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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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勇気へと駆り立て鞭打つもの

2012年10月16日 | 勇気について

5-6.勇気へと駆り立て鞭打つもの
 応援や見守る者がいると勇気は鼓舞されるが、一層、直接的に勇気を駆り立てるものがある。賞罰がその代表になる。馬でいえば、直接的に駆り立てるには、目の前にニンジンをぶらさげたり、騎手が鞭打つことである。
 勇気を出すようにと、引っ張ったり、押したりするには、強引に力を加えても無理で、勇気は各自の自発的意志をもって出すのだから、その自発性にはたらきかけねばならない。なわで縛って引くのではなく、自身がすすんで行くようにアメ・報奨を提示することである。動かない場合、手を引き背を押して動かすのではなく、自らに動く気を起こすようにと、苦痛を与えることである。ムチ打ったり脅すことである。
 勇気は、危険の排撃という目的をめざして、そのための手段を工夫し、攻撃意志を貫徹する。目的意識的なものである。その目的を強調し、手段・工夫の勘所を明確にし、その勇気の意義をきわだたせるなら、意志活動に活を入れ、勇気を活発なものとすることができよう。
 勇気ある意志の働く場所である心身に直接働きかけて興奮させ攻撃性を高めることも可能であろう。飲食物にそういう作用をするものがある。怒りなどの感情を利用もできる。大胆な勇気を出すには恐怖をなくすることが肝要となるから、恐怖・不安をなくするような、心身を鎮静化させる工夫も勇気の鼓舞には効果があろう。


先駆するひとからは、勇気がもらえる。

2012年10月15日 | 勇気について

5-5-6.先駆するひとからは、勇気がもらえる。
 同類の者の間では、先駆する勇気ある者をみて、後続の者は、自分にも出来るはずだと見習う。戦場では、古参兵は、新兵を勇気づける。古参兵は、慣れているから、恐怖もほどほどに、大胆で果敢な勇気ある振る舞いを見せることができる。過度に恐怖しがちの新兵は、これを見て見習い、勇気をもらうことになる。
 全員が新参者だったとすると、そのなかで勇気ある対応をする者を見て、他の過度に恐怖した者たちも、それをあるべき対応と自省して、勇気に先駆する者を見習うことができる。
 あとをつづく者は、先駆する者の危険体験を見るから、危険の程度が分かり、過度の妄想などなしで、落ち着いた対応がとりやすくなる。危険なものを攻撃する場合、実際に攻撃をはじめてみるまで、その反撃のあり方など不明で、過度に恐怖をいだきやすい。だが、だれかが先駆して、反撃のあり方を見る事ができれば、対応もあらかじめ立てられ、過度に恐怖することなく、勇気を出しやすくなる。地雷原を渡るときなどは、先頭の者が無事に通った道をそのままいけば、恐怖などほとんどなしに進むことができる。
 先頭に立つ者も、同時に、後続の者に勇気を応援してもらう。援護射撃があって、皆が支えてくれているということは心強い。後続の者が見守ってくれていて、先頭をいくものとしての使命感をいだければ、その誇らしさが勇気を一層盛り立てもする。


逆境・順境、出自の良否も、勇気を支える。

2012年10月14日 | 勇気について

5-5-5.逆境・順境、出自の良否も、勇気を支える。
 自分のよってたつ場所は、自分のあり方・心構えしだいで、好条件にも悪条件にもすがたを変える。赤貧にあって逆境とみえても、当人は、しごく順境にあると思っているかもしれない。さらに、かりに逆境のもとに自身を解していたとしても、かならずしも、後ろ向きにとどまるものではない。それを未来に向けて飛躍のバネにすることもできる。当人しだいである。自律自由のもと、未来は自身の創造するものである。順境からの応援はもちろん勇気を大きくしてくれるが、逆境も応援団にすることができる。逆境の罵声・鞭は、叱咤激励になる。逆境は、負けじ魂の拠り所となる。
 出自・出身も、変え得ない運命的な過去となる各自の生の条件であるが、どんな過去の条件でも、勇気の支えにすることができる。当人しだいである。誇らしい生まれとみるかどうかからして当人の解釈である。自分の所属を名門校、有名団体と思うことは、その成員の上層部では少なくなる。名門の出身であることを生かすかどうかは、各自の自由な選択のもとにある。名門との自負があれば、「名を汚してはならない、恥にならないように」と勇気をふるうことになろう。逆に、下賎の出、無名校と思っても、臆するのではなく、チャレンジ精神を奮い起こし勇気のバネにすることもできる。要は本人の心構えしだいである。


使命感は、勇気を奮い立たせる。

2012年10月13日 | 勇気について

5-5-4.使命感は、勇気を奮い立たせる。
 各自の勇気への周囲からの支えや応援は、各自のうちに内在化することもある。使命感をいだく場合、その使命を与えるものに実際に激励されることもあるが、それ以上に、自身のうちで、使命だからと自覚して、命がけでやらねばと自身で鼓舞することになる。
 使命は、自身の帰属する全体や支配者(国家とか神仏あるいは人など)から与えられる高級な課題・役割りであり、誇らしい「使」い、「命」令である。成員のなかから、その困難な課題を遂行できる優秀な者を選んで、使命は与えられる。その使命を実行することは、その帰属の全体に頼られ求められたものをもって、全体に自身が一体化することである。使命は、自身を全体に結びつける絆である。自身に社会的存在としての意味を与えるものとして、使命は、おのれの誇らしい本分となり、生き甲斐となる。全体が求める使命は、全体に資するものであると同時に、使命を担う者の自己実現でもある。
 困難な使命のもとに生じる危険に挑戦することは、選らばれた自分にしかできないことである。自分が逃げなければ、帰属する全体が救われ、自身の自己実現にも資する。そう思えば、猛勇も奮い起こそうとの気になる。使命感においては、ひとは、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige高貴は強いる)を抱き、おのれの限りを尽くすようにと自身のうちから鼓舞される。


仲間は、お互いを勇気づけることができる。

2012年10月12日 | 勇気について

5-5-3.仲間は、お互いを勇気づけることができる。
 同じ危険に遭遇する仲間は、同じ勇気を必要とし、鼓舞しあうことになる。力を合わせて一つの目的に向かって行動する場合はもちろん、競争しあい排斥的関係になるものでも、勇気にはプラスの影響を与え合うことができる。
 共同して狩りをするとか、チームで戦うスポーツ競技の場合、臆しそうになれば、当然、励ましあう。チームワークになるから、臆している者も、他に遅れをとらないようにと、無理矢理にも勇気を出さざるをえなくもなる。できれば、より大きな貢献をと張り切る。みんな同じ行動をとるときはいうまでもなく、役割り分担した場合も、各自の危険は周知しあうから、自分の臆病も勇気も皆に知れることである。仲間に評価され、そこに所属していたいのであれば、臆病にとどまることはできないであろう。
 マラソンのように横に並んで順を争う競争ではもちろん、ボクシングのようにダメージを与え合う格闘・闘争でも、勇気については鼓舞しあうことができる。そこに生じる危険や不安・恐怖は似たものになるから、臆していたとしても、相手が出している勇気を見たら、負けじ魂が顔をだしてくる。「あいつがやれるのなら、自分も!」「こいつだけには負けたくない!」と、勇気を奮い起こすことになろう。同じことを戦い、自分が怖ければ相手もそうだと知れるから、勝つには、「ここで勇気を出すことだ」と分かり、大胆に一歩先へと踏み出す決心が誘われることもあろう。