忍耐は、学ぶ・育つなどと同じく当人の自発性が中心になろう

2017年05月12日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-2-1. 忍耐は、学ぶ・育つなどと同じく当人の自発性が中心になろう
 「打つ」という場合は、「打たれる」方は、「打つ」面はなく、もっぱら「打たれる」だけであろう。だが、「学ぶ」「育つ」とか「忍耐(我慢・辛抱)する」は、自分のことを自分でするのである。対象も自分になるから(忍耐も、要は、自身の苦痛を忍耐するのである)、自身は能動でありかつ受動ともなる。
 哺乳類の場合、子は、親がしっかりと補助するから、自らに育つのだが育てられることになる。学ぶとか忍耐するのもそういうことになる。忍耐するのが根本だが、忍耐させる、させられることになる。さらに、忍耐の場合は、忍耐させることが利害に直結することもあり(辛苦の労働は、雇い主の富の源泉である)、むりやりの強制が、育つ・学ぶよりは多くなる。被支配者・弱者は、辛苦を忍耐させられることとなる。自発性が根本ではあるが、他者による強制・強要が忍耐する場面にはしばしば見られることになる。 
 他者による強制の「忍耐させる」「させられる」が多いとしても、自分のうちの苦痛を自分が受け入れるのが忍耐の要であり、自分がする気にならないと忍耐は成立しない。学ぶのと同じである。いくら親が強制して机につかせパソコンの学習用の画面を見るようにと学ぶことを強制しても、すきがあれば動画を見ているようでは、学ぶことは成立しない。最後のところは、本人がその気で自発的に学ぶのでなくてはならない。忍耐も同様で、最後は、自分が苦痛を耐えようとすることがなくてはならない。きらいなニンジンを無理やり口にいれて我慢させようとしても、忍耐する気がなければ、吐き出す。わめきちらし口を堅く閉じてしまう。する気になっていなくては、忍耐は、させられない。「打つ」場合は、これが拒否されようと、それは無視して、打つ方が一方的にこれを実現できる。だが、忍耐させることは、学ぶのと同様、当人が受け入れる気になっていないと、自発性がないと、成立しない。