聖徳太子研究の最前線

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法隆寺移築説:井上章一「史料と建築様式の矛盾を克服するー法隆寺の再建をめぐってー」

2020年09月29日 | 論文・研究書紹介
 日本の近代的な仏教美術史や建築史という学問は、法隆寺の再建・非再建をめぐる激しい論争の中で育ち、鍛えられたことは良く知られています。百論百出であったこの論争は、若草伽藍の発掘により、新たな展開を見せました。

 天智天皇9年(670年)に法隆寺が焼失したとする『日本書紀』の記述については疑う研究者も少なくありませんでしたが、昭和14年に始まった発掘により、現在の法隆寺の東南の原っぱから、方位が西に約20度ずれた形で現在の法隆寺と同じ大きさの金堂の跡、しかも中門・五重塔・金堂が一直線に並ぶという、古い四天王寺形式の寺の跡が出てきてしまったのです。

 論争はこれで打ち止めとなり、再建説で確定となるはずでした。しかし、以後も論争は続きました。というのも、7世紀後半から8世紀初めに再建されたはずの法隆寺は、形式があまりにも古く、同じ時期に建てられた薬師寺などの唐風な様式と違いすぎていたからです。そのため、焼失したのは、皇極年(643) 年に、蘇我入鹿が差し向けた軍勢によって聖徳太子の長男である山背大兄が住む斑鳩宮が焼かれた際であって、この時、隣接する斑鳩寺も焼けたのであり、再建は7世紀後半よりかなり前だとする福山説なども提示されました。

 また、皇極2年(643)に建立された山田寺の金堂の東回廊が、昭和57年(1982)にほぼそのままの形で発見され、法隆寺の形式に近いことがわかると、論争はまた盛んになりました。さらにこの問題に注目が集まったのは、法隆寺の五重塔の心柱の根元を切り取った部分の年輪の研究が、意外な結論に至ったからです。光谷拓実氏は、『年輪年代法と文化財』(『日本の美術』421号、至文堂、2001年)で、この柱は推古2年(594)に切られたと推定し、話題を呼びました。

 数年の誤差があったとしても、この心柱は、蘇我馬子が建てた日本最初の本格的な寺である飛鳥寺(法興寺)の建立中の時期に切られたことになります。むろん、修理などのために蓄えられていた木材で建てることもあるでしょう。実際、法隆寺には、聖徳太子が寺のどこかに木材をたくわえさせたという伝承があります。

 ただ、法隆寺金堂や五重塔の他の部分の建築部材を調査した光谷氏は、心柱以外は、624年から663年頃に伐採されていることを明らかにしました。

 こうした状況において、この問題をとりあげたのが、

井上章一「史料と建築様式の矛盾を克服するー法隆寺の再建をめぐってー」
(佐藤文子・吉田一彦編『日本宗教史6 日本宗教史研究の軌跡』、吉川弘文館、2020年)

です。奥付は10月1日刊行となってますので、現時点では近日刊行ということになりますが、編者の佐藤さんから既に頂きました。

 これまで文化史的な立場で法隆寺について書いてこられた井上氏は、聖徳太子尊崇の風潮のもとで、太子が建てた斑鳩寺(若草伽藍)に近い古い様式で建てようとしたとしても、技術が進んだ時代になっていれば古い様式を完全に守って建てるのは不可能とし、実際、法隆寺には一部にせよ新しい要素も見られる点に注目します。そして、これまでの諸説には、再建を認めつつも現在の法隆寺の建立をできるだけ古い時代、つまり聖徳太子の時代に近づけようとする傾向が見られることを指摘します。

 そのうえで、氏は結論において、

「どこかの古寺が解体され、分解された部材が斑鳩へはこびこまれる。それらを、ふたたびくみたてなおしたのが今の法隆寺だとみなせば、新しい要素の混入もおのずとうなずける」(154頁)

と述べ、「古建築の再利用じたいは、飛鳥時代や奈良時代にもよくあった」と説きます。そして、こうした移築説は法隆寺幻想のファンからは、「セコハンあつかいをいやがられるかもしれないが」と述べてしめくくっています。

 これは、法隆寺の柱のエンタシスをギリシャの影響と見なす風潮など、法隆寺に関する通説を、常識にとらわれない自由な視点から大胆に見直した好著、『法隆寺への精神史』(好文堂、1994年)を書いた井上氏らしい主張です。確かに移築の可能性は否定できませんが、移築説を論証するには、どの場所にあった寺が解体されて運ばれたのかを示さねばならないでしょう。つまり、斑鳩であれ飛鳥であれ、柱跡の大きさや間隔などから見て現在の法隆寺と同じ規模の寺を解体した跡だと思われる遺跡が発見されないと、証明は困難です。

 また、現在の法隆寺の金堂の柱を支える石には、焼けた痕跡が発掘されている若草伽藍の楚石が用いられていることも知られています。移築の可能性はあるものの、論証は難しいのです。本論文の意義の一つは、諸説の背景にあるものを明確に示したことでしょうか。

 なお、井上氏は、「八世紀のはじめごろに、聖徳太子像の荘厳化ははじまっていた」(163頁)と述べておられますが、古代にあっては権力者ないしそれに近い人物については、生きている時から神格化した言説が流されるのがアジア諸国の通例であることは、このブログで何度も書いてきた通りです。

 むろん、死後に伝説化が進むのが普通ですが、神格化は死後かなりたってから始まるとは限らないのです。太子関連史料を正確に読み直すと、これまでとは違った面が見えてきます。これについては、別の記事で書きます。