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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
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欲求は、その充足を目指す気持、実践的な心構えをもつ

2010年04月21日 | 節制論
2-5. 欲求は、その充足を目指す気持、実践的な心構えをもつ。
 ケーキを「欲しい」ひとは、ケーキのとろけるような甘さを想像してうっとりとしているだけではない。それを現実的に自分の口に入れることを目指す。想像的享受にとどまるのではなく現実的享受へと、観念から実在へと進む心構えをもつ。
 目的となるケーキの像は、自身の意識のうちにある観念である。欲求は、この観念を実在化することを求める。食欲は、「絵に描いたもち」ではおさまらない。快の想像を快の現実的享受にまでもたらそうとする。目的実現への実践的な心の構えをもつ。性欲の充足も想像だけではもたらされない。自分で充たすとしても、やはり、現実的身体的快楽へと向かう。
「欲する」、「~したい」の欲求は、自らがすすんで積極的に目指すものを招き、推進していく。それの実現への妨害・障害・距離を乗越えて、目的へと自発的に向かっていく内的な推進力をもっている。
 目的達成のためには、それに至る手段をたどっていくことになる。手段は、目的実現への懸け橋であり、目的観念を実在化するための実在的プロセスである。

欲求は、目的達成(快享受)を想像し理想化しこれに引かれる

2010年04月21日 | 節制論
2-4. 目的達成(快享受)を想像し理想化し、これに引かれる。
「欲しい」と思っている状態は、目的(ケーキ)の取得を描くが、そのうちでは、さらには、それを食べて食欲を満たす快をも想像していく。
 想像に集中すると、欠如の現在そのものは上の空になる。目的達成の時点での否定的な側面の想定も欠いて、価値物(目的)の理想化がなされる。そのすばらしい享受を想ってこれに引き付けられた状態である。目的達成においては、現実にかえり価値物の否定面も体験するので、幻滅する。だが、引かれ魅了されている段階では、「あばたも、えくぼ」である。逆の「食べず嫌い」もある。負の過剰なその想像も現実が解消する。

欲求の目的となるもの-価値物と快-

2010年04月17日 | 節制論
2-3. 目的となるもの-価値物と快-
 欲求では、欲しいものの充足がならず欠如状態にあるわけだが、欠如意識だけでは欲求には不足する。欲求は、その欠如するものを補い獲得しようと、これを目的として立てる。その目的物獲得には、しばしば褒美として快を伴う。高度な社会生活の欲求では、価値ある物=目的が主要な対象となり(反価値物の排除を含む)、その達成にともなう快感は付随するだけである。
 食欲・性欲では、主観的に快楽を目的にするが、他の欲求同様に、その欲求の客観的対象・目的物をもつ。食の場合、食べ物であり、性の場合、異性である。後者では、主観的な目的の快楽がもっぱらに意識されることもある。麻薬の場合は、もっと、主観的な快楽のみが目的として意識されることだろう。
 欲求が価値物(目的)を見出すのだが、逆の場合もある。価値物を見つけて、これへの欲求を生じ目的化することもある。食欲・空腹が、何かいいものはないかと適当な食べ物を選択していくのだが、逆に、おいしそうなケーキを見つけて、これへの食欲を生じることもある。

欲求の充足までには距離があり、媒介が必要

2010年04月17日 | 節制論
2-2. 充足までには距離があり、媒介が必要
 欠如するものがあったとしても、これが即、満たされるのだとしたら、欲求は不要である。「欲しい」と思うひまもなく充たされる。呼吸は、マズローでは、生の根本欲求にあげられるが、ふつうには、欲求などではない。だれも、呼吸したい、空気が「欲しい」と思うものはいない。即、充たされるからである。
 だが、これが妨げられるときには、「息がしたい」と大きな欲求になってくる。欲求は、欠如とともに、その欠如の補いが直ちにはできないところに成立する。欲求とその充足の間に距離があり障害が存在するのであり、そのことを意識してその間を結ぼう媒介しようという主体の営みが挟み込まれているのでなくてはならない。

欲求・欲望そのものは、欠如感をもって、不満で不快。

2010年04月17日 | 節制論
2-1. 欲求・欲望そのものは、欠如感をもって、不満で不快。
欲は、自身のうちに、価値あるものについての欠如の意識をもち、これを補いたいと思い、その欠如に不快感をいだく。砂漠のなかで喉が渇いて「水が欲しい」と渇望するものは、大変な不満・苦痛の状態にある。「飢え」といわれるような欠乏状態は、大きな不快として意識され、強くその補いを欲することになる。苦悩・苦痛というマイナスを踏まえて、これをなくしてゼロの状態に回復したいという欲求である。
これに対して、主体はマイナスの苦の状態にあるのではないが、目の前にプラスの価値ある物を見出して、これを我が物にしたい、これの快を得たいという欲求もある。そのプラスのすばらしいものが自分にはなく欠如しているのでわがものにしたいと。ケーキが欠如しているからといって、それは、水への渇望のような苦痛をもたらすものではない。なくても何でもないが、あれば、美味しいものなので欲しいということである。性欲でも「飢え」と形容されることがあるが、満たされないことが苦痛にまでなることはない。プラスの快楽を得ることがもっぱらの関心となる。
価値とは、一般的に、関与するものに好ましく有用なことで、新聞紙は、情報媒体としての価値物であるが、ときには包み紙という価値物になる。欲求対象の価値は、関わる欲求しだいである。砂漠で渇望される水は、黄金よりも高価値物になるが、長雨の中では、無価値どころか反価値物になる。欲求が大きいほどに高価値になる。高価値と評価されるものには、より強い欲求をもつ。