聖徳太子研究の最前線

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「太子」という呼称をめぐる問題: 本間満「景行記の三太子伝承について」

2011年11月01日 | 論文・研究書紹介
 このところ、「上宮厩戸豊聡耳太子」という尊称のうちの個々の語について、とびとびに見てきましたが、今回は「太子」検討の続編です。

 とりあげるのは、<聖徳太子>は理想的な天子像を示すために『日本書紀』の最終編纂段階で創作されたとする大山誠一説の登場とほぼ同時期に、「理想的な天子像」ではなく、「古代の理想的な皇太子像として書記編者が造作したもの」(「古代皇太子制度の一研究--厩戸皇子との関連で--」、『唱和薬科大学紀要 人文・社会・自然』32号、1998年)と論じていた本間満氏の最新論文、

本間満「景行記の三太子伝承について--ヤマトタケルの命を中心に--」
(『昭和薬科大学紀要』45号、2011年2月)

です。本間氏は、『アリーナ 2008』(2008年3月)の聖徳太子特集では「聖徳太子研究へのアプローチ」を寄稿し、「基本的な史料批判が重要」と論じ、大兄制がおこなわれていた推古朝時代に聖徳太子の立太子や皇太子執政はありえないとしていました。

 その本間氏が今回の論考で扱っているのは、大山説では聖徳太子とともに「聖天子像を担う存在として創造された」とされるヤマトタケルを中心とした『古事記』景行天皇記事に見える太子たちです。

 氏は、まず、『続日本紀』大宝2年(702)8月癸卯条に「倭建命の墓に震る[落雷があった]。使を遣りて之を祭る」とあることに注目します。『日本書紀』編纂以前に、既に「やまとたけるのみこと」の墓が作られ、天皇陵扱いされていたのです。『延喜式』でも、鈴鹿郡の「日本武尊」の陵墓は「東西二町南北二町、守戸三戸」と記されています。

 『古事記』景行記は実際にはほとんど倭建命の伝承であって、歌謡が中心になっており、東征を命じられると父は自分を死なせたいのかと歎くなど率直な心情が描かれているのに対し、『日本書紀』景行紀では日本武尊と記され、意気地ない兄に代わって進んで東征を申し出て天皇に賞賛されており、以後も天皇に忠実であったことが強調されています。

 『日本書紀』では作為が強まっているようで、本間氏が着目するのは、日本武尊がクマソタケルを殺すのは「年十六」の時、そして太子である厩戸が守屋征伐で活躍するのが「年十五六」の時、そして、『日本書紀』編纂時の為政者につながる中大兄(天智天皇)が父舒明天皇の殯において皇太子として「年十六にして誄す」とあるようにしのび言を奏上していることです。本間氏は、皇太子伝承と「十六歳」という点が関わるらしいと見ています。

 一方、景行記では、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命「三王」は、いずれも「太子の名を負う」と記されていますが、この部分は『日本書紀』にはありません。このため、「太子」とは「皇太子」の略なのか、天皇の候補者の一人ということなのか、単に長子を指すのか、宣長以来、研究者の間で諸説が出されて来ました。
 
 この場合、「太子」をヒツギノミコと訓読することが問題となりますが、本間氏は、「太子=ヒツギノミコ」説を批判し、ヒツギノミコという訓読が生まれたのは『日本書紀』講読時であってこの訓が有力になったのは平安末期だと見る川田康幸氏の説を評価します。

 そして、『古事記』における系譜の特徴やヤマトタケルノの命の活躍と父の景行天皇の影の薄さを考えると、本来は一つの人格であったものを二つに分け、一人は天皇とし、一人は太子としての皇族将軍として記述したのではないかと推測するのですが、この辺はやや論証不足のように見えます。

 本間氏は、この他、様々な「太子」について検討した後、仲哀天皇の父とされる小碓命(倭建命)、顕宗・仁賢天皇の父とされる市辺押磐皇子、舒明・皇極(斉明)・孝徳・天智・天武へとつながる押坂彦人大兄皇子、『日本書紀』では「皇子尊(みこのみこと)」と尊称される草壁皇子などは、いずれも天皇の子でありながら即位できなかったが、その後に即位した子孫によって天皇号や皇祖という称号が贈られたのであって、これらの皇子に関する「太子、皇太子、立太子」記事は後世の作為と見ます。

 そして、同様に「皇子尊(命)」と称されている厩戸皇子と高市皇子の場合も、「追称的・尊称的な意味が付加されていたと考えられる」(40頁)とするのですが、この二人を同じ扱いにして良いものかどうか。天武天皇の長子であって太政大臣となった高市皇子の場合は、天皇にはなっていないものの、資格は十分あったうえ、自分も息子の長屋王も天皇・皇太子に次ぐ最高位に達していて勢力をほこっていたわけですが、厩戸皇子の場合は、子孫はそうなっていません。

 本間氏は、「ヤマトタケルの命は天皇と天皇をつなぐ存在」であり、「皇位はこの英雄の子でなくてはならなかった」(42頁)とするものの、厩戸皇子の状況は違います。ということで、この本間論文により「太子」の性格は前より明らかになって来ましたが、上宮厩戸豊聡耳太子の「太子」については、相変わらず謎が残ることとなりました。