忍耐を高評価するストア学派や宗教世界

2018年06月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-9. 忍耐を高評価するストア学派や宗教世界 
 忍耐の評価は、快楽や個我(の欲求)を高く位置づけるところでは低く、逆の場合に高くなるだろうと推測される。禁欲主義のストア学派では、忍耐は、高く評価された。パトス(個我の快不快・欲求)を超克したアパテイアをモットーとするストア学派では、さきに(1-2-2-1.)アリストテレスに関わってあげたエンクラテイア(抑制)やカルテリア(忍耐)は、生き方の中軸をなす概念になっていったという。 
 宗教は、現世の快楽を否定的にみて、逆の辛苦・受難を積極的に価値づけることが多い。宗教的な呪力を得るのは、苦行を通してであり、当然、それへの忍耐が求められた。キリスト教では、この世での不幸は、あの世での至福につながると見る。受難は、神の与えた試練であり、使命であるから、これへの忍耐は尊いものとなった。キリスト教世界の泰斗アウグスティヌスもトマスも忍耐をしっかりと論じた。いずれもpatientia(忍耐、我慢)とperseverantia(堅忍、辛抱)をあげて、後者(堅忍)は、信仰を堅持して人生をまっとうするよう人を支える崇高な、神からの賜物として特別視された(cf. Augustinus, A. ; De Patientia. , De Dono Perseverantiae. , Aquinas, Thomas ; Summa Theologiae.Ⅱ-Ⅱ. Qu.136,137)。このpatientia とperseverantiaは、宗教に特殊な忍耐ではなく、おそらく、現代日本の「我慢」と「辛抱」に相当するラテン世界での一般的な忍耐で、宗教色抜きでキケロはこの二つを列挙している(cf. Cicero, M. T. ; De Inventione.Ⅱ163-164.)。さらにキケロは、卓越した生き方は、苦痛や苦悩から逃げずどこまでもこれに立ち向かう忍耐(patientia)の堅持にあると、いわゆるスパルタ教育などをあげ、どんな苦痛もその気になればひとに忍耐できないものはないと読者を鼓舞している(cf. Cicero ; Tusculanae Disputationes.)。あるいは、キリスト教では、この世の受難に耐えての天国での至福をいうが、後期ストア学派のセネカは、ごく常識的に、この世の受苦受難に耐えることでこの世の強靱な存在へと鍛えられること、受難は当人が卓越した人物であることを実証するチャンスになる等と論じて、試練に挑戦する忍耐(patientia)を髙く評価している(cf. Seneca, L. A. ; De Providentia.)。 
 ただし、弱肉強食の西洋では、正義、勇気、節制等を枢要な徳とする倫理の主流からは、忍耐は、従属的なものと位置づけられがちであった。勇気は、国を守り支配する者の徳であり、節制は、有り余る富を独り占めした支配階級が快楽享受で過度になるので、これを制限し節するものであった。だが、富の享受から疎外された庶民は、洋の東西を問わず、節するものもなかったことで、いわずもがな、飢餓など辛苦に忍耐することばかりが求められた。
 

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