このブログを8月に復活させて以来、紹介してきた論文は、聖徳太子と後に呼ばれるようになった人物の活動を認めるものがほとんどでした。これは意図してそのような論文を選んでいるのではありません。最近の論文は、実際にそうした方向のものが多いからです。
まともな学術雑誌に、かつての「聖徳太子不在説」の立場で書かれたものが載った最近の例は、先日の『教化研究』に私の講演と並んで掲載された吉田一彦さんの「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」くらいではないでしょうか。これまでの行きがかり上、誤りを認めにくいであろう吉田さんにしても、かなり前から研究の軸足を神仏習合や中世などに移しており、厩戸皇子や『日本書紀』に関する新しい発見・解釈に基づく論文は長らく発表していません。
むろん、聖徳太子の伝承は誇張されていたり、後代に創作されたりしたものが多く、そうした観点からの太子の事績をされるものを疑う研究はたくさんなされてきましたし、今後もそうした研究は進めていく必要があります。ただ、最近はゆきすぎた「不在説」を見直そうとする研究が多くなっているのです。そうした中で、太子の役割を疑う立場で書かれた珍しい論文が、
中田興吉「冠位十二階の制定とその特質」
(『日本歴史』821号、2016年10月)
です。
古代史研究者の中田氏は、太子神話化文献の代表である『聖徳太子伝暦』では、推古11年(603)12月のこととして「太子始製五行之位。徳仁義礼智信、各有大小、合十二階」と記し、太子が冠位十二階を制定したと述べているものの、『日本書紀』では、同年12月条において「始行冠位……并十二階」と記すのみで制定者に触れていないことに注意します。また、『上宮太子法王帝説』では「上宮厩戸豊聡耳命、島大臣(馬子)、共輔天下政。……制爵十二級」、「乙丑年五月……聖徳王与島大臣、……即准五行定爵位也」とあって、太子と馬子が推古天皇の政治を補佐し、冠位十二階も定めたとしており、時期も推古十三年(605)としていることを重く見ます。
中田氏は、隋との関係や『法王帝説』の記述から見て、冠位の制定は推古十三年五月であるとしたうえで、誰が中心になって制定したか検討してゆきます。そして、大化の改新以前では、天皇の後継予定者が政治的な発言をした形跡がないとし、推古天皇の後継予定者はその長子の竹田皇子であったと論じます。
そして、その竹田皇子が死んだことによって厩戸が後継者となったものの、大臣の馬子は「まだ厩戸の体制が整わないうちに先手を打ち、蘇我氏中心の冠位十二階を制定、施行しようとしたのではないか」と説くのです。まあ、想像ですね。
これだと、豪族の蘇我氏 vs. 皇族の厩戸、という対立の図式になりますが、中田氏は、厩戸は父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇後継者候補であって、しかも、馬子の娘を妃としていたことを忘れているのでないでしょうか。少し前の記事で書いたように、太子道は、太子の宮が建設された斑鳩と都である飛鳥の馬子の邸宅をつなぐものと推測されていますし、瓦が示すように、法隆寺は馬子の飛鳥寺建立に関わった系統の技術者を使って立てられています。
中国北朝の北方民族国家や新羅の例などを見ても、豪族協議の伝統が続いており、国王の権力が弱かった国が、皇帝を絶対的な存在とする中国の制度を受け入れようとして、ある有力な豪族(外戚の場合も多い)が国王の権力を強めつつ、その補佐として実権を握る例は少なくありません。その場合、その豪族と国王の利害は一致しているのです。それに、厩戸は推古天皇から見れば、兄の子であって甥であり、しかも、推古は自分の娘を太子に嫁がせていました。
中田氏のこの論文は、冠位を授けられた人たちの考察など、有意義な点があるものの、当時の状況を、横暴な蘇我氏と天皇家の主導権争いとみなす戦前の古い史観に基づいているように見えます。
結論では、冠位十二階について、「その制定作業は途中から後継予定者と認められた厩戸皇子を交えておこなわれたが、厩戸の地位が公認されて間もなかったため、馬子の主導が可能であったのである」(13頁下)と述べていますが、想像ですね。当時の一番の実権者が馬子であったのは事実ですし、推古天皇についても単なるお飾りではなく、判断力と発言力を持っていたと見る研究が増えており、聖徳太子がすべて仕切ったとする『伝暦』などの記述はむろん誤りです。ただ、専横豪族と天皇家の対立という図式ですべてを割り切るのは無理でしょう。
年若い厩戸の発言権がどの程度だったかは不明ですが、少なくとも、「馬子主導のもとになされた」遣隋使の派遣が失敗したため、「馬子はいかに体勢を立て直すかに腐心し、冠位の制定を思い立つに及んだのではないか。……(厩戸は)公的な発言権がなったこともあって、この馬子の姿勢に圧され、馬子の案を承認したのである」(5頁下~6頁上)などと断定した部分は、大山説と同様、「橫で見てたんですか?」と言いたくなる類の想像過多の古代史小説としか思われません。
まともな学術雑誌に、かつての「聖徳太子不在説」の立場で書かれたものが載った最近の例は、先日の『教化研究』に私の講演と並んで掲載された吉田一彦さんの「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」くらいではないでしょうか。これまでの行きがかり上、誤りを認めにくいであろう吉田さんにしても、かなり前から研究の軸足を神仏習合や中世などに移しており、厩戸皇子や『日本書紀』に関する新しい発見・解釈に基づく論文は長らく発表していません。
むろん、聖徳太子の伝承は誇張されていたり、後代に創作されたりしたものが多く、そうした観点からの太子の事績をされるものを疑う研究はたくさんなされてきましたし、今後もそうした研究は進めていく必要があります。ただ、最近はゆきすぎた「不在説」を見直そうとする研究が多くなっているのです。そうした中で、太子の役割を疑う立場で書かれた珍しい論文が、
中田興吉「冠位十二階の制定とその特質」
(『日本歴史』821号、2016年10月)
です。
古代史研究者の中田氏は、太子神話化文献の代表である『聖徳太子伝暦』では、推古11年(603)12月のこととして「太子始製五行之位。徳仁義礼智信、各有大小、合十二階」と記し、太子が冠位十二階を制定したと述べているものの、『日本書紀』では、同年12月条において「始行冠位……并十二階」と記すのみで制定者に触れていないことに注意します。また、『上宮太子法王帝説』では「上宮厩戸豊聡耳命、島大臣(馬子)、共輔天下政。……制爵十二級」、「乙丑年五月……聖徳王与島大臣、……即准五行定爵位也」とあって、太子と馬子が推古天皇の政治を補佐し、冠位十二階も定めたとしており、時期も推古十三年(605)としていることを重く見ます。
中田氏は、隋との関係や『法王帝説』の記述から見て、冠位の制定は推古十三年五月であるとしたうえで、誰が中心になって制定したか検討してゆきます。そして、大化の改新以前では、天皇の後継予定者が政治的な発言をした形跡がないとし、推古天皇の後継予定者はその長子の竹田皇子であったと論じます。
そして、その竹田皇子が死んだことによって厩戸が後継者となったものの、大臣の馬子は「まだ厩戸の体制が整わないうちに先手を打ち、蘇我氏中心の冠位十二階を制定、施行しようとしたのではないか」と説くのです。まあ、想像ですね。
これだと、豪族の蘇我氏 vs. 皇族の厩戸、という対立の図式になりますが、中田氏は、厩戸は父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇後継者候補であって、しかも、馬子の娘を妃としていたことを忘れているのでないでしょうか。少し前の記事で書いたように、太子道は、太子の宮が建設された斑鳩と都である飛鳥の馬子の邸宅をつなぐものと推測されていますし、瓦が示すように、法隆寺は馬子の飛鳥寺建立に関わった系統の技術者を使って立てられています。
中国北朝の北方民族国家や新羅の例などを見ても、豪族協議の伝統が続いており、国王の権力が弱かった国が、皇帝を絶対的な存在とする中国の制度を受け入れようとして、ある有力な豪族(外戚の場合も多い)が国王の権力を強めつつ、その補佐として実権を握る例は少なくありません。その場合、その豪族と国王の利害は一致しているのです。それに、厩戸は推古天皇から見れば、兄の子であって甥であり、しかも、推古は自分の娘を太子に嫁がせていました。
中田氏のこの論文は、冠位を授けられた人たちの考察など、有意義な点があるものの、当時の状況を、横暴な蘇我氏と天皇家の主導権争いとみなす戦前の古い史観に基づいているように見えます。
結論では、冠位十二階について、「その制定作業は途中から後継予定者と認められた厩戸皇子を交えておこなわれたが、厩戸の地位が公認されて間もなかったため、馬子の主導が可能であったのである」(13頁下)と述べていますが、想像ですね。当時の一番の実権者が馬子であったのは事実ですし、推古天皇についても単なるお飾りではなく、判断力と発言力を持っていたと見る研究が増えており、聖徳太子がすべて仕切ったとする『伝暦』などの記述はむろん誤りです。ただ、専横豪族と天皇家の対立という図式ですべてを割り切るのは無理でしょう。
年若い厩戸の発言権がどの程度だったかは不明ですが、少なくとも、「馬子主導のもとになされた」遣隋使の派遣が失敗したため、「馬子はいかに体勢を立て直すかに腐心し、冠位の制定を思い立つに及んだのではないか。……(厩戸は)公的な発言権がなったこともあって、この馬子の姿勢に圧され、馬子の案を承認したのである」(5頁下~6頁上)などと断定した部分は、大山説と同様、「橫で見てたんですか?」と言いたくなる類の想像過多の古代史小説としか思われません。