ひたすらに苦の地獄と、無苦の極楽の間にひとは生きる

2019年06月14日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-4. ひたすらに苦の地獄と、無苦の極楽の間にひとは生きる

 多くの宗教は、苦の地獄と楽の極楽・天国を描く。快と不快(苦)のおりなすこの世からみての理想の極と反理想の極(この実在世界のふたつの理念型)として描かれたあの世である。ひとのあこがれる快・楽の理想と、回避したい不快・苦痛の反理想が端的に語られている極楽と地獄である。
 地獄の責め苦は、この世の強烈な苦を形容するときいうことだが、地獄は、どこまでも苦のみの連続する世界で、さまざまな苦を描いてみせる。脱し得ない苦に満ち満ちた地獄は、人間界の苦とちがい、これを手段・踏み台にして価値ある状態に到るというものではない。ひとに料理される魚や豚のように切り刻まれ熱湯にゆでられて、どこまでも苦のみを味わうのである(動物には、とんだ災難であるが、ひとの地獄の責め苦は、一応、各自に責任があるという想定になっている)。救われようのない悲惨な苦の世界である。地獄では、ひとつの苦にはとどめない。次々と別種の苦を味わうようになっている。苦は、慣れてくると苦としなくなって平生のこととなるからであろう。ひとの世の苦のエキスを地獄では味わうようになっている。
 逆の理想の世界は、天国・極楽であるが、これは、楽土・安楽国といわれるように、快の世界である。快不快のこの世の不快を消去した快のみの楽土である。ひとの精神世界では、不快は、重大な関心事だが、快感情自体は娯楽あたりを除くとほとんど目的にはならず、快にとってかわる目的・理想は、お金とか知とかの価値あるものの獲得である。極楽も、黄金や宝玉に満ち満ちた世界とされ妙なる音楽が響き深い知恵がもたらされる世として描かれる。が、なんといっても極楽の第一の特徴は、苦がないことである。無苦の楽土なのである。
 この現世は、地獄と極楽の両極端の中間にある、いわば中庸の世ということになろうが、どちらかというと、地獄に近い。快は短く、苦は長大であるのがこの世である。それでも動物とちがい、苦痛の地獄から逃げずこれを忍耐して受け入れ、その苦を踏み台にし苦を積み重ねて天国にとどけとバベルの塔を築こうとするのが人間である。その苦を忍耐する心構えにおいて、ひとは、極楽・天国に到る資格をもった類まれな地獄の住人ということになるのであろう。

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