聖徳太子研究の最前線

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寺院の建設は山林破壊でもあった:松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探る」

2022年09月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 この前、番外編のような形で岩倉具視と法隆寺の貝葉の件をとりあげました。そこで、今回は番外編の続きで四天王寺と山林の樹木伐採の話です。論じているのは、

松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探るー中世聖徳太子伝『聖法輪蔵』別伝の四天王寺建立説話に見る樹木伐採と木材調達ー」
(早稲田大学国文学会『国文学研究』第196集、2022年4月)

です。松本さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(勉誠出版、2007年)は、太子伝における物部合戦での太子の活躍ぶりの歴史的変化を探るものであって、勇ましく戦う太子や、争いを避けようとする太子など、様々な描かれ方をしていることに注目した、興味深い探求の試みでした。太子伝研究の名著ですね。

 松本さんは、数年前まで韓国の大学で教えていましたが、現在は長崎外国語大学の教員となっており、日本の古代史研究をするうえで必須である古代韓国の状況の研究にも通じているのが強みです。今回は環境問題を意識してか、太子の絵伝に見える山の樹木に着目しており、これまた面白い視点です。

 さて、この論文では、法隆寺宮大工の西岡棟梁が、日本には樹齢が長くて質の良いヒノキがなくなったたため、建設のためには台湾まで買いに行かなくてはならないと歎いたことから話を始めています。現在の日本の山は樹林で覆われていて綠になっていますが、明治大正時代の写真を見るとそうでないと言います。つまり、はげ山が多かったのであって、戦後になって植林した結果、それまでとは異なる樹木が過剰に育ったのです。

(松本さんは触れてませんが、花粉症はその弊害の一つですね)

 この論文によると、森林伐採は縄文時代から始まっており、弥生時代になると須恵器の焼成のために山林が荒廃する例が出てくる由。さらに飛鳥時代になると、大和あたりでは建築用材の欠乏が見られるようになったそうです。

 都の建設、寺院の建設、大人数の生活のための木材利用が進んだためでしょう。度重なる遷都がそれに拍車をかけたうえ、奈良時代には東大寺大仏殿建築のために大がかりな伐採がなされ、その後の再建がかなり困難になっています。

 こうした状況は、聖徳太子関連の記録にも反映しており、『日本書紀』で山背大兄に味方した境部摩理勢の子の毛津は、畝傍山に逃げ込んだものの、木立がまばらであって隠れることができなかったと記されています。現在の木うっそうと茂る姿とは異なっていたのですね。

 そこで山林の荒廃が進んだ例として松本さんがとりあげるのが、中世の太子伝の代表の一つである『聖法輪蔵』に組み込まれた別伝「四天王寺建立事」です。

 この前半部では、「彼ノ四天王寺ノ材木ヲハ、山城国ヨリ淀川ヲ下シテ、摂津国難波ノ浦ニ付テ、太子十六歳ノ十月ニ悉ク建立シ給ヘリ」としているだけですが、別伝では、そこは「昔深山ニテ大木枝ヲ並へて」いたため、太子が多くの人夫を派遣し、20数カ所の仮家を造ったところ、人夫たちが我先にと争って材木を切ったとしています。

 松本さんは、「昔~」とあるため、この部分が書かれた時は、大木が失われていたことを示すと説きます。

 そして、平安時代の絵巻などを見ると、そこに描かれた山は鬱蒼とした樹林に覆われていないものが多いそうです。むろん、描き方の問題もあるでしょうが、それにしても樹林の描き方が貧弱なものが目立つ由。実際、当時の文献には、焼き畑をすると寺の堂塔に近いので危険だといった記録や、山の材木を炭や薪のために切り尽くして荒れたといった記述が見られるのです。

 そのため、『聖徳太子内因曼荼羅』では、「太子自ラ斧ヲ取テ切倒シテ、天王寺ノ塔ノ心ノ柱ラ」などを数々取ったとしていたものが、近江蒲生郡の西明寺の1237年の文書では、近隣の住民が寺領の山林を伐採しているとし、「上宮王、殊に禁制の事」ありと説き、太子が禁じているため「霊木を伐採すべから」ずと関白に訴えるに至っています。

 絵巻から社会事情を読み取ることは、黒田日出男氏その他によって次々に研究が進められてきており、太子の絵伝についても何人もの研究者が取り組んでいますが、今回の松本さんの論文は、視点を変えると、意外なことが浮かびあがってくるという一例ですね。