蘇我氏に関する新書が2冊続けて出ました。
吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波新書、2015年12月18日)
倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡』(中公新書、2015年12月20日)
です。
両書とも、蘇我氏の起源と展開を追い、厩戸皇子の頃は天皇家と蘇我氏の対立などはなく、蘇我氏は蝦夷・入鹿の死とともに滅びたわけではないと論じており、有益です。
特に倉本氏の本は、蘇我氏は同族を別の氏族として独立させて群臣会議に参加させ、多数を占めたこと、大化改新後にも蘇我氏が重要な位置を占め続けており、改新側も蘇我氏と血縁関係を結ぼうとしていたこと、蘇我氏は以後も妃を出し続けたことなどについて、熱っぽく語っており、読み物としても面白い本になってます。
蘇我氏については、権勢を振るった大豪族であった割には研究が少なく、遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』のような見直しの試みもなされていますが、 様々な分野の研究者たちによる徹底した調査が必要でしょう。それだけに、岩波新書と中公新書という手にしやすい形態で蘇我氏に関するこうした本が続けて出たのは、歓迎すべきことです。
ただ、吉村氏の本は、氏(うじ)という存在についての解明、蘇我稲目の活動の意義などについては詳しいものの、蘇我氏の専横といった従来の見方に対する見直しはあまりなされておらず、意外なほど『日本書紀』の記述や従来の解釈がかなりそのまま採用されています。
たとえば、吉村氏の本では、「君」の絶対性を説く「憲法十七条」は蘇我氏の存在と相容れないとしていますが、そうであれば「憲法十七条」が作成されることはないはずです。天皇後継者である太子が、最大の支援者であった蘇我馬子と対立するようなことを書くことは、考えられません。これまでの「憲法十七条」の解釈は変える必要があるのです。
厩戸皇子については、両書とも蘇我系の有力な天皇候補と見て、推古天皇のもとで馬子とともに政治にあたったとしており、虚構説は問題にされておらず、批判すらなされていません。
私のこのブログや諸論文や今度出る本で虚構説批判をやったのは、現在、インターネットで聖徳太子についてを検索すると、虚構説を初めとする怪しい説が多数ヒットすることが示すように、世間にトンデモ説がかなり広まっており、弊害が目立つためです。研究者は、そうした非学問的な説は相手にする必要はないという意見もありますが、現在のネットの状況は見のがしてはおれないレベルです。
さて、今回の両書は、蘇我氏に関する本であるため、厩戸皇子については、新しい発見や資料の従来の読みの訂正などはされていません。吉村氏の場合は、2002年に同じ岩波新書で『聖徳太子』を刊行していますので、そちらに譲ったということもあるのでしょう。太子に関する以後の研究の進展が盛り込まれるかと期待していたところ、そうなってはいませんでした。
ですから、その点では両書は、太子に関連する最新研究を考慮していて新発見や新解釈が多い私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(こちら)とは、互いに補完し合う関係ということになります。
なお、吉村氏が「厩戸皇子」という一般的な呼称を使っているのに対し、倉本氏は「厩戸王子」という呼称を用いていますが、これは問題でしょう。
虚構説が説く「厩戸王」を避け、また「皇子」は律令制に基づく用語であるため避けたのでしょうが、『日本書紀』では、「王子」という語は新羅や百済の王の子について用いるのが通例であって、入鹿が子のことを「王子」と呼ばせたなどという例しかありません。「王子」という語を使うのであれば、何らかの説明をつける必要があるでしょう。
吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波新書、2015年12月18日)
倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡』(中公新書、2015年12月20日)
です。
両書とも、蘇我氏の起源と展開を追い、厩戸皇子の頃は天皇家と蘇我氏の対立などはなく、蘇我氏は蝦夷・入鹿の死とともに滅びたわけではないと論じており、有益です。
特に倉本氏の本は、蘇我氏は同族を別の氏族として独立させて群臣会議に参加させ、多数を占めたこと、大化改新後にも蘇我氏が重要な位置を占め続けており、改新側も蘇我氏と血縁関係を結ぼうとしていたこと、蘇我氏は以後も妃を出し続けたことなどについて、熱っぽく語っており、読み物としても面白い本になってます。
蘇我氏については、権勢を振るった大豪族であった割には研究が少なく、遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』のような見直しの試みもなされていますが、 様々な分野の研究者たちによる徹底した調査が必要でしょう。それだけに、岩波新書と中公新書という手にしやすい形態で蘇我氏に関するこうした本が続けて出たのは、歓迎すべきことです。
ただ、吉村氏の本は、氏(うじ)という存在についての解明、蘇我稲目の活動の意義などについては詳しいものの、蘇我氏の専横といった従来の見方に対する見直しはあまりなされておらず、意外なほど『日本書紀』の記述や従来の解釈がかなりそのまま採用されています。
たとえば、吉村氏の本では、「君」の絶対性を説く「憲法十七条」は蘇我氏の存在と相容れないとしていますが、そうであれば「憲法十七条」が作成されることはないはずです。天皇後継者である太子が、最大の支援者であった蘇我馬子と対立するようなことを書くことは、考えられません。これまでの「憲法十七条」の解釈は変える必要があるのです。
厩戸皇子については、両書とも蘇我系の有力な天皇候補と見て、推古天皇のもとで馬子とともに政治にあたったとしており、虚構説は問題にされておらず、批判すらなされていません。
私のこのブログや諸論文や今度出る本で虚構説批判をやったのは、現在、インターネットで聖徳太子についてを検索すると、虚構説を初めとする怪しい説が多数ヒットすることが示すように、世間にトンデモ説がかなり広まっており、弊害が目立つためです。研究者は、そうした非学問的な説は相手にする必要はないという意見もありますが、現在のネットの状況は見のがしてはおれないレベルです。
さて、今回の両書は、蘇我氏に関する本であるため、厩戸皇子については、新しい発見や資料の従来の読みの訂正などはされていません。吉村氏の場合は、2002年に同じ岩波新書で『聖徳太子』を刊行していますので、そちらに譲ったということもあるのでしょう。太子に関する以後の研究の進展が盛り込まれるかと期待していたところ、そうなってはいませんでした。
ですから、その点では両書は、太子に関連する最新研究を考慮していて新発見や新解釈が多い私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(こちら)とは、互いに補完し合う関係ということになります。
なお、吉村氏が「厩戸皇子」という一般的な呼称を使っているのに対し、倉本氏は「厩戸王子」という呼称を用いていますが、これは問題でしょう。
虚構説が説く「厩戸王」を避け、また「皇子」は律令制に基づく用語であるため避けたのでしょうが、『日本書紀』では、「王子」という語は新羅や百済の王の子について用いるのが通例であって、入鹿が子のことを「王子」と呼ばせたなどという例しかありません。「王子」という語を使うのであれば、何らかの説明をつける必要があるでしょう。