主客合一の陶酔

2010年06月19日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-2. 主客合一の陶酔
 欲求は、不快な緊張状態にある。欲しいものへと意識を向け緊張する。その欲求の充足は、この不快な緊張を解除し、快をもたらす。欲求の欠乏意識を、充足によって無化させ、満ち足り、安らいだ状態となる。
 快楽状態にうっとりとするとき、「心を奪われる」という。自分の心(意識)が、その快の対象や状態に魅了され、陶然としてこれに一体化して自他無区別状態になって、奪われる。それは、自身からいうと意識が無化し、恍惚としてまどろみ、眠りの無意識に近くなっていくのである。まどろみは、目がとろんとし、蕩けて、意識が働かなくなった状態であろう。心地よく満ち足りて豊かな安らぎの無に我を忘れて陶酔する。
 不快の欲求不満の状態では、その対象をしっかりと客観として意識し、突き放し、脅かす不快なものに注目し注意を怠らない。快の状態は、その反対で、快の対象と一体的になり、あるいは快の主観的状態にとっぷりとひたってこれを堪能する。つまりは、そとへと向かう対象意識を消失させ、意識は、まどろみ、注意警戒するその部分を眠らせる。
快楽に魅了され恍惚とまどろむところには、警戒心はない。快楽の享受は、無防備が許されないところでは、安全の確保に支障がないようにと制限される必要がでてくる。不快・不満なら、その現在を克服して未来に向かうが、快楽は現在に自己を引き留め、満ち足りて閉じこもる。未来へと意識を駆り立てることもない。快をほどほどにして、という節制が必要となる。