5-7-3.鈍感力は、気にしない工夫・習慣を重ねることで培われる。
勇気は、恐怖に我慢する。その恐怖を小さく抑えて、確実に冷静に危険と対決できることが望ましい。危険には、過度に恐怖する傾向があるので、鈍感力が求められる。だが、戦争になれば、みんな、死にすら鈍感になる。優れた鈍感(への適応能)力を皆もっている。要は、危険と恐怖の経験を反復しイメージトレーニングもして、過敏にならずに済むようにと慣れることであろう。
恐怖の感度への鈍感ということよりも、そのあとで反復して不安をいだき、悲観的に気に病み続けることがないようにという、心配性の反対の鈍感力を求める場合が多いかも知れない。恐怖・不安への忘却力である。これも経験して慣れ磨くものであろう。危険を些事と解釈しなおしたり、どうにでもなれと居直ったり、他のことに気を向けることで恐怖を忘却する工夫を反復することである。それが習慣化されるなら、気に病む癖は小さくなって、無頓着の鈍感力が身につく。あすはあすの風がふく、ケセラセラを習慣化することである。
危険を感じるのは、自分の守るべきものに対してである。それがなくなれば、(守るべきものを喪失し絶望した者が時にそうであるように)自分の死すら平気になる。仏教では、無我をいう。おのれを空しうすれば、危険も恐怖も消えていく。世界も空となれば、危険も空無となる。そういう心境に近づき慣れていくなら、鈍感力の最大、恐怖も不安もない大安楽の境地も可能となろう。
5-7-2.恐怖は、危険の判断と想像を制御することで、小さくできる。
恐怖は、危険に対してもつ。危険と見なすかどうかは、主体しだいである。普通の大人なら小犬を危険とは思わない。だが、こどもの時こわい目にあって犬嫌いになったりすると、巨漢でも、小犬に危険を感じ、恐怖する。危険と見なすかどうかは、かなり主観的なもので、変更可能である。本当は大した危険ではないと誤解を改めたり、根深く「恐怖症」になっているものなら、安全の経験を積んで危険視を修正していくことである。「閉所恐怖症」などは、無理に直さなくても、閉所に入らないように注意をすれば済む。やむをえない場合は、飲酒でもして危険の判定能力を麻痺させる手もあろう。怖いものと知らなければ(危険の意識がなければ)、怖いもの知らず(恐怖なし)である。
胃が痛むというとき、この不快を感じているだけなら、恐怖は、しない。その痛みから胃ガンを想像し手術を想定し死までを妄想すれば、不安になり、恐怖することになる。現実の世界を見るだけにして妄想を逞しくすることがなければ、危険の想像をもってなりたつ恐怖はいだかずに済む。意識は、つねに意識対象を求め、目の前になにもないと自分で勝手に幻覚像まで作り出すから、恐怖となる妄想を抑止するには、強く意識を引き付ける別のものを持ちこむのも手である。目の前の花に気持ちを集中するとか、不安や恐怖を空の雲に投げ入れてみたりすると、こころは平静さを取り戻せることであろう。荒唐無稽なおまじないでもいい。恐怖から気をそれにと集中できれば、どんなものでも効く。
5-7-1.勇気は、恐怖の心身反応を抑制して、理性的に対処する。
ひとの勇気における恐怖忍耐の決断は、自律理性に発するが、恐怖抑制のその具体においても理性が指導的役割りをになう。危険もその恐怖も、未来の禍いを想像することで成り立つ。慣れないと想像は過度に悲観的になり、過度の恐怖をいだく。理性は、危険を冷静に観察し事実に即した分析をおこない、危険への過度な妄想を抑止し、恐怖を鎮める。脅されて恐怖・不安にとらわれると、短絡的対応をしがちだが、理性は、妄念と恐怖を沈静化し、焦らず合理的な対応をとらせるようにする。
恐怖は、感情として心身反応をもつ。心の抑制のみでなく、身体も抑制することが勇気には必要となる。基本は、恐怖と反対の身体対応をして、恐怖に萎縮した身体を弛緩させ、恐怖を小さくすることである。不安で呼吸が浅くなれば、深呼吸をし、筋肉が恐怖で緊張・萎縮すれば、これを解きほぐすような対応をすることになる。気持ちが上ずれば、気を臍下丹田にと下げるようにする。身体を反恐怖ののびのびした状態にもっていければ、心も自ずからそういう方向へと向けられていく。
恐怖は無化できなくても、それを外に出さないようにすることが勇気に求められる場合もある。逃走衝動はあってもこれを心の中に留めることである。逃走衝動を無化できなければ、勇気は、それが身体を動かさないようにと坐る対応にでる。恐怖の叫びの抑圧には、口をつむり歯噛みをして対応する。
5-7.勇気は、恐怖を小さ目にして、これに耐える。
危険に恐怖すると、動物は、逃げる。しかし、ひとは、逃げることが生にマイナスだと判断した場合、逃げないで、恐怖に耐える。ひとの勇気の特性は、自律的な理性の制御のもとで、恐怖に忍耐できることである。恐怖や不安を甘受し、逃走衝動などを抑圧して、勇気は耐える。大きな恐怖にも耐えられるようにと、これを小さめに感受できる工夫もして、ひとは、恐怖に耐え続ける。
恐怖から逃げない勇気は、まずは、これを正面から受け止めて耐える。心身の恐怖反応とその辛苦を押さえ込み、恐怖に動転しないようにと、気合をいれて耐える。心のみか身体も対決的対応をとって、恐怖を噛み殺そうと歯噛みをし、握りこぶしを固めるなどして、恐怖を小さく押さえ込み、勇気は、逃げずこれを甘受して耐え続ける。
ぶつかり押さえ込むのではなく、恐怖をかわ(躱)す手もある。禍い襲来の想像をやめ、その危険なもの以外にと意識・注意を向けるなら、恐怖にとらわれた心は小さくなって、躱しやすくなる。危険を意識するとしても、それの排撃にと攻撃的な構えをつくると、攻撃に気が移り、受身の姿勢の恐怖は、小さくなって、軽く受け流されるものとなる。
勇気は、恐怖への忍耐の勇気と、危険に大胆・果敢な攻撃的勇気に二分される。恐怖に耐える勇気は、辛く困難なものだが、攻撃的勇気は、恐怖がなくなればおのずと湧き出すこともあるし、ときには快とすらなる。困難で肝要な勇気は、恐怖に忍耐する勇気である。
5-6-6.酒は、勇気を景気づけるが、理性を麻痺させる。
ひとは、怒りや安心の感情をもって心身を興奮あるいは弛緩させるが、脳に直接作用する物質を体内にとりこむことで、心身を弛緩したり、興奮を高めるようなこともできる。勇気を出すために、景気付けに酒を飲むとか、より活動的にするための興奮剤になるものを摂取する場合がある。が、酒・たばこをはじめとして薬物類は、中毒になると生に深刻なダメージを与える。使用の制限や禁止がうたわれる所以である。
酒類は、勇気について、その恐怖・不安を鎮めるのに効果的である。脳の知的機能を麻痺気味にするので、危険(とくに知的解釈をもってなる危険)の意識がうすらぎ、不安・恐怖はうすらぐ。さらに、良識・良心の機能も麻痺ぎみとなって、日頃は臆するようなことが大胆に行えるようにもなる。憎悪・嫉妬なども理性は抑圧しているが、これらも解放されて放胆に、仕返しをと大胆に果敢に攻撃的に、過ぎて残酷ともなる。あるいは危険・反撃を顧慮するようなことも少なくなって、無思慮の無謀が平気となる。
酒に酔って大胆になるのはいいが、理性を麻痺ぎみにするものであることを重々心得ておかねばならない。良識や良心が千鳥足になったのでは、その勇気は、御者を失った暴れ馬でしかなく、狂気の暴勇に堕す。理性の深慮を麻痺させて気は楽であるが、醒めたとき、その短慮の暴勇を後悔することになる。