「忍耐する」と「させられる」の区別は、当人次第のところがある

2017年05月05日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-2. 「忍耐する」と「させられる」の区別は、当人次第のところがある
 ひとの忍耐は、自分の理性意志が「忍耐する」自発的なものである。かつ、最後まで感性・個我は、嫌で強制されて「忍耐させられる」のである。苦痛なのだから、気が乗らず、外から強要され懇願されて、「忍耐させられる」ことも多くなる。させられるとしても、自分で自分の苦痛を「忍耐する」のである。受動・能動(強制・自発)の両面をつねにもっての忍耐である。そのときは進んで自分から忍耐していても、あとになって、これを否定的にとらえることが生じたときには、「あのときは忍耐させられた」ということになる。
 忍耐の結果が大きな価値をうみ、価値ある忍耐であった場合は、専らに外的強制によっていたのだとしても、自分が辛苦に耐えたことにはまちがいないから、自分がしたということになる。「忍耐する」自分を前面にだして振り返ることであろう。だが、結果がさんざんだったとすると、ひとのせいにしたくなり、「忍耐させられた」となる。
 ときには、奴隷として、支配者の利益のために自分が命をすり減らし犠牲になり「忍耐させられる」こともある。しかし、ここでも、一面では「忍耐する」のである。忍耐せず暴発して終わってもいいのだが、自分の生命を大切にするために、奴隷として苦痛を「忍耐する」のである。その後、味方が来て解放してくれたりすると、忍耐させられたのだが「忍耐して」よかったという。
 忍耐は、する・させるは、常に両面があることなので、一概にどちらかでは決めにくいものになろう。しても、させられても忍耐は忍耐である。自分がするにしてもひとから強制されるにしても、苦痛は苦痛で変わらず、忍耐は忍耐で変わらず、つらいのである。