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高句麗の影響も受けた神聖な王族の血統意識:小宮秀陵「6世紀新羅における大王号の使用とその意義」

2024年11月21日 | 論文・研究書紹介

小宮秀陵「6世紀新羅における大王号の使用とその意義」
(佐川英治編『多元的中華世界の形成―東アジアの「古代末期」―』、臨川書店、2023年)

です。小宮氏は、ソウル大学で学位を得た朝鮮古代史研究者です。

 新羅は高句麗に従属していた状態から脱し、高句麗に対抗できる国家として自立すると大王(太王)を名乗るようになります。この王号に関連して様々な改革がなされますが、この問題を検討したのが、


です。小宮氏は、ソウル大学で学位を得た古代朝鮮史の研究者です。

 新羅で大王号が用いられたのは、智証王の時代(500-514)からです。智証王は503年に臣下たちから「新羅国王」という尊号を献上され、新羅が成立します。臣下の奏上では、「羅」については、「四方を(網)羅するの義」と述べていました。つまり、小中華ですね。

 それ以前、中国北地を押さえていた苻堅は、初めは皇帝を名乗らず、「天王」と称していました。また、高句麗でも4世紀から「太王」を名乗るようになっていました。北方遊牧民族が支配した北魏でも、皇帝号と遊牧民族の長の称号である可汗を使い分けており、北燕までは遊牧民族系が支配した国では「天王」や皇帝を名乗る国が興亡を繰り返していました。

 新羅では、智証王の次の法興王の代(514-540)に「寐錦+王」という新羅語と漢字の「王」を組み合わせた称号が見えています。これは、それ以前の新羅では、高句麗王を「高麗大王」と呼び、新羅の王については「新羅寐錦」などと称していたものです。

 それが535年の川前里書石の銘文では「聖法興大王」、539年の川前里書石の追銘では法興王の妃を「太王妃」と称しています。この時期に伝統的な寐錦から大王号に返歌したのです。小宮氏はこの箇所では触れていませんが、この法興王は仏教を導入して盛んにした王であることが注目されます。

 さて、高句麗では大王と名乗りつつ伝統的な観念に基づき、高句麗の始祖については「天帝之子」「日月之子」などと称していました。これは『隋書』に見える第一回目の倭国の使使いが述べた「倭王は天を兄とし、日を弟とする」という言葉を考えるうえでも重要ですね。

 法興王は、大王号を用いた翌年、建元(536-550)という年号を立てており、これが真興王まで続き、真興王は、開国(531-567)・大昌(568-571)・鴻済(572-584)という三つの年号を用いています。

 法興王は、その前の520年に律令を発布して公服と位階を定め、527年の異次頓の殉教をきっかけとして仏教公認をしています。つまり、これらは連動した出来事だったわけです。

 法興王を受け継いだ真興王は、国史の編纂を進めています。この時期に百済は領地を広げており、565年には北朝である北斉から冊封を受けるに至っています。その前の561年に支配した伽耶の地に立てられた石碑には、「四方軍主」という語が見えており、小中華主義がうかがわれます。

 なお、新羅では中国皇帝のように「詔」の語を用いることができなかったため、「教」を用いていましたが、国王だけでなく、王族もこの語を使っていたのが、6世紀半ばにかけて、国王だけが「教」の字を用いるようになる由。
 
 「太王」とか「大王」と記された真興王が征服した土地を巡狩して立てた石碑には、「道人」とか「沙門道人」などの語が見えており、磨雲嶺碑・黄草嶺碑では、法蔵と慧忍という僧侶の名が従者の筆頭に、つまり貴族たちより先に置かれています。彼らが中国思想と仏教に通じていて文章なども担当したのでしょう。

 この論文は最近の研究成果に基づいて興味深い指摘が数多くなされており、有益です。倭国の王号・年号・外交・制度改革・国史編纂などを考えるには必読ですね。朝鮮諸国の上に立っていることを自負していた倭国が、上記のような動向を目にして、それに対抗しようとしないはずがありません。

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