苦しみ

2022年02月08日 | 苦痛の価値論
2-4. 苦しみ
 苦しみは、痛みとは区別される。胃や喉が、痛いのと、苦しいのとは異なる。痛いのは、その胃とか喉とかの部位が損傷を受けて、その傷に痛みの感覚をもち、痛みの感情反応をするものである。だが、胃が苦しいという場合は、満腹状態などで胃がもうこれ以上の受け入れを拒否しているような時とか、激痛が続いて他のことが手につかず七転八倒し耐えがたいような時にいう。胃が、もっと食べたいという自身の欲求を受けつけないとか、胃の痛みを静かにさせておきたいという思いをまったく受けつけず、自身の思いを阻止・妨害していることに対していだく感情反応であろう。私の思いを通してくれない、その思いの損なわれ抑止された状態に、苦しさを抱くのであろう。
 のどの苦しさの場合も同様であろう。痛みは、のどが炎症を起したり、魚の骨が刺さって、その傷んだ部位が痛いのであり、それに痛み反応をしての感情である。だが、苦しいという場合は、のどにものが詰まって苦しいのは、私が呑み込もうとするのに、その思いを通すことができない状態になっていて、自身の思いを阻止されての阻害・妨害に対して、生の健やかさの損なわれた状態に、私が苦しさを感じるのであろう。苦しさは、もっと食べたいのに、息をしたいのに出来ないという、ひとの「したい」「ほしい」といった欲求・衝動が損なわれ抑止されるところに、その思いを妨害し阻害する事態に対していだくものだといってよいであろう。
 忍耐の対象は苦痛であり、苦痛は、損傷による。損傷は、生の部分的な破壊、受傷と言うことであるが、忍耐の対象ということで広くとれば、他方では、内的な生動性を損なっての欲求等の不充足という欠損状態、健やかさの損なわれた状態(その不充足は、欲求・衝動が損なわれ損傷をうけた状態)でもありうる。忍耐の対象の苦痛と損傷は、受傷への痛みと、欠損への苦しみということになる。痛みは、受傷しての傷み、損傷への感情反応であり、他方、苦しみは、生動的欲求・衝動等の不充足という、健やかさの損なわれ欠損した状態への、生動的な思いへの妨害・阻害に対する感情反応ということになろうか。痛み感情は、損傷個所の痛み感覚とひとつにして感じるように、苦しみも、自身の思いが損なわれ阻止された不快感情をその胃や喉という部位の緊張・疲労等不調の感覚に投影して、胃や喉の苦しみを抱くことになるのであろう。
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