忍耐は、万般にわたるが、身体をもつ個我に限定したこと

2019年07月18日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-5-1. 忍耐は、万般にわたるが、身体をもつ個我に限定したこと
知性のみ理性のみの事柄には、忍耐はいらない。快不快は身体的反応をもった感情の事柄であるから、肉体・身体をもたないところでは、苦痛への忍耐も働きようがない。理性そのものは、快不快によってではなく、真偽・善悪等を価値基準にして動く。
 立腹が、かりに理性のもとでのみ展開することがあったとすると、これに身体反応としての感情がない場合は、ごくごく冷静にことを展開していく。気障りな相手と判定してこれに懲罰が必要と立腹したとしても、感情的なものがないなら、淡々とこの懲罰を行っていくことであろう。怒りは過度にも過少にもならず、その仕打ちの程度を知り、これにふさわしい仕返し・懲罰を考え、適切な手段を見出してこれを実行するばかりである。不快も快もなければ、怒りの衝動で見境ない反応をすることもない。このような展開は、自分の感情を交えない懲罰は、自分に関係のない喧嘩への助太刀などで、通常でも行っていることである。戦争を指導する者は、おそらく感情的になっては見境なくなるから、ごくごく合理的に冷静にことを取り仕切る。おのれの個我のこととして感情的になるところでは、激怒にかられて取り返しのつかないことをする場合がある。が、冷静に合理的に展開するならば、理不尽な仕打ちに対しては、なぐったり殺めて憂さ晴らしするのではなく、第三者としての弁護士がするように、冷ややかに計算して損害賠償を求めるだけのことである。
 こういう没感情の場では、快不快なく快抑制の不快も苦痛もなく、したがって、忍耐も無用となる。忍耐が登場するのは、快苦の感情があり、したがって身体がある個別個我のもとに限定される。個我は、理性でもってことの真偽を知り善悪等を知って、これらの価値基準のもとに立つことができるが、その同じ個我のうちにある感情・快不快の価値基準では、合理的に判断しての真や善が取られるとは限らない。個我は、自己中心的である。常に世界の中心に自分をおく。各自の身体のもとでの個我の好都合を快と感じ、不都合を不快・苦痛とする。快をとり、不快を避ける。個我のもとでの快不快だから、自分(や家族といった拡大した自分)が傷つけば苦痛だが、他人が傷ついても不快は生じない。快不快の感情は、高度の精神世界のことでも個我のもとで生じて、国家や宗教について、自分が属しているものには個我を拡大した感情をもつ。自分の国家が損をすれば、悲しく不快になり、自分の宗教がけなされると自分がけなされているように不快感を生じる。したがって、個我において、その属する諸組織の利益不利益の問題などへの苦痛・不快に対処する忍耐が必要となる。