忍耐は、不屈でありたいが、卑屈なものもある

2018年09月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4-1. 忍耐は、不屈でありたいが、卑屈なものもある
 忍耐強い戦士は、危険への恐怖を忍耐しつづけ、戦う際には心身の疲労の辛さに耐えて果敢に戦い、あるいは、攻撃を自制する必要があればこれも忍耐する。不屈の忍耐である。だが軟弱な者の場合、軽蔑され卑怯だといわれても、恐怖に支配されつつ、侮蔑・嘲笑の眼に忍耐する方を選ぶ。戦う勇気をもてず、尻尾をまいてする卑屈の忍耐もある。
 卑屈な忍耐も、慣れれば平気になってもいく。鈍感になる。自身をおとしめ傷つける悪徳と言ってもいいような忍耐となる。いじめられて我慢するだけでは、おそらく、一層のいじめをもたらすだけとなり、会社でのそれでは、過労死も生じるような悲劇をもたらすことともなる。不当な事には忍耐などせず、苦痛をわめき散らし「助けて」と大声をあげて逃げ回り、あるいは忍耐するのなら、いじめを排除して戦うことにと忍耐力はまわす必要がある。
 戦うべきところで、逃げる手として忍耐をつかえば、卑劣な卑屈な忍耐となる。そこでは、勇気をだし知恵を出して戦う必要があり、泣き寝入りの卑屈の忍耐を選んではならない。いじめが多い社会であるが、暴力などの犯罪には躊躇せず、転校とか転職も考え、あるいは警察沙汰に出来るよう工夫をするとか、裁判に訴えるとかの手間にと忍耐は使用されるべきだろう。身近な者に心配かけてはと黙ってこれを我慢もするが、我慢するところを間違えている。