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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
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欲求は、その目的達成まで、持続する。

2010年05月03日 | 節制論
4-1. 欲求は、その目的達成まで、持続する。
 欲望・欲求は、それを成就し終結すると早々に忘れ去られる。だが、その達成のなるまでは、怨恨などと同じく、未決の状態に留まるから、忘れられることはなく、持続する。さしあたり、別のことで頭が一杯になれば、その欲は意識からは遠のくし、より大きな緊急の欲があれば、それによって些細な欲はかき消されるが、それらが解決すると、こころの底にわだかまっていたその欲がまた意識に浮上する。
 欲望・欲求は、欲しいものの自己への不足・欠乏に起因するから、砂漠での水への飢えのように、多くの場合、不充足のままでは、欠乏度は大きくなり、欲求は強くなり持続性を高める。逆に、価値感が変わったり、強い欲でも実現不可能と自覚されてあきらめがつくと、欲求は萎縮・消失する。性欲は、その挑発のない世界にはいると消えるし、食欲も、飢えの限度を超えると消えてしまう。

いやいやの欲求はないが、いやな欲求はある。

2010年05月03日 | 節制論
3-8. いやいやの欲求はないが、いやな欲求はある。
 欲求の充足では、成層の高いものほど、快を問題としなくなるが、その充足自体は、好ましいことで快を随伴する。不快なものは、欲求しない。が、理性の意志は、その目的達成に関して不快であろうと嫌悪感を生じようと、なすべきことなら、これを推し進めていく。
 欲求自体は、いやなことではなく、好んでいだくものだが、これをそとから制御する理性からいうと、好ましくなく、自分の欲求に対して嫌悪感をもつことはある。自分の食欲を制御できず、自己嫌悪することは一般的なことに属する。

「欲求」「欲望」

2010年05月03日 | 節制論
3-7.「欲求」「欲望」
 「~したい」とか「欲しい」ということの最も一般的な表現は「欲求」であろう。「欲望」もよく言われるが、これは、社会的な欲求で、かつ否定的に評価される欲求についていうのではないか。
 「欲求」は、動物的レベルのものについてもいうが、動物には「欲望」をいわない。動物は素直で、はるかを「望」んでの遠謀などもたないからであろう。「欲求」は、否定的イメージを免れており、自然的なものや生理的なものもふくむ。社会的場面でも肯定的な欲求は、たとえば「知的欲求」であって、「知的欲望」とはしない。
 欲望は、我「欲」の高「望」みになる。「豊かさへの欲求」には否定的印象はないが、「豊かさへの欲望」は、我欲をもって深慮遠謀、下賎な私的利益をむさぼるといった感じであろうか。欲望の「望」は、極言すれば、遠くを「望」み悪巧みをし、近くを「のぞ」き見てずるい事をするのである。「高貴な欲望」はない。高貴な望みが許されるのは、「願望」「希望」、あるいは「志望」などになる。だが、欲望は、私人の社会活動の原動力である。私欲を肯定し、かきたてさえするこの社会は、しばしば「欲望の社会」といわれ「肥大化する欲望」がいわれる。

時代と社会に制約される欲求 

2010年05月02日 | 節制論
3-6. 時代と社会に制約される欲求 
 食と性への欲求は、生に本源的でその欲求もその快も、時代と社会にあまり影響されない。だが、その有り様は、相当に変遷してきている。食は、欠くわけにいかないが、一般人が充たされるようになったのは、つい最近のことになる。時代をさかのぼれば、至るところに飢餓があった。飢えていた時代には、肥満体はあこがれであった。だが、いまは、逆で痩身が理想である。
 性欲も万人のものであるが、これは、個人的にはもたなくても不快でもなんでもないから、かつては、禁欲的に一生を送るものも少なくはなかった。現代社会は、性欲をあおる社会なので、性欲が旺盛になっているが、栄養に乏しい時代には、適齢期をすぎた者は早々に枯れていた。
 商品社会の現代では、贅沢な消費が勧められ、多様な欲求がどんどん創造されこれを肥大化させているが、かつては、そういう放縦はいましめられ、清貧を守る禁欲的な社会であった。
 近代に至るまで女性は男性支配のもとにあるのが一般だったので、女性の欲求はそうとうに抑圧されていた。男性的なものとしての名誉欲とか権力欲は、ないかのようだった。男女平等の現代社会では、皆、男らしくなっている。「極道の女」は、昔は、極道の男の愛人を指していたが、いまは、女極道のことを指す。善悪問わず、男にあるものは、女にもある。

人間における欲求の成層的展開 

2010年05月02日 | 節制論
3-5. 人間における欲求の成層的展開 
 ひとの欲求は、感情と同じく、動物的身体的なものから、人間的精神的なものまでがあって、層を成している。生命に基礎的な動物的欲求も、欲求としては意識的に随意に機能する。随意と不随意の境界にあるのが呼吸で、随意のときに呼吸欲となる。
 動物的欲求を充足しつつ人間的精神的な欲求に生きるのがひとのあり方になろうが、食欲・性欲は強い欲求になるので、これに引きずられる。しかし、その場合でも高度な精神的な欲求である「幸福」や「希望」のもとに包摂して、食に困ることなく「幸福だ」とか、夫婦になることを「希望する」といった形をとる。ひとは、動物ではなく、本源的に精神に生きる存在である。
 下位の基礎的欲求が、高貴な人間的精神世界の欲求までを貫いている場合もある。家族愛、権力欲などは、猿にも顕著で、動物的な欲求を人間的に脚色したものになろう。
 高低の成層をなす欲求は、他方で横への広がりをもつ。個を離れて家族・共同体・国家を自己とした欲求をもつ。愛国心は、国家そのものへの愛ではなく、自国のみへの排他的愛である。広がりは、さらに、個体・個別から普遍性・合理性へと欲求内容が拡大することでもある。国家主義は、自国ではなく、国家そのものを愛著する。個体を離れては欲求にならない食欲とちがって、生きとし生けるものを慈しむ普遍的な願いなどもある。わがうちなる神・仏心がもつ欲求である。
 観念・理想の世界への欲求は、合理を越えて非合理な場合もあり、実在しない妄想の世界のこともある。芸術や宗教的欲求は、これになる。その高度な観念世界は、動物的欲求を専制支配することもある。いくら飢えていても、牛や豚を食べず、飢え死を選ぶ宗教がある。