5-6-5.愛は、果敢な攻撃をためらわせ、憎悪は、これを過激なものにする。
勇気には、さまざまな感情がともなう。恐怖や不安の感情は、勇気が制御すべき対象である。恐怖を制御でき安心感が得られれば、臆することなく、心はとき放たれて「放胆」となり、果敢の勇気の湧出もスムースとなる。快不快、喜怒哀楽の感情の各心身反応と、勇気での心身の反応との一致・不一致により、勇気は、促進されたり阻害されたりする。
攻撃的な勇気の場合、排撃すべき対象にいだく好悪の感情によって、攻撃の働きは、加速または減速される。その危険な対象に好意的な感情をいだいていた場合、攻撃にはブレーキがかかる。同情し慈悲の感情をいだく場合、それには価値贈与したいのだから、勇気の方は、価値剥奪し攻撃することをためらい気味となる。愛する者のために、その危険を排撃する場合は、愛の献身そのものとして、大いに果敢となり、大胆にもなることであろう。
怒りや憎悪の感情は、破壊・抹殺を欲するから、攻撃的勇気をけしかける。怒りで相手に懲罰を加えたいと欲しているなら、攻撃的勇気は果敢さに輪をかけることになる。義憤をもっての戦争では、自分たちの攻撃に正義の御旗をえて暴力へのためらいをなくして、果敢な勇気に向いやすくなる。憎悪は、相手の抹殺を欲する情念として強力で執拗な攻撃力をもつ。血を見て青くなるような女性でも、憎悪する相手の首なら掻き切ることができる。果敢な勇気も、憎悪の残忍な破壊力にはかなわない。
5-6-4.義務・責任感は、勇気を駆り立てる。
勇気は、欲し引かれるものを目指すだけでは済まない。義務とか責任は自然的には嫌なことだが、それへの強制は正当と自身の了解している事柄である。そこでの勇気は、強制され、後ろから押される感じの、しかし自発的な営みとなる。
義務は、したいことではないが、しないことは許されないと自身納得しているものである。しなかった場合、その償いをすることが強制される。その義務が危険なものの場合、当然、恐怖をともない、勇気を出さねば、遂行できない。償いをするはめに陥らないためには、自らを押して勇気をふりしぼることが必要となってくる。
責任を負うのも、同様に、ことを果さなかったとき、それへの責め・負い目を覚悟してのことである。マイナス状態をゼロにまで返していかなくては終われない。ことが危険なものであれば、恐怖となるが、放置したままでは、負い目は残る。勇気をふるって、負の返済に尽くすことが必要になる。負い目をつくりたくないのなら、あるいは清算したいのなら、おのれを駆り立て勇気を出さねばならない。
その勇気に自分の責任・義務を自覚できれば、それは貢献とか奉仕・贈与などではなく、借り・マイナスを返してゼロに清算することとして、是が非でも、無理矢理にでも勇気を出さねば、済まないと感じられてこよう。負の清算となれば自身の犠牲は当然のこととして、大胆・果敢の勇気へと自らを強制しやすくなることでもあろう。
5-6-3.危険が大きければ、勇気もおのずと大きくなる。
動物は、危険が大きくなるほどに大きく恐怖し大きく逃走してしまう。ひとも自然的には、そうである。だが、勇気を出して、ひとは、これに抵抗することができる。大きな危険には大きな恐怖をもつから、これを抑制するには、大きな勇気の忍耐力が必要となる。理性は、腕のためしどころだと渾身の力をこめて果敢に挑戦することになる。
ひとには優れた適応能力があり、些細な危険には、小さな勇気で応えるが、大きな危険には、気合をいれて、大きな勇気を発揮することができる。筋肉は、対象しだいで、自在に力を加減する。大きな危険・大きな恐怖に、逃げるのではなく、大きな勇気をもって対決することができる。危機になれば、眠っていた勇敢な能力が目を醒ますこともある。心身の過度の負担防止にと無意識的に効かせている日頃のブレーキを解いて、異常時の異常な力を出すこともできる。
もっと勇気をださねばというとき、そこでの危険を一層大きなものに解するとよい場合がある。大きな危険には、大きな勇気をもって対応できるからである(過度の恐怖がともなわない工夫がいるが)。油断していたり、突然だと、大きな危険に仰天し勇気が間に合わないが(たとえば、突然の轟音への驚倒)、大きな危険が迫っていると予め分かると、それに対応した勇気をもって構えるから、結構、平然とやりすごせる。
杞憂で、大きな危険を想像して怯えるようなことがある。しかし、実際にそれに出合ったら、ほかのひとがうまく適応しているように、ふつう、適宜に変身して大きな勇気をだせるようになるものである。心配は無用である。日頃、臆病な者が、修羅場で、意外にも剛の者ぶりを発揮することも結構ある。
5-6-2.目的を大きくすれば、勇気は大きくなる。
勇気は、報奨・アメが大きいほど、大きくできる。しかし戦士には、もっと大切なものがある。報奨か勝利かという場合、戦いにおのれを賭ける者ほど、戦いの勝利の方を選ぶことであろう。危険を排撃して勝利するのが勇士の大目的である。この目的を目指して、これに引かれて、勇気は、挑戦する。この勇気の目指すもの・目的の引き付けるものが大きいほど、勇気は、鼓舞されることになろう。武士が勇気をふるうとき、倒すべき敵が雑魚でしかなかったら、この小さな目的には、あまり力ははいらないであろう。だが、それが敵の大将であったとしたら、(直接の報奨はないと分かっていたとしても)これを討ち取るという戦いへの勇気は、大いに鼓舞される。
勇気の目的もそうだが、目的は未来のものだから、しっかりと想像力を働かせていないと見失われることがある。行動の向かうべき方向がふらつくことになる。目的意識を明確にしこれを堅持しつづけることが勇気の貫徹には必要である。かつ、ひとつの行動も身近な小さな目的に重なって多くの大きな目的を背後にもっている。直接間接の大きく高い目的を描くなら、勇気は、一層鼓舞されるであろう。怖い手術に勇気を出すのは、さしあたりは、手術の成功・病いの苦しみからの解放という目的を描いての覚悟である。しかし、さらに、元気になって仕事するとか家族のため国家のためにといった目的も添えて、目的・意義を膨らませれば、一層の勇気を出すことが可能となろう。
5-6-1.勇気にも、アメとムチがよく効く。
ひとは、不快を避け、快を求める。より価値あるものを欲求し、反価値物を避けようとする。勇気では、犠牲・不快を受け入れるが、それは、それを凌駕する価値物が獲得可能となるからであろう。勇気をだしても得るものがないのだとすると、残るのは犠牲・苦痛のみであるから、ためらいがちとなろう。損得勘定で勇気も動く。虎穴に入り危険を冒す勇気を出すのは、虎児を得るという価値物獲得のためである。勇気を鼓舞するには、勇気を出したら大きな価値物が獲得できるとか、快がもたらされるようにすることである。反対に、勇気を出さない場合には、大切にしているものを奪うとか不快を与えるように仕組むことである。アメ・報奨を準備したり、逆に、臆病にはムチ・罰を与えると勇気促進に効果的である。
戦国の武士たちは、命知らずで勇敢に戦った。それは、一族の生活そのものがかかっていたからであろう。武勇には、土地等が報奨として与えられ、地位が与えられたからである。へびは見るのも嫌なひとでも、シマヘビを首に巻いたら一億円になるというのだったら、欲があれば勇気をだすことであろう。
罰・ムチも、勇気には、よく効く。戦闘に際して、逃げる者は射殺すると言われたら、皆勇敢に戦う以外なくなる。スポーツで、これで負けたら二軍落ちだとか補欠だといわれたら、背水の陣であり、持てる最大の力を出し、渾身の勇気をふりしぼることであろう。