忍耐は、快と欲求を差し控える。

2011年03月24日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-4.忍耐は、快と欲求を差し控える。
 忍耐は、受け入れたくない苦をじっと甘受しつづけるが、受け入れたい快については、逆に、受け入れずに保留しつづける。価値あるものとそれによる快は、欲求の対象であるが、この欲求を不充足のままにとどめ続けるのが、忍耐である。忍耐は、この欲求を鼓舞・促進するものでないことはもちろん、これを排撃して無化するものでもない。苦の忍耐が受身であるように、(快の)欲求の忍耐も受身である。わいてくる欲求をしっかりうけとめてじっとこれを抑止するのである。
 快は、苦とちがい、それの現存しないところで、これに忍耐することとなる。想像に描く、無にとどまっている快楽をかなたに見つめながら、現在のその無の持続に忍耐する。苦は、その有に忍耐し、快は、その無に忍耐する。忍耐できなくなったら、能動的に快実現へと、無から有へと動く。忍耐するかぎりでは、快の無の現状にとどまり、これを有化したいという欲求を抑止し続けるのである。
 不快と同様、快も成層をなす。下位の動物的成層では、快楽は大きく、これが欲求の主観的目的自体となる。ここでは、節制がそうだが、欲求を抑圧することであるより、快楽を抑圧することになる。ひとの欲求では、上位層になるほど、快は希薄になり、欲求自体が前面にでる。人間的生の上位層では、快が満たされないことは問題ではなく、欲求の不充足が問題となる。希望や幸福の実現に快の伴わないことは些事にとどまるが、それらの欲求の満たされないことは、苦悩をもたらす。所有欲への忍耐は、所有の喜び(快)の欠如に耐えるのではなく、所有したい価値物の無に耐えるのである。
 その欲求が時間とともに大きくなるものの場合、忍耐も大きくなる必要があり、欲求が小さくなるものならば、忍耐も小さくて済むことになる。飲酒・喫煙の場合、短期的には、前者になり、長期的には、後者になる。その長期の忍耐では、喫煙・飲酒の欲求自体が小さくなって、しだいに忍耐することを無用にする。 
 (快への)欲求の忍耐は、そのことでの苦・不快を生じるから、苦にも忍耐することになる。食の欲求を我慢していると空腹の苦痛を生じ、この苦にも耐えねばならない。他方、苦痛への忍耐の方も、苦のみでなく、その苦を回避したいという欲求をもつから、欲求への抑圧・忍耐を伴う。
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