目覚めを促す苦痛は、小さいものでありたいが・・

2023年10月03日 | 苦痛の価値論
3-6-2-1. 目覚めを促す苦痛は、小さいものでありたいが・・
 座禅で眠りそうになった時、覚醒させるためにと警策で打つが、棍棒で殴打することは求められない。かりに棍棒を使っても、身体を傷めつけるのとちがい、覚醒させるときは、つつく程度にして苦痛も小さいものにと手加減することであろう。相手が気づく程度にして、本格的な苦痛までにはならないようにするのが覚醒には一番であろう。覚醒だけを求める場合は、その辺の微妙な力加減がいる。もっとも、禅宗での座禅中の警策は(最近は、ほどほどのものにとどまっているようだが)、かつては、かなり本気になって殴打するようなことがあったという。拳骨をもって、「不届き者、目を覚ませ」と大きな苦痛を与えていたこともあると聞く。粗野な乱暴なことが普通だった時代には、相当に厳しい苦痛が覚醒のために使用されていたのであろう。眠気を払うためにと、錐で太ももを突くようなこともしたという。それでも、激痛を与えるとしても、損傷をもたらすことは、できるだけ回避しようとしたであろう。覚醒だけを求めるのなら、わざわざに余分となる苦痛や損傷を加える必要はないのである(座禅をしていると膝あたりの痛みが続くことになるが、この痛みは、覚醒をもたらさないように思われる。膝という箇所は自明で、注意をはらって対処するようなことではないから注意=覚醒は無用なのであろう。覚醒には、その痛みが、注意を払わせるようなものになっている必要がある。肩を警策で撃たれるとき、外からの突然の衝撃で、意識はおのずからに注意を払わされ、覚醒となるのであろう)。
 苦痛が強すぎると、覚醒は確実であっても、かりにそれで損傷は生じるまでにはなっていないとしても、苦痛のもつ嫌悪・拒絶反応が生じてその苦痛刺激の不快感を強くもつことになろう。人を起こすとき、不快の度を大きくしてしまうことがあり、その結果、せっかく起こしてやったのに、怒りをもって対応されてしまうようなことが生じる。眠りの深度が起床させるための苦痛刺激には大きくかかわる。深く眠っているのを起こすには、苦痛を大きくしないと覚醒させるまでにはならないであろう。浅い眠りの者の目覚めたベルに、ぐっすり眠っていた者は気がつかないようなことがある。逆に、よく寝て目覚める時間に近くなっておれば、ほんの小さな刺激で間に合う。苦痛を感じさせるまでもないことであろう。
 覚醒といっても、生理的なものではなく、怠惰とか悪の道に踏み外した状態から、それの悪であることを気づかせ「目を覚まさせる」というような場合の覚醒は、大きな苦痛が必要であろう。小さな苦痛では、それを我慢すれば済むことだと、堕落した生活からは立ち直ろうとしない。そこから抜け出す意欲を引き出すのは、二度と繰り返したくないような大きな、強い苦痛であろう。目覚める当人は、小さな苦痛の方が楽であるが、真に目覚めるためには、おそらく、大きな苦痛が必要である。小さな苦痛で覚醒・意識の鼓舞が済むのであれば、それに越したことはない。だが、それでは、大きな心の鼓舞にはなりにくい。鈍感な者、あるいは堕落した生に深くのめり込んでいる者を目覚めさせ鼓舞するには、小さい苦痛では目覚めず、やむを得ず、大きな苦痛を与えることが必要になることもあろう。小さな苦痛では、なかなか必死の覚悟は持ちにくい。大きな苦痛が人をしっかりと覚醒させるのではないか。