定観念にはまった表現を脱しようというところは、耳に痛く響きます。絵を描くときでも、樹木は緑、空は青、太陽は黄色を塗るというような右脳的(論理脳的)な表現は、やるべきではないと師匠からきびしく指摘されています。自由人さん、ご指摘の通りです。大分前に聞いた話ですが、ある小学校の作文で、小さい子供が、”川がちゃぷちゃぷ・・・・”と流れている(・・・・は忘れてしましまいました)、と書いたところ、教師から”川は、さらさら流れる”ものですと指導されたそうです。いかに、既成の観念にしばられているかの、一例です。

百鬼様、たろう様ご指摘の通り、

”いい句を読むべきでしょう。いい句のどこがいいのか、それを説いてくれることが俳句作法書の王道と思います”・・・同感です。

これに加え、詩や和歌・短歌などもあわせて読み、鑑賞の幅を広げてゆきたいと思っています。いずれもポエジーの世界に遊ぶものですから。

改めて熱心なコメントをありがとうございました。あつく御礼申し上げます。話はかわりますが、いつかの機会に、「私の好きな俳句」をご披露いただき、また談論風発できれば、と思っています。



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百鬼様へ (フェニックス)
2008-02-07 09:17:00

百鬼様へ

「いい句のどこがいいのか、それを説いてくれることが俳句作法書の王道と思います。」

これこそ、私が言いたかったことです。読後感が建設的な気持ちになるかどうかだと思います。

百鬼様は私にとっては怖い方で、好みも趣味も私とはだいぶ違うかもしれませんが、ここに書かれているコメントには全く賛成です。

こんなことがはっきり言えるのが、真のdiscussion だと思います。
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ご無沙汰しております (百鬼)
2008-02-07 08:41:15
ゆらぎ様、ご無沙汰しております。
この本、僕も一年ほど前に買い込みました。分厚い本です。厚い本を見ると得をしたような気がして、つい手が出るのですが、途中でうんざりして投げ出しました。
悪い見本を列記した内容です。
悪い句を読んではたして作句に役に立つのか、これが僕の本音です。いい句を読むべきでしょう。いい句のどこがいいのか、それを説いてくれることが俳句作法書の王道と思います。
その意味でこの本は、根本的にいけません。
悪い句をこれだけ集めてきて分類する精神力には感心しますが、どうもそういう癖は理解に苦しむところがありました。
やはり読むべきは、いい句でしょう。
返信する
俳句四合目への一言 (龍峰)
2008-02-06 14:38:26
皆々様

ゆらぎ様の一石投じられたことに端を発し、皆様の貴重なご意見は大変勉強になりました。
前ににも書きましたが小生は藤田湘子の俳句入門書を手がかりに俳句を始めました。藤田の本にも悪い句の見本として
  *道徳観、倫理観、教訓
  *理屈、分別臭
  *風流ぶり、気取り、低劣な擬人法
  *俗悪な浪花節的人情
を詠んだ俳句を挙げ、間違いなく失敗するので詠む時には気をつけるようにと記載されています。
また別の項を引用させて頂くと”私たちの日常生活は大変散文的であるからそれをそのまま作句に持ち込んでもいい句はできません。「これから作句するんだ」という一種の緊張感によって、散文の世界から韻文の世界へ変身を図る必要があります。けれども、それだからといって自分らしく見せようと思ったり、気取った気分になったりしたら自分の俳句は作れません。なるべく肩の力をぬいて、ごく平常の自分であるよう努めたい。発想にも言葉の選択にも背伸びしてことさらのポーズを示そうとしないことが大切です。”と。
阿部の言っていることと勿論重なるところはありますが、作句の基本ルールは守りつつ、根底は俳句は詩であることを忘れずに自分の言葉を使うことが大切ではないかと理解しつつあります。 
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俳句四合目 (九分九厘)
2008-02-06 10:22:08
フェニックス様 
自由人 様
かつらたろう 様

貴重なご意見を拝見いたしました。こうした意見交換でなかなかの勉強になります。皆さまのご推奨の本もいずれ目にしたいと思います。
返信する
フェニックス (かつらtらろう様へ)
2008-02-06 08:36:00
かつら様

かつら様の俳句への精進の心と実行されていることに大変感銘を受けました。特に最後の 

「著名な作品を解説付きで読んでいますと意欲が限りなく湧いてくるのは確かです。」

については、共感を覚えます。すべての作品と解説を理解できるわけではありませんが、確かに名句と言われるものについて読んだあと、感心する心と意欲のようなものが湧いてきますね。

私も自分の殻に閉じこもらないで、少し勉強しなければと思いました。 刺激を与えていただき、有難うございました。 

返信する
「俳句四合目からの出発」への私見 (かつらたろう)
2008-02-06 00:24:13
ゆらぎ様
いつもながら、簡潔にポイントをまとめ、分かり易く発表される読書感想文の素晴らしい手腕には、全く感服します。そして今回は敢えて問題提議をされましたが、座の連衆としてお互いのレベル向上の為には時々、意見を述べるこのような機会も必要かと思っておりましたので感謝致します。
先ずこの、「俳句四合目からの出発」なる本はまだ読んだ事はありませんが、ゆらぎ様のポイントを押さえた紹介の内容によれば、正直な気持ちとしてあまり読んでみる意義が見当たらないような気がします。俳句の初心者が陥りやすい過誤としての、「に、も俳句」、「説明俳句」、「夫婦俳句」、「見方、考え方の陳腐俳句」、「主観露出俳句」、「野狐俳句」、云々と次々と述べられているようですが、これらの内容は言葉を短く表現すれば、俳句は日本独特の世界一短い詩の形、「散文ではなく、韻文である事」という基本が充分身に備わっていない事によるものと言えるのではないでしょうか?皆様方よくご存知の事で今更ながら、述べるまでもないかもしれませんが、俳句は俳諧連歌の発句の部分が発達してその「五・七・五」の十二文字の言葉による完成した詩形としての独特の表現方法であり、言葉を選び短い表現により読者に提示として詠み、読者はそれを「汲み取る」、「感じ取る」という文学であると思います。
私の独断の感じですが、良く言えば控えめな日本人の奥ゆかしさ、全てを言わなくても察して欲しいとの思いの、歯がゆく感じるほどの省略の形の文学であると思います。ところが日本には四季があり、その四季の移り変わりとその四季の変化を生活の中に取り入れて暮らして来た日本人にとって、細やかな感情、心理を表現する日本語は一つのモノ、コトを表現する為にも驚くほど種類があり、言葉を選ぶ俳句という文学は容易ではないと皆様も痛感されているのではないでしょうか?そこで、短歌とは違う言い回しによる表現や、共通認識が出来る、季語などが集大成されその季語により、時候、天文、地理、人事、宗教、動物、植物などが約束事として出来ました。そして、俳句独特のイメージ喚起としての「や、かな、けり」などの切れ字が使用されるに至ったのだと思います。現代では有季定形、無季定形、有季自由律、自由律と幅広く展開されるようになっていますが、私の個人的意見ではやはり俳句の基本である有季定形から入り、「や、かな、けり」の切れ字の違いをしっかり身につけ訓練を行う必要があると思います。その意味で初心者の陥り易い
過誤の勉強は読み流す程度で、しかし押さえるところは押さえ、上達する為には結社に入って沢山つくり添削を受けるか、入門書を繰り返し読みながら同時並行として作句する。そして頻繁に句会に参加して、評価をうける。更に著名な俳句作品を沢山読み、何故、何処が良いのかを研究するなどを勉強した方が、意欲が湧き五合目、六合めを目指すことが出来るのではないかと思われます。
話題は替わりますが、俳句作者と俳句評論家は同じではなく、喩えは適切ではないかも知れませんが、見目麗しいけれど冬の月のように冷たい美人と、見目は少し劣っていても、にこやかで気立てが良い女性とではどちらが好感が持てるでしょう?阿部氏の指摘されるように全て完璧でなくても、初心者の稚拙と思われる
句の中にも、玉と光る作品はいくらでもあると思うのは私だけでしょうか?知識として知っていると云う事と、実際に出来るという事は全く別問題であり、野球に喩えるならば、名選手必ずしも名監督ならず、名監督必ずしも名選手ならずと同じではないかと思います。一生懸命練習してうまくなりたいという情熱と、その為ならばどんな訓練、勉強もこなすという信念が野球と同様、大切であると考えます。
私の所属しています、オンライン俳句結社ではあまり指導がありませんので、図書館の俳句関係の本により独学中ですが、藤田湘子氏の俳句入門書、稲畑汀子氏の俳句の十二ヶ月、鍵和田釉子氏の季語の解説、大岡信の百人百句、そして山本健吉氏の新版現代俳句上・下などを繰り返し読んでいます。特に最後にご紹介しました、角川選書198、山本健吉氏の新版現代俳句は、明治の正岡子規から始まり、高浜虚子と続き、最後の角川義樹氏に至るまでの作品と背景、解説、見所などが詳しくわかり大変良書ですのでお薦め致します。しかし、独習により勉強していても、いまだ新春オンライン句会でご披露させて頂いたような稚拙な句しか出来ず、恥ずかしい限りですが、著名な作品を解説付きで読んでいますと意欲が限りなく湧いてくるのは確かです。
返信する
日本人に通有の発想の型 (フェニックス)
2008-02-05 22:29:40
ゆらぎ様

先の続きになりますが、やはりこの著者の俳論をまとめるのはとても難しいですね。 九厘様の感想文に
また、学ばせていただくことも多くありましたが、私自身が最初に心に留まった次の箇所と、もう一箇所の内容について感じたことを述べてみたいと思います。


「一歩俳句の道に踏み込むとなると、自分の深い心地を表すのに、道ばたに転がっているこんな言葉や見方で間に合わせてはいられなくなるのが、当然のことです。ここに気がつかないのは、永久に初心者であります。「自分の気持ちは自分の言葉で」ということが、ここにあります。」

実に当たり前すぎることが述べられていると思いますが、「自分の気持ちは自分の言葉で」が完全に実行できる人はそう多くはいないでしょう。 どこかで、誰かが似たようなことを言っていることは間違いないと思います。

この箇所についての九厘様の感想は私の気持ちを代弁していただいているようなので、勝手かもしれませんが、引用をお許し下さい。次は九厘様コメントからの引用です。

”この種の道端に転がっている平易な言葉しか使えない、俳句素人の自己嫌悪は横に置いておくことが前提になりますが、万人の使う最大公約数的ではあるが、立派なこの種の平易な日本語を俳句に使うのが誤謬?(上達しない理由)であると指摘すること自体に、俳句を一体誰様のものと思っているのか、という真にシンプルな直観がありました。この本の指摘する言葉をすべて避けて行くと俳句が上達するという、著者の「俳句上達方法論」そのものの展開上梓に問題がある、というのが私の率直な感想でした。”

この点に関しましては九厘様の感想と殆ど同じものを持ちました。 これは、向井敏氏が後書きで述べられていることをどう解釈するかにかかっていると思います。

②<向井氏の後書き>
”だれでもはじめて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのがこうした決まり文句なのだが、阿部筲人はそこの<日本人の物の「見方の共通点・最大公約数、あるいは最低水準線>を見、<てこでも動かぬ固い岩層の存在>をたしかめたのである”

この最後の3行に述べられている<日本人の物の見方の共通点・最大公約数><てこでも動かぬ固い岩層の存在>を一概に陳腐なものと決め付けるのはどうかと思われます。 長い文化のさまざまな試金石に合ってきて残った言葉や表現をことごとく古いと見做すのはどうでしょうか? ただ、いつも紋切り型の表現では魅力がないのは当然ですが、使い方を考えて活かせる場もあると思います。たった5・7・5の文字で人に何かある感慨を伝えようとすれば、共通の何かが必須だと思うのですが....。いつも新しい言葉、表現で人を理屈なしに感動させる俳句はなかなか難しいのではないかと思うのです。

以上、あまり、話し過ぎると自己弁護になりかねないので、この辺でストップにしようと思います。

この著者の指摘、critisize のもとの精神は正しいところも大いにあるので、参考にしょうと思いますが、俳句はあまり難しく考えすぎるとできなくなるのが私ですから、ノーテンキな俳句と時々、考えた俳句を作り続けようと思います。時々、マンネリに陥らないように、詠んではいけない句の参考書として利用したいと思います。 ご紹介有難うございました。他の皆様の感想も拝聴したいと思います。


(お断り)

”若葉すやなだれ来る世をみるばかり”

先に書きました上の句についてのコメントが誤解を招くような書き方で不充分でしたので、改めて次のようにしたいと思います。

 時代は昭和21年頃で敗戦間もないころの荒涼たる世の眺めに触発された感慨を一気に詠まれた句だと解説にありましたが、若葉の明るさと対照的に、一層心のやるせなさを感じさせる句だと思います。

今の世は当時とは違うでしょうが、どうしょうもない世の流れがあるようで、この句は現代の今詠まれてもいい句だと思いました。









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俳論について (自由人)
2008-02-05 22:05:59
俳論について愉しく読ませていただきました。
自分が通っている教室でもいわゆる「説明俳句」「理屈俳句」「も、に俳句」等について厳しく指摘されます。分かったつもりではいるのですが、まだまだこういつた落とし穴にはまってしまいます。
絵画でいえば空は青、木は緑という固定観念でシンボル化しまた画面の隅々に焦点があたって、見る人はああそうですかで済んでしまう、いわゆる感動や余韻が残らない絵になっているのですね。
「魅了する詩型---現代俳句私論--」  小川軽舟 著  (富士見書房) から引用すると俳句も言葉から成り立っていますが作り手と読み手の関係は、それを伝達という概念で結びつけようとすると違和感がある。俳句の内容を便宜的にイメージと呼ぶならば、俳句の作り手のイメージと俳句の言葉は決して一対一で対応しない。イメージを抽斗の中身とすれば、俳句は抽斗の鍵のようなものだ。読み手は鍵を受け取り、それを用いて読み手自身の抽斗を開ける。  と言っていますがまったく同感だとは思っていますが、いざ自分で作るとなると難しいものです。
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四合目 (九分九厘)
2008-02-05 13:03:26
四合目というのが微妙なところですね。引き返す気もそろそろ起こらなくなって、このまま登って行こうかなと悩み患う時です。もっとも私はまだ二合目くらいかなという気がしております。この本は昨年図書館で借りてよんだ事があります。読み始めて、成程なるほどと感心していって、そう言えば自分もこの種の俳句をたくさん詠んでいるなと自戒していくのですが、半分近く読み進んでいると、これでもかこれでもかと、ばかりの執拗さに、次第に嫌悪感を感じ始めて、あとはぱらぱらとめくって終わってしまいました。決して作者の意図に異論をとなえているわけではありまん。むしろ、現在の私は、著者の言う

「一歩俳句の道に踏み込むとなると、自分の深い心地を表すのに、道ばたに転がっているこんな言葉や見方で間に合わせてはいられなくなるのが、当然のことです。ここに気がつかないのは、永久に初心者であります。「自分の気持ちは自分の言葉で」ということが、ここにあります」

まさに、この著者の教えに、最近は共感しかつ悩んでいる次第です。そのためにも先人の俳句やそのほかの古典を読み始めるきっかけにもなってきております。それでいてこの本を読んでいて、嫌悪感(自己嫌悪も半分くらいかな?)を感じたのは何故なのか、改めてゆらぎさんのブログで考え直す機会が与えられたようです。

この種の道端に転がっている平易な言葉しか使えない、俳句素人の自己嫌悪は横に置いておくことが前提になりますが、万人の使う最大公約数的ではあるが、立派なこの種の平易な日本語を俳句に使うのが誤謬?(上達しない理由)であると指摘すること自体に、俳句を一体誰様のものと思っているのか、という真にシンプルな直観がありました。この本の指摘する言葉をすべて避けて行くと俳句が上達するという、著者の「俳句上達方法論」そのものの展開上梓に問題がある、というのが私の率直な感想でした。

著者の本来の意図するところが

「ひとことで言えば、こちら側(抽象名詞、抽象動詞)の言葉を「混入させることなく「完全な具象性を具備した」表現でなければならない、ということです。」

であることはよくわかります。私の手元に「客観写生とは内に動く感情を外物に即して具象的に表現すべき技法的な手段として意義づけられる」といったある俳人の言葉をメモしてあります。このなかの「技法的な手段として意義づけられる」というのが気になるところです。俳句を自分の日記の中だけに閉じ込めていく場合は、この種の日常言葉が最も使いやすいわけですが、いったん外部の人に読んでもらって共感を呼ぶとすると、完全な具象化を具備しなければならない。そうすることで初めて、句そのものを他人の読者の判断にゆだねることができるという宿命を俳句自体が持っていることなのでしょう。この宿命に対する為にも、こうした俳句上達論が出てくるのものだと思っています。石田破郷の句には、しきりとなく「妻」「母」「夫婦」「病床」が出てきます。一つだけの句を独立して取り出すと、この本の指摘するような句が出てきます。しかし、句集を通して読むと彼の人間像が浮かび上がってきます。立派な文学作品だと思います。長い付き合いのゆらぎさんが「妻」を使った句を、私が読むと奥さまの顔や句に現れる情景がとてもよく伝わります。そもそも、俳句を詠んで自分の人生の何処にあてこもうとしているのかが、もう一つの問題でもあります。その意味でもあまり言葉の在り方に気を遣う必要もないと感じたりする時があります。ひょっとすると、俳句を発句単独での完成を求めていくと、この種の「俳句上達方法論」の本が必要になるのだとも考えられます。江戸俳諧、雑俳あるいは連歌の世界を垣間見ると、俳句のあるべき本来の姿を理解できるのかも知れません。

返信する
My first impression (フェニックス)
2008-02-05 12:49:14
この御本については、簡単に感想が述べられない気がします。従って、2回ぐらいに分けて書かせていただきたいと思います。 今日はさしあたって、正直なfirst impression を手短に。あとで変わるかもしれません。

☆まず、作者の次の句は、今の時代をそのまま詠んだ句として、印象に残りました。「若葉すや」の季語を何に変えたらいいのでしょうか?

”若葉すやなだれ来る世をみるばかり”

☆次に、ゆらぎさんが最後に引用された箇所の解釈がいろいろできると思います。 このことについては次に書き込みたいと思います。
 
(解説者の)向井敏のみるところ・・・だれでもはじめて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのがこうした決まり文句なのだが、阿部筲人はそこの<日本人の物の「見方の共通点・最大公約数、あるいは最低水準線>を見、<てこでも動かぬ固い岩層の存在>をたしかめたのである”

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