忍耐は慣れて平気になるとしても、それがいいとは限らない

2018年09月07日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4. 忍耐は慣れて平気になるとしても、それがいいとは限らない
 忍耐は、苦痛にするが、それに慣れると苦でなく平気になるものがある。忍耐無用となるが、かならずしもそれが生にプラスになるとは限らない。本来、苦痛は、生に損傷の生じていることを知らせるものである。苦痛に慣れるといっても、その損傷はそのままに続いている可能性もある。あるいは、悪には慣れれば平気となり、忍耐など無用となる。だが、悪は、悪として持続しているのである。悪に慣れるよりは、悪に対して嫌悪しこれを苦痛とする方がましであろう。塩からいものに慣れていない場合、はじめは我慢して食べることになろう。だが、すぐに慣れて平気になり、のちにはそれが快楽とすらなる。慣れれば、何事も、これが普通のことになる。慣れない方が好ましいこともある。悪いことには未熟にとどまる方がよい。
 過労死は、さんざんに酷使され忍耐させられ通しで、最後、死にいたる、いうなら忍耐死である。忍耐させられて慣れてくると、過労にも鈍感になり、心身がくたくたになっても、これを続けて行ける。ついには、身体が追いつけなくなり、死に到る。忍耐する姿勢自体は尊いけれども、それが貪欲な経営者によって使い捨ての従業員として利用されているだけだとすると、惨めな死である。
 もちろん、使命感を抱かせられるような充実した仕事もあり、その辛苦が社会の危機を救う尊いものであれば、その忍耐はいきる。この夏、タイ北部の洞窟に閉じ込められた13人を救出しようと駆けつけたダイバーの一人が、過酷な長時間の作業の途中で死亡した。覚悟しての志願で尊い犠牲であった。だが、そうではない忍耐が多い。現代日本の過労死は、経営者に使い捨てされるだけの愚かしい忍耐である。忍耐は、自分を犠牲にする非常の手段である。無意味、愚かしい忍耐と分かったら、即刻その忍耐は中止しなくてはならない。