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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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助太刀があると思えば、勇気凛々となろう。

2012年10月11日 | 勇気について

5-5-2.助太刀があると思えば、勇気凛々となろう。
 臆病者のチンピラも助太刀を得ると、とたんに勇ましくなる。実際の手助けは、なかったとしても、負けて危機になったら応援してもらえると思えば、危険を恐れ萎縮することは少なくなって、思い切った大胆な行動にでることができ、勇ましくなれる。
 ひとは、群れをなして助け合って生活してきた。いまも、家族から国家にいたるまでの成員として、ひとは、危険から保護されており、個人として自律の存在でありつつ、集団の力を頼みにできている。自分の頼れる集団的な力を背景にできれば、危険と恐怖を小さくできて、勇気は、大いに鼓舞される。
 動物は、群れを作るものが多い。群れで敵の襲撃を排除するのなら分かるが、そうでないものも、群れている。小魚の大群は、これを狙うものの餌食になりやすいように集まっている感じである。しかし、群れることで落ち着けるのであろう。一匹だと確実に餌食になるが、千匹だと危険は千分の一になり、恐怖がそれだけ小さくて済むということなのであろうか。ひとでも、ひとりだと怖いが、数が増えるにしたがって、怖さは分散される感じになる。群れておれば、すがりつける群れ・全体への安堵の意識のもと、個としての意識は小さくなり、その恐怖感は小さくできそうである。『司馬法』に、兵士達が恐怖にとらわれてしまったら、密集させるように、「畏るれば、すなわち、蜜にす(畏則蜜)」(「厳位篇」)という。 


見守るだけの応援でも、ひとは勇気づけられる。

2012年10月10日 | 勇気について

5-5-1.見守るだけの応援でも、ひとは勇気づけられる。
 戦いにおいて応援があることは、その分、力の増大となり、心強い。単なる声援であっても、勇気を大きくしてくれる。攻撃的に勇気づけられるのみではなく、「がんばれ!」の声を聞くだけで、恐怖への忍耐や大胆な対決姿勢をつくる勇気でも大きな支えとなりうる。
 実際の支援はないとしても、自分を支え、共に生きているものから見守ってもらえていると知るだけで、勇気は、鼓舞される。神仏が見守ってくれていると思えば、当人は、親に守られた幼児のようになって頑張れる。スポーツなどの試合・競技で、自分の応援に誰も来てくれてないと思うと、力ははいりにくいが、身近なものが見に来てくれていると分かったら、張り切る。ひとりなら尻込みすることでも、見られていると思えば、無理をしてでも、いい格好をしなくてはと、勇気を出す。知らないひとが見ているだけでも、臆病なこと、恥ずかしいことには歯止めがかかる。
 応援が実際の助力であれば、大きな力をえられて心強い。見守るだけの応援でも、そのことで、共に生きるもの・全体が自分のバックにあることを自覚でき、その全体の支えを思い、あるいは、その全体が期待してくれていることを思って、その成員・個として張り切ることになる。自分のせっかくの勇気や犠牲も、無視されたのでは意気が揚がらない。見てくれていると思うだけで、精神的な支えを得ることができ、その勇気の意義を自覚し、元気が出てくる。


勇気をもらう-周囲からの支え-

2012年10月09日 | 勇気について

5-5.勇気をもらう-周囲からの支え-
 ひとは、個として自律的で自立した存在であるが、社会的全体のうちで非自立に生きるものでもある。各人が理性的に自律的に展開する勇気も、多方面から社会的に規定され支えられている。死への勇気ある対応という場合でも、当人の生活する社会の制約・影響はおおきい。日本でなら責任をとっての自害には肯定的評価がなされるが、キリスト教世界では、否定的であろう。祖国や民族の存亡がかかっているのなら、日頃は虫も殺せぬ人間でも、ひとを殺すことができる。祭りでは、逆落しされる巨木に乗るとか、猛る牛の前を走るといった危ういことに果敢な挑戦をするが、見る者もおらず一人っきりだと、たとえ大事な行事だったとしても、そんな危険を冒す気になる者はいないであろう。
 ひとは、理性的に生きる。理性は、普遍的で合理的であり、各人は、個でありつつ、普遍的共同的に生きる。みんな同じ社会的良識・良心をもって自分の勇気を導く。その勇気が良識にそったものなら、自他にこれを誇り、自身を鼓舞できる。その臆病を良心がとがめるとしたら、羞恥し忸怩たる思いにとらえられ、歯をくいしばっても恐怖に耐えて勇気をださねばと思うことであろう。
 社会は、直接的に勇気を養うものでもある。教育機関は、臆病な子供の背中を押し、勇気ある行動をほめて、勇気の徳を身につけさせる。子供も大人も、仲間のあいだでは、はげましあい、勇気をきそう。軍隊になると、いやでも、毎日、我が命の防護と殺人の訓練をして、戦場のための勇気を叩き込まれる。


勇気では、いさぎよく引くことも大切である。

2012年10月08日 | 勇気について

5-4-6.勇気では、いさぎよく引くことも大切である。
 勇気をもっての戦いは、危険な敵を排撃し勝利することを目的にするが、攻撃一本やりでは済まない。防御も必要である。休息もいれねば、続かない。自転車のように前にしか進めないのでは、暴勇に堕す。勇気は、歩行者のように後ろにもさがれ、立ち止まることもできねばならない。戦えば自身も無傷ではすまないから、まずは、「逃げるが勝ち」を勇気とする。つまらぬ見栄のために、匹夫の勇・小勇で、命を粗末にしてはならない。「韓信の股くぐり」である。逃げるのも時には勇気である。
 戦いをはじめるには、勇気の大胆な決断がいるが、戦いをおさめるのにも、大きな勇気が必要である。なにごとも、いったん始めたことは、簡単には終わりにできない。良い事はもちろん、悪いことでも既成の事実ができると、その慣性に流されがちとなる。理性は、指導力を発揮して、大胆に決断し方向転換を断行することが必要となる。
 勝っているときは、もっと大きな勝ちをと欲張りたくなるから、戦いはやめにくい。負けているときは、負けをとりもどすまでは止める訳にはいかないと、ずるずると負けを大きくしてしまう。戦いをやめようとすると、「臆病者」とののしられもする。適切なところで戦いを停止する、勇気あるブレーキを効かせるのはむずかしい。勝ちも負けもここまでと予め限度を設定して、そこに頑丈な車止めを作っておくべきかも知れない。勇気は、おおきなエンジンをもつほどに、よく効くブレーキももっていなくてはならない。


勇気は、危険を覚悟し、おのれの限りを尽くす。

2012年10月07日 | 勇気について

5-4-5.勇気は、危険を覚悟し、おのれの限りを尽くす。
 勇気は危険と戦う。危険になるのは、自分がそこでは弱体だからであり、危険(の回避不可能)への覚悟をした方がよいことが多い。勇気の決断・実行には、危険(の禍い)の覚悟がしばしば肝要となる。戦いの場合、危険(禍害)を覚悟し防御に費やすものを少なくして、攻撃に総力を傾けられるようにしないと、勝利することは、おぼつかない。戦争に志願したものは、戦死を覚悟しなくてはならない。死からの防御にもっぱらとなっていたのでは、戦いにならない。戦死者は、おのれの勇敢な意志において、「戦死する」ことを覚悟していた「者」である。英語では、これを「killed(殺された)」者と表現する。本当ではあるが、いかにも未練がましい。一般的に言っても、「死して後やむ(死而後已)」の勢いをもって、力の限りを尽くし、おのれの意志を貫くところに勇気はある。
 勇気は、弱いから必要となる。勇気が勝利するには、持てる力の最大が尽くされねば、むずかしい。意志薄弱、優柔不断に甘えていてはいけない。ためらいを捨て、意気込み、総力を傾けることがいる。「天は、自らを助ける者を助ける」というが、危機意識をもち、おのれの最善を尽くせば、眠っていた能力にスイッチのはいることもある。通常は心身を傷めないようにと出す力を脳はセーブしているが、勇気の危機の場面では、覚悟を決めて挑戦すれば、火事場の馬鹿力のように、自己抑制を解いて非常時の異常な力も出すことができる(歯噛みや大声は、通常は出ない大きな力を出させる)。
 最善を尽くすとは、時間的には、最後まであきらめないことである。似た者同士の戦いでは、あきらめた方が負けになる。強い敵も、どこかに隙を見せるときがある。気骨・根性をもって耐えてチャンスをまち、最後まであきらめない者が勝利を手にする。