快楽は、感覚ではなく、感情である

2010年06月05日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2. 快楽は、感覚ではなく、感情である。
 快感としての「おいしさ」とか「気持よさ」は、その由来する感覚的なものが異なり、快楽の具体的なありようは異なるが、おなじ「私」が好ましいと感じる同一の快感である。欲求の充足感としての快は、緊張や不充足の不満から解放された安堵の心的状態であり、その充足状態に、とりこになり、これにとけこみ忘我的に一体化し陶酔しているのである。
 苦味に「まずいのなんの」と思うときには、しかめ面をし、時には嘔吐感をもよおしてこれを排除したいと思う。苦味の味覚はそれ自体は、「まずい」とはならず、「ほろ苦くて、おいしい」ともなる。酸味や苦味の味覚につづいて、「嘔吐しそう」「口がまがりそう」とこれに反応するときに、「まずい」不快なものとなる。感覚内容を価値判断して、これに私が心身で反応するとき、感情となる。
 「おいしさ」も、甘い物・うけいれたいものをのどに飲み込み、もう完全にわがものになったというその充足状態に心身全体で反応するものであろう。私が、おいしく感じるのであって、舌やのどが甘さとともにその部位自体でおいしさをいだくものではない。「うまい」「おいしい」は、感覚(味覚・触覚・嗅覚)を踏まえての感情的な快反応である。脳の生理でいえば、甘さなどの味覚は、舌の味覚細胞に発した電気信号を脳が感受した状態であり、おいしい、気持ちいいの快感は、それらの刺激をふまえて脳内で快楽神経(A10神経あたりが)が脳内麻薬様物質を分泌したり、弛緩の反応を身体へ命令しているのである。
 「暖かさ」の場合も、同様で、暖かいのは足先であっても、私が「気持いい」のである。感情は、私のいだく、心身全体からする反応である。暖かさは足の温覚に感じる感覚内容であるが、それを踏まえて反応して「気持いい」と思うのは、私である。暖かさの感覚は足に発して私にとどき、それへの快楽の感情的反応は、私に発して四肢の筋肉を緩め、私が全身で反応する。