痛み自体は、そのままにして、これを穏やかにもできる

2022年02月01日 | 苦痛の価値論
2-3-6-1. 痛み自体は、そのままにして、これを穏やかにもできる
 ひとの意識は一つのことに集中するから、痛みが生じていても、痛み以外に意識が向くとその痛みは感じることがなくなる。戦闘状態では、大けがをしても、これに気づかず、痛みを感じることがないといったことになる。他のことに気を取られていて、小さな傷には気づかず、痛みを感じることがないといったことはよく起こる。 
 精神的な痛みでは、心のうちの損傷・喪失の解釈を変えることで、痛みを軽減することが可能である。母親の死に悲痛の思いをいだいたとしても、「長患いせずに、あの世にいけたのだから、父親のもとに逝ったのだから、よしとしなければならない」と思い直せば、落ち着けることである。その死を喪失とばかりに解釈しないなら、痛みの感情は小さくて済むであろう。あるいは、精神的に痛みを感じていても、意識を奪うような大きな事態に出合うと、そういう風にもっていけば、心の痛みは消えてしまう。仕事に専念して悲しみを忘れるということは、よくいう。もちろん、意識を奪うような大事がなくなったら、また、もとの痛みは再開する。消えたのではなく、意識の底に沈んでいただけで、重大事が消えることで、再度浮上してきたのである。
 注射の痛みに過敏な人がいる。が、これも、何回も経験していると、しだいに慣れてくる。はじめは、過剰に反応して過度に苦痛を感じていても、過剰反応をおさめて、だんだんと、その痛みに慣れてくる。注射針を見なければいいのだ等と痛みの受け止め方にも工夫ができてきて痛みは小さくなる。蚊に刺されることには、慣れていないと気になるが、自然の中で、刺され続けていると、何でもなくなる。刺された跡があるので、刺されたのかと分かるだけになってもいく。食べ物ではその悪臭が苦痛になるものがある。だが、これには、おいしければ慣れてきて、悪臭と感じなくなっていく。暑さも寒さも、苦痛であっても、慣れれば、少々のことなら平気になる。
 慣れることは、皮膚の場合など、苦痛に慣れることとともに、損傷に慣れてくるということもある。裸足では、すぐに足を傷めて痛むことになるが、裸足が普通のことになると、大昔はそうであったように足の表皮が厚くなって損傷しにくくなり、当然、痛みも生じなくなっていく。精神的な痛みも、慣れると、鈍感になるのが普通であろう。はじめは罵声におびえて苦痛を感じていても、それが普通となって、犬の遠吠えぐらいにみなして平気になる。過敏になっている感度を、意識的に或いは無意識的に下げることは、苦痛に対処する多くの場面で取られることである。