大きな忍耐から逃げるための小さな忍耐がある

2018年09月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4-2. 大きな忍耐から逃げるための小さな忍耐がある
 暴力団の脅しの恐怖に忍耐できず、自殺したというようなニュースを聞くことがある。大きな恐怖・辛苦に忍耐できず命を絶つことは、いじめ・脅迫などで時々ある。命を絶つぐらいなら、命をかけて戦ったらと思うことであるが、おそらく、執拗ないじめに絶望的となり戦う気力さえも奪われた状態になるのであろう。
 死ぬことは、苦痛であり忍耐を要することであるが、自殺する気になったものには、死は、現にある辛いことから自分を救ってくれる唯一の手段と解され、ほとんど我慢もいらないぐらいのものになる。しかし、それは、逃げているのである。楽になりたいということしか思いつかなくなるのであろう。冷静に考えれば、脅迫しているものと戦うべきなのにである。執拗ないじめには、被害者は、勇気を出して、警察にいくとかこれを告発するとか、場合によっては非常手段をとって自分の方からいじめる者をたじろがせ恐怖させるような(武道を習得するなどの)工夫へとエネルギーを注ぐべきであろう。死ぬよりは、過剰防衛でも悪には反撃し鉄拳を下すというぐらいのバイタリティーをもてるようにと、こちらに忍耐力を注ぎたいものである。
 殺されるのは大変な苦痛だろうが、その死さえも、自分で選ぶことがある。いつまでも続く不安とか、絶望の暗黒に閉じ込められての苦悶に忍耐するよりは、自殺時の苦痛の方がましだということである。100メートルの絶壁から飛び降りろと言われたら普段は恐怖に足がすくむが、自殺する者には、生の苦悶からの解放に向かって飛び立つ感じで、恐怖の苦自体はないか小さくなっているのであろう。名誉を守るため、責任をとるためにと尊い命を絶つことがあるが、いじめで自殺するような場合は、生の巨大な苦痛(絶望や悲哀)に耐え切れず、卑屈な忍耐に逃げているだけのように見える。