辛苦に耐え安寧の未来を求めるキリスト教など

2019年07月05日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-4-3. 辛苦に耐え安寧の未来を求めるキリスト教など
 忍耐を必要とするような状態が重なると、ひとは、この世は苦に満ち満ちていると嘆きたくなる。仏教のみでなく、キリスト教でも神道でも、神仏にすがりつきたくなるのは、苦が耐え難くなるときである。仏教は、苦を無化するが、ほかの宗教では、苦をもっと積極的なものとみなす。神頼みをするとき、普通は、(この世の忍耐が成果を生み出す道理が、神にも通じるとみて)宗教的な苦痛に忍耐して願を成就しようとする。願を受け入れてもらうために、毎日神社仏閣にでかけお百度を踏む苦労もする。その苦を手段としてそれに見合う願を実現してもらおうというのである。人柱・人身御供も、多大な犠牲を払うことで、願いを神々に聞いてもらおうということであった。苦痛を手段にしての目的の成就であるが、この世でのそれは、大体、価値ある目的へと実在的につながっている。だが、あの世の神々とのかかわりでは、苦痛は現にあるが、成果は単なる願望である。多くの場合、単なる気休めと心得ており、願不成就も覚悟しているのが普通である。ただし、ときには、不成就の場合、神に怒りをぶつけて、ご神体を泥水に投げ入れてうさばらしをするようなこともあった。
 この世の辛苦を忍耐するということでは、キリスト教は、典型的な宗教的な解釈と実践をもっている。キリスト教では、この世の不幸・苦労は、あの世の至福のためにあるという。この世で苦痛を甘受して忍耐することをもって、あの世で幸福が得られるという。したがってこの世の苦・不幸は、実は幸福なのだということにもなる。あるいは、この世の災難は、神が自分を選んで与えてくれた試練と解釈してうけいれる。その苦痛に神を見出すようなことになる(他人の子は無視しても、かわいいわが子であればこそ、嫌いなニンジンを我慢させる)。かりにこの世で苦労と忍耐に見合うものが獲得できないとしても、苦労・苦難の一生であっても、それはあの世への貯金となるもの、積善として受け止めることになる。打ち続く苦痛・不幸に不足を言わずこれに耐えていこうという姿勢を最期まで持ち続けることができる。この世の不幸・悲惨の先をたどっていくとこの世の支配者の金庫につながっていると啓蒙家はいうが、信者は、あの世での至福につながっているという説教の方をありがたがる。