ついには、快楽中毒になる者も

2010年10月10日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
4-4. ついには、快楽中毒になる者も。
 快楽中毒は、その快楽が欲しいというのみではない。その快楽のない状態になると、禁断症状の苦にさいなまれることとなる。苦は、苦の現存を踏まえ、この現実的苦を無化することに駆り立てる。ふつう快楽は、その快楽の無から、想像で快の有を描いてひきつける。中毒では、そのことは当然の前提で、さらに、その快楽の無を苦痛となして、現にある放置できない苦を克服することへと、快と苦の両面から二重にひとをその快楽へ駆りたてることになる。
 ところで、「中毒」とは、毒にあた(中)り、心身が害されることをいう。食中毒などは、苦痛でしかないから、二度と繰り返したくないと中毒して思う。だが、快楽中毒は、逆で、快だから、反復して味わおうとする。こういう場合、「中毒」は、その「毒」にのめりこみ耽溺して、そこから抜け出すことが困難となっている状態を指す。
 アルコール中毒の「中毒」は、それに耽溺して、摂取をやめられないことをいう。こういう中毒を英語では、addictionというようだが、心身は、その「毒」(アルコール)に魅了され耽溺している(addict)のである。が、人間精神の大局的見地からいうと、害毒(poison)に毒されている(poisoning=「中毒」・・英語で「食中毒」はこちらを使う)のであり、日本語は、これに注目する。
 その快楽中毒が食や性の場合、快楽自体を得るに身体を介する必要があるから、現実世界からさほど乖離したものにはならない。だが、麻薬のように、脳に直接作用して快楽をもたらすものの場合、現実(的身体)とはかかわりなく、脳のみが暴走して現実から離れてその快楽にのめり込みかねない。麻薬(の快楽)中毒では、魂は現実に帰ることができないまでに荒廃して、いわゆる廃人という帰結をもたらすことがある。
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