快は、眠りを誘い、苦痛は、覚醒をもたらす 

2023年10月31日 | 苦痛の価値論
3-6-4. 快は、眠りを誘い、苦痛は、覚醒をもたらす
 事がうまくいって快であれば、疲れていたりすると気を緩めて、やがて眠り込む。苦痛は、逆で、危機的なことを示し、意識を集中して対処せよと自身に命じる。自動車の運転は、高速道をスムースに走れる状態では気持ちよく快で、しばしば眠りを誘う。だが、事故に巻き込まれたり、場合によるとこれを見ただけでも、つまり、損傷・苦痛を身近にすると、眠気は吹き飛び、一瞬にして覚醒状態になる。
 快は、良好な状態にあるということだから、そのことに注意する必要がなく、意識はそこでは無用となって眠り込む。興奮させるような快の種類だと、意識は覚醒を続けるが、これも、疲れてくれば、意識をしていないと危うい事態が生じるというようなことがなく安楽な状態にあるのだとしたら、心地よく眠りにと導かれることであろう。逆に、なにか不快・苦痛があるとは、生の損傷の可能性を語るのであり、快とちがい、その危機的状態や損傷のあるかぎり、苦痛はこれを知らせつづけ、意識は、覚醒してその対処を迫られる。
 眠りは、無意識化しているから快でも苦痛でもないが、その眠りに誘われることは、これへの欲求は、時に強くなり、これを充たすことは、大きな快楽となる。睡眠は、食・性とともに生理的な大きな欲求である。心身が疲労して休息の必要な状態になっておれば、眠ることが欲求となり、これを充足することは快で、これを妨げるものがなければ、この快を満たそうと眠りに近づいて眠りに入っていく。快と眠りは親和的である。快も眠りも、警戒を解き、無防備状態をまねく。眠りは、覚醒時の諸機能を休ませるので休息になるが、そこを襲われると襲うものの思うままとなり、損傷を受ける。苦痛がその状態から救い出す。苦痛になったら、即、覚醒して身構える。損傷をうけ苦痛を抱き続けると、さらに火急の対処をと一層の覚醒と緊張をさそわれることになる。 
 この苦痛による覚醒は、生理的なものに限らない。精神的社会的な短期・長期の覚醒も、苦痛のもたらすことが多い。かわいい子には旅をさせよという。手元においていたのでは、苦労する場面で手を出してしまい、子は苦痛を味わうことがなくなる。それ以上に、快適な状態に置かれると、精神はまどろみ、安楽からより安楽へと向かい快楽主義的な怠け者になってしまう。だが、外の厳しい環境におかれ、手助けもなければ、苦労・苦闘の体験を多くもち、しかも、それは自身で解決する以外ないのである。親元での快適な生活では味わえない苦痛体験を繰り返すことになる。苦痛によって精神が覚醒状態になり、苦痛解決への努力を自身がしなくてはならなくなる。苦痛は、ひとを全般的に鍛え上げる。