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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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欲求達成への主体の態度のちがい

2010年05月02日 | 節制論
3-4. 欲求達成への主体の態度のちがい-意欲・貪欲から渇望・哀願まで- 
 欲求の目的達成への道程、手段のプロセスにおいては、さらに実践理性つまり意志に関して、その自律と他律のちがいが大きなテーマになる。
 その欲求を実践理性=「意志」の主導のもとに自律的に展開するとき、この意志に感性も乗り気になって参加すると「意欲」になる。意志や意欲は、欲求(好んでの価値受容)においてよりは、価値実現・対象変革の実践に主として用いられ(意志は、嫌なこと=反欲求でも必要となれば行う)、欲求においても対象変革的に欲求する場面でいう。欲求内容自体が高度に精神的社会的なものからなり、意志をもって自律的に欲求実現へと向かう。食欲などの動物的欲求レベルではいわない。その欲求内容が高嶺の花であれば、「憧憬」「あこがれ」となる。意欲に泥臭さ・がむしゃらが加味されると「貪欲」といわれ、これは食欲・性欲にも機能する。
 欲求は、自分で求めているのだが、その充足の方便を他者に求めていくことも多い。自律でなく、他律的でもある。強く欲求していても自身ではどうしようもなく他律にまかせて待つ以外ない場合がある。「渇望」「切望」になる。「願望」は、他者依存の欲求の代表になる。「期待」や「身近な希望」も他律的で、他者に乞い願う。はいつくばっても欲求充足を他に頼むようなものは、「懇願」「哀願」といったものになる。
 「欲しい」と「欲する」を区別するが、より感情的で、ひとに他律的に哀願する傾向が強いのは、「~が欲しい」「~して欲しい」であろう。「~を欲する」は、より理性的意志的で、頼むとしても毅然とした態度をもっており自律面がより強いものになろう。

衝動・傾向性・本能

2010年04月25日 | 節制論
3-3. 衝動・傾向性・本能
 「衝動」は、短絡的な欲求で、理性的制御の媒介を振り切って突っ走る。それでも不随意の自律神経系のものではなく、随意的意識的に機能するものについていうのであり、理性の関与は可能である。「衝動買い」「衝動食い」等、衝動を意識する場面では、基本的には理性の制御が効き得る随意の営為について、その制御の及ばなかったことを反省するのである。
 「傾向性」をいうこともある。ひとの欲求に関する常々の自然的な傾き・好みである。理性的な制御をあまり働かさないで自然にまかせておくと、その方向におのずから進んでいく欲求のあり方である。「性向」「性癖」も同様な心の傾きであろう。食や性といった動物的欲求の根本の傾向性は、快に向かっていくことである。
 母性本能などの「本能」は、学習して経験的に獲得したものではなく、生得のものとされる。欲求としては、本能も「したい」「ほしい」と意識され随意的な面をもつ。胃は消化を行うが、この生得的な働きを本能とはいわない。本能は、反射運動などとちがって、意識で制御できる。「闘争本能」も「性本能」も、引く(反発する)働きを見て引力(反発力)があるというのと同じで、働きを実体化して見ただけである。「性癖ぐらいなら何とか出来るが、本能は・・」と悲観することはない。戦いをやめれば、闘争本能は消滅し、共感本能が顔を出す。

欲求充足の方法の短絡と媒介

2010年04月25日 | 節制論
3-2.欲求充足の方法の短絡と媒介
 われわれホモ・サピエンス(知性のヒト)の欲求は、当然、知的理性的な制御のもとに展開される。ひとの欲求は、高度に媒介的で、まず目的を意識し、次にこれの実現のための手段の過程を見出して、自覚的に実在的な手段の過程を目的実現へとたどっていく。
 理性の媒介的な過程、理性の制御の効き具合は、その欲求と個人に応じて相当に異なる。「衝動的に」「激して」というかたちの欲求実現は、そのときの欲求が強烈すぎてか、制御する理性が麻痺的状態にあって、知のコントロール・自律を失い、激しいパッション等に「衝き動かされ」短絡的になるものであろう。逆にいうと、ひとは、常々、短絡的ではなく、欲求に関して種々のことをふまえて冷静に判断し、周囲に配慮しながら、知的に媒介的にふるまっているということである。
 欲求は、その目的(価値物)に引かれ、これを導きの糸とするのだが、さらにこの欲求を生起し駆り立てる「きっかけ」「動機」の果たすものも大きい。盗みの「目的」は、価値物とそれの獲得であるが、盗みの「動機」は、盗みへと心を突き動かす要因となるもので、例えば、空腹とかお金がなかったからというようなものになる。

欲求の強さや持続性のちがい

2010年04月21日 | 節制論
3-1. 欲求の強さや持続性のちがい
食欲には、ふたつの相が区別される。ひとつは、食べ物自体が不足していて何でもいいから食べて「飢え」を充たしたいという個体維持のための必須の、いわば、第一次欲求である。もうひとつは、おいしいものが欲しいという、恵まれた者たちの第二次の選択的欲求である。節制がいわれるのは、後者のレベルでのことである。
高度の精神的な欲求も「飢え」「渇き」といった強い欲求になることがある。希望をふさがれた暗黒の「絶望」では、光を渇望して闇夜のなかで苦しみもがく。
欲求は、常時あるのではない。欲求と見なされることのある呼吸は常にしているが、常には自律神経で行っていて、「したい」「したくない」の欲求のそとにある。心臓や胃では、随意の部分がないので、鼓動欲とか消化欲はいわない。呼吸も欲求になるのは特殊限定的で、「息がしたい」と意識し随意になる時にのみいえるものであろう。はじめから自覚的に展開する食欲とか希望といった欲求も、機に応じ必要に応じて意識にのぼってくるもので、意志の制御はそれを捕らえて行われる。
欲求は、多くは断続的に持続する。息を止めていると呼吸欲は休むひまなく連続的に猛烈に強まるが、睡魔(睡眠欲)は、断続的に大きくなって襲う。性欲は、発情期以外は無化している動物も多い。ヒトではいつでも欲情をいだけるが、外的挑発がなければ、一生、無しで不充足感もなく安楽でありうる。食欲は、ひとの場合、草食動物に近く、毎日食べたくなり、日々に栄養の充足をと空腹感を抱く。また、美味な(快となる)ものの出現に応じて臨機に食欲をいだく。食欲は、かなり可変的で、断食などにも速やかに適応できる。

欲求の多様なあり方

2010年04月21日 | 節制論
3. 欲求の多様なあり方
長期戦をきらう「兵法」の一般とちがい、節制への戦いは一生の長きにわたるが、敵を知り、自己を知ることが必勝の要である点では同一であろう。欲求という敵のしたたかさを知り、欲求する自己の愚かしさを周知することが必要である。
欲求は、求める内容に応じて性欲・食欲等その質を異にし、生命の成層に応じて異なった欲求となり、その強さ・持続のあり方等の量のちがいをもつ。さらに、理性意志の介在の程度、自律・他律のちがい、個人と社会・時代での欲求内容の違い等々も問題となろう。