難行苦行としての禁欲

2013年09月20日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

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2-6-1. 難行苦行としての禁欲
 単に欲求を抑えるだけにとどまらず、不快(苦痛・苦難)の忍耐に意義を見出す、難行苦行の厳しい禁欲主義の語られることがある。英語のascetic(禁欲主義者)は、ギリシャ語の askehsis(=訓練、修行)に由来する。欲を単に禁じるだけではなく、より厳しい、難行苦行を求めての禁欲である。
 労働は、しばしば難行苦行の禁欲であった。つらい労働、苦行に耐えることで、その禁欲をもって、価値あるものの獲得がなった。楽しみを明日に回して、今日の苦労・反快楽に耐えた。この苦行の禁欲では、それをもって主体が鍛えられ、強くなるということがある。心身に抗体ができ筋肉などの増強がなり、すぐれた存在にと変じる。修験道などの荒行は、神通力を得させるといわれた。
 禁欲では、その欲求自体は善だが、より価値あるものを獲得するための手段としてこれを禁じることもある。好物を断つことをもって、願いを実現しようとした。快なり欲求を貨幣のようにみなして、これを禁欲することをもって(お百度のような難行苦行も含む)、別の願望を実現するための踏み台・お足にしようというのである。宗教では、現世の快楽を禁欲することをもって、あの世の安楽をそれで買おうというような禁欲主義の発想がある。

(これまでの節制論の展開は、次のアドレスの「節制とは何か」をご覧下さい。http://www.geocities.jp/hiroshimakondo/)

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