日本人は辛抱強いといわれるが、いいことかどうか

2018年06月15日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-9-1. 日本人は辛抱強いといわれるが、いいことかどうか
 日本では、個我の低評価があって、個我を抑制し、周囲の全体(家族から国家まで)にあわせるといった忍耐が強く求められた。我田への引水が全体(村落共同体)の水配分に合わせることで成り立つようなところでは、個我を抑制して全体にあわせることは必須であった。あるいは、小さな島国で、かつ山々に囲まれて小さくまとまった各共同体的全体は、個を隅々までしばり、周囲にあわせてその都度「おれ」「先生」「お父さん」等々と位置付けて自分を意識させ、不変の個我をかたる唯一の第一人称(英語ならI)は出る幕がなく、独立不羈の精神は育ちにくかった。その全体に依存する精神は、いまも続いていることで、オリンピックでも、日本選手は、個人競技ではダメでも、団体競技では、しばしば入賞する。個は全体にうまく適合するようにと自身を抑制・忍耐できているのであろう。  
 その日本でも、最近は忍耐など無用、工夫で快適に、ということもしばしば言われる。さきの一億玉砕の戦争体験は、未曽有の忍耐体験であった。竹やりで戦車に立ち向かうというような無謀・無意味な忍耐を強いられた過去は重い。そういう非合理な忍耐は、確かに無用であり、有害な忍耐として拒否すべきことである。 
 苦難への挑戦に二つの道がある。ひとつは、苦難を受け入れてこれに忍耐することで、もうひとつは、苦痛解消の工夫をし飛躍できる道を探そうとするものである。後の道があるのに、前者、忍耐をとるのは、愚かしいことである。より良い快適な生へと向上する道をとれということになる。不合理・有害な忍耐はやめるべきである。無駄な忍耐ではないにしても、せっかく快適な向上の道があるのを、少し我慢すれば済むと、これに忍耐してということも多々ある。さらに悪い忍耐として目立つのが、辛苦を安易に受け入れることで創意工夫をないがしろにし、生の飛躍や向上を妨げることである。情報革命真っただ中の現在、快適に効率的に苦労なくできるものがどんどんできている。それが出来るようになっているものは、無駄に苦労、忍耐を続けることなく、利用し享受するのが時宜にかなったことである。 
 だが、よりよい生のためにどうしても乗り越えていくべき苦難・障害もある。それを避けて忍耐しない状態では、さきに進めないことがある。そういう忍耐は、ひきうける必要がある。苦痛を受け入れなくては高い価値が得られず飛躍のできない方面にと忍耐は振り向けるべきであろう。さらに、ひとの能力開発には、能力を眠り込ませる快では心もとなく、新規の高度の能力を目覚めさせ開発するには、艱難辛苦をもってする必要がある。忍耐は、そういうところでは、やはり、大いに価値をもつ。
 

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