ブレーキは、過不足なく精確に、かつ大胆に

2012年09月06日 | 勇気について

4-4-5.ブレーキは、過不足なく精確に、かつ大胆に。
 大胆・果敢の勇気には、ブレーキをかけることがときに必要となる。これらの勇気では、過度も過少も理性的に制御することがいる。過少では、危険の排撃ができないから、これを駆り立て鼓舞することがいる。過多の場合には、自他をむやみに傷つける愚行に堕す可能性があるので、しっかりとブレーキが効かされねばならない。大胆・果敢の攻撃的勇気は、そこに恐怖がなくなっている場合、攻撃に臆することがなくなり、そのままに放置しておくと、攻撃・闘争の本能に一致したものではとくに、過剰になりがちである。意識してこれにブレーキをかけることが必要となる。そのブレーキは、かけすぎても問題となる。大胆・果敢が過度に抑えられると勇敢でなくなり、危険と戦うことをやめたりして愚かしい自縛状態をつくる。理性は、状況をよく把握したうえで、過度でなく、かといって、過少でもなく、適正な制動にと注意することが求められる。
 大胆・果敢の勇気へのブレーキは、危険の排撃は確実でありつつも、自他を無用に傷つけることがないよう適正にということであるが、その適正さの程度は、勇気をふるう者各自の判断である。おそらく、ひとによってそのブレーキをかける目安となるところは異なる。慈愛・同情に富むひとなら、危険がおおむね排除できるのなら、あとは、その攻撃対象・敵への懲罰などは小さめにとブレーキを早くかけるであろう。義憤を感じていたのなら、少々の果敢さはあばれるにまかせて、残酷になりそうなところまでは、ブレーキはかけないであろう。憎悪していた場合は、残酷になることも辞さないから、ブレーキは、あまり気にしないかもしれない。
 勇猛の過剰に対するブレーキには、理性的合理的な目がいる。憎悪心をもっているときは、放置しておくと苛酷な残忍なものとなる。そこで残忍になることを抑制するものは、良心・良識として働く理性である。大胆・果敢の立場は、危険を被る者の立場である。だが、これへのブレーキは、客観的な第三者、公平な観察者の立場からされることがふさわしい。そこからブレーキをかけることで、あとで、残忍だったとの後悔や酷評も避けられる。勇猛果敢は、敵を大いに攻撃し傷つけるから、よくきくブレーキがいる。高速の車ほど、ブレーキがしっかりしていなくてはならない。勇者ほど、自己制動が強くないと、無謀になり蛮行に堕すことになりやすい。
 戦いでは、勝っていても負けていても、果敢さへのブレーキが必要である。勇気を出すのは、自身を弱体と見ているからであり、たとえ、果敢になって勝利していたとしても、もともとは弱い存在なのだから、完璧な勝利を追及するべきではない。ほどほどのところで妥協しなくてはならないであろう。おさめるべきところを早々に見出して戦いは短期におさめることである。だが、勝っていると、欲を出してもう少しと戦いを延長していく。理性は、冷静にそのあたりを勘案して早い目にブレーキをかけて矛を収めることを考えねばならない。逆の負けているときは、もっと、ブレーキはかけにくい。ギャンブルで負けていたら、もう一回やって負けを取り返さねばと、ずるずるとはまりこんで、ブレーキをかけることができなくなってしまう。ことをはじめるとき、負けはこの点までを限界とすると決めておいて、なにがあっても、そこでストップするということにしていないと、途中では、冷静に判断してブレーキをかけることはむずかしい。
 ギャンブルで果敢さにブレーキをかけるのは、損得の欲を抑えることが肝心になるが、戦争などでは、より果敢な過激分子を抑えることが中心になる。戦争停止を決断すると、果敢で過激な者からは、「臆病者!」「腰抜け!」と非難され、場合によっては、身に危険がせまることになる。敵にではなく、味方の過激分子にと勇気をふるう必要がでてくる。ブレーキをかけるためには、(敵への)果敢の勇気へのブレーキにあわせて、うちの者へは逆の、それこそ大胆・果敢な勇気が新たに必要となってくる。味方が、もうひとりの自分が、「ブレーキなど、とんでもない!」「売国奴、裏切り者!」と罵倒するのであるから、優柔不断なものは、ブレーキをかけるのをためらう。ずるずると果敢な状態をつづける。惨敗か蛮行をもたらすことになっていく。それをふせぎ、勇猛果敢へのブレーキをかけるのは、全体をよく見渡して適正な判断を下しこれを貫徹する理性の役割りということになる。