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倭と隋の交渉は仏教的外交の一例: 河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』

2011年11月18日 | 論文・研究書紹介
 仏教系の変格漢文に関する講義と某記念大会での発表を終え、儒教の名門出身である旧友の権坦俊さんに案内されて安東などの地方を回り、観光地図にも文化財として載っている権さんの実家や親戚の家で1660年建設だという書院の一室などに泊めてもらいながら、印象深い古寺や儒教の旧蹟を参観して来ました。

 今回の韓国行のうち、このブログに関係があるのは、ソウルの国立中央博物館で見た「韓国古代文字展」でしょうか。韓国語学の鄭在永さんや韓国史学の崔植さんと一緒に見学したのですが、変格漢文が見える有名な石碑や史料の本物や複製が多数展示されており、鄭さんが提供したという角筆も並んでいました。『日本書紀』や三経義疏の変格漢文を解明するには、こうした古代韓国の文字史料を扱っている研究者たちとの共同研究が必要であって、実際にそうしたプロジェクトも動き出す予定です。

 さて、訪韓前には刊行されたばかりの新著、森博達『日本書紀 成立の真実』を紹介したため、新刊つながりということで、今回は、以前このブログで「仏教色が濃い上表文」に関する論文を紹介した河上さんの新著、

河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』
(山川出版社、2011年10月、5000円)

です。その論文を含め、学会誌に発表されて高く評価された諸論文を補訂して収録した本書の構成は、以下の通り。

 序論
 第一部 遣隋使と仏教
  第一章「南北朝~隋代における仏教と対中国交渉」
  第二章「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について
       …南海諸国の上表文の検討を中心に…」
  第三章「隋代仏教の系譜…菩薩戒を中心として…」
  第四章「遣隋使と仏教」
 第二部 唐の皇帝と天皇と受菩薩戒
  第一章「唐の皇帝の受菩薩戒……第一期を中心に」
  第二章「唐の皇帝の受菩薩戒……第二期を中心に」
  第三章「唐の皇帝の受菩薩戒……第三期を中心に」
  第四章「唐代における仏教と対中交渉」
  第五章「聖武・孝謙・称徳朝における仏教の政治的意義」
 結論
 索引

 百済から日本への仏教公伝については、百済・新羅・高句麗が敵対する厳しい状況の中で対外交渉の一環として行われたとする見方が一般的ですが、河上さんは、そうした状況は東アジアだけのことでなく、インド・セイロン・東南アジア・中国の北部と西部の諸国など、中国と対外関係があったかなりの国が仏教色の濃い外交をおこなっていたことに着目します。その最初の例は、南海諸国が南朝の宋の皇帝に呈上した上表文です。本書は、先行研究を踏まえながら、当時の交渉の実態についてより具体的に検討しています。

 「海西の菩薩天子」あての国書と留学僧たちを隋に送った倭国について考えるには、もちろん、南北朝期から隋代にかけて諸国が中国相手におこなっていた、こうした仏教的外交を考慮する必要があります。本書ではそうした外交には、(1)皇帝や中国を仏教風に賞賛するもの、(2)仏教の文物を献上品とするもの、(3)仏教的文物を下賜してくれるよう要求するなどして中国仏教導入の姿勢を示すもの、など様々なタイプがあったこと、遣隋使は従来考えられてきたより「仏教色が濃い」ことなどを明らかにしています。実際、新羅・高句麗・百済も隋との交渉において「仏教色を強調していた」ことが指摘されています。

 なお、菩薩戒を受ければ、中国皇帝は以後は菩薩として衆生救済に励むことになるため、皇帝としての治国の仕事と菩薩の活動とが重なってきます。つまり、皇帝の権力が仏教によっても保証され、補強されることになるのです。梁の武帝などは、自ら授戒法を撰述し、周辺の人々にそれによって受戒するよう勧めていたほどです。

 武帝以後、北朝でも隋でも菩薩戒を受ける皇帝が増えており、隋の文帝も煬帝も菩薩戒を受けていますが、そうした情報は百済経由で倭国にも伝わっていたはずです。河上さんは、そのような皇帝が戦争をすることと菩薩戒を保つこととをどう正当化したかについても触れています。

 本書によって、倭国の対隋外交の背景がかなり明らかになりました。聖徳太子研究者だけでなく、日本史、東洋史、仏教史その他、この前後の時期の外交交渉と関わる関連分野の研究者にとって必読の労作です。

 こうなると、倭国の王や上層部はどのような系統の菩薩戒を受けていたのかが気になってきますね。梁の武帝が制定した授戒法は、勅命で書写させた梁代の写本が敦煌出土の写本中に残っており、昨年の大学院の授業でその一部を読みましたが、雑な読み方だったので、もう少しきちんと読み直してみましょう。

 河上さんのこの本によれば、隋には、仏教におぼれて反乱の中で滅びた梁を「亡国」と位置づけてその習俗に従わない面と、南朝の貴族文化を発展させたその文化を高く評価する面が、ともにあった由。
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