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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
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意識することとしての欲求

2010年05月08日 | 節制論
5-1. 意識することとしての欲求
 我々の生命活動の多くは、意識活動以前において、自動的に不随意に行われている。手を動かすように、心臓や胃を自分で意識的に動かす必要があるのだとしたら、大変である。随意になる部分についても、一々に意識してこれを行うことが大変なものは、歩行のように、なかば自動化し無意識的にことが遂行される。食でいえば、噛むとか呑み込むことは、普通には自動的になされる。が、必要なときには、しっかり噛むとか、ゆっくり呑み込む、無理に呑み込むということを意識的に行う。
 欲求は、これらの自動的な営為の上に成り立った、自覚的意識的に行うひとの営みになる。欲求は、「~したい」と思い、「欲しい」と思うのであり、意識するものである。食べられそうなものが近づいたら自動的に反応して生体に取り入れるのではなく、「ほしい」「食べたい」と意識し(つまり欲求して)、その食べ物を描き、食べることを想像して、食の行動を始めていくのである(潜在意識において無自覚に欲求を抱いているということはあろう。それもやはり、意識のうちで潜在的に、目的を立ててこれを「欲している」のである)。
 食欲も、それが意識されないときには、「食欲が、ない」のである。食べたいと「思う」ところに食欲はある。呼吸欲は、通常は、ない。自律神経で自動的に呼吸する。呼吸欲になるのは、窒息しそうになって意識するときのみである。
 尿意は、せっぱつまると「したい」という大きな欲求になる。尿意がなくても出せるが、それは、「欲した」わけではなく、欲求の充足でもない。食事も同様である。食べたくなくても食べられるが、これは、食欲を充たしているのではない。「したい」「ほしい」と意識することで欲求となる。

欲求は、生そのもの

2010年05月08日 | 節制論
5. 欲求は、生そのもの。
 欲は、ひとを苦しめることがあり、無欲が理想としてかかげられることもある。だが、ひとに基本的な動物的な欲求がなくなったら、生そのものがあやうくなる。
 食欲がなくなり、なにを食べても砂を噛むような状態だとすると、食事をしたくなくなるし、食べることを忘れがちになるであろう。これを放置しておいた場合、たちまち栄養不足になり、個としての生そのものが危うくなる。
 性欲は、これがなければ、犯罪は相当に減ることになるが、子孫を残すものはなくなって、人類は消滅することになる。個人も社会も人類そのものも、食欲や性欲があるから、自然に放置した状態でも、無理なく存続可能となっているのである。

欲は、かならずしも快楽を目的としていない-快楽主義の批判

2010年05月05日 | 節制論
4-4. 欲は、かならずしも快楽を目的としていない-快楽主義への批判-
 欲求の充足は、快になるが、快楽自体を欲求の目的にするのは、自然的には、動物的基礎欲求つまり食欲と性欲ぐらいに限定される。所有欲・名誉欲などの社会的人間的欲求が充足するのは、快をもってではなく、目的の達成、価値ある目的物の獲得によってである。快感が伴わなくてもかまわない。
 快楽を目的にするのは食・性の動物的欲求になるから、快楽が目的の快楽主義には、下賎なイメージが伴う。食欲では快楽は必須ではないが、性欲では、なによりも快楽が目的となるから、快楽主義というと、性的快楽を人生の目的にした存在ということになる(快楽主義というとエピキュリアンであるが、欧米のepicure,epicureanは、食道楽、食の快楽を第一とするようである)。人間的欲求でも快感が目的のものがあるが、それは、遊び・賭け事等になり、やはり、遊び人ということで、下賎ということになる。
 しかも、人間的なレベルでの性的欲求は、快楽主義のように快楽を専らとするものではない。「一緒に暮らしたい」「一生つれそって生きたい」というような「希望」などの精神的な形式をとって社会的な欲求となる。肉欲としての快楽は寝室に閉じ込められる。人間的な性欲について、快楽を見るだけの快楽主義者は、衣服をまとった男女の前で性器を露出させる下品な存在である。
 食の快楽にしても、厳密にいうと、飢えを充たす場合は、欠乏の苦痛を解消したいということであって、快楽を味わいたいというのではない。食道楽の快楽主義は、飢えの時代には、贅沢だった。飢餓を横目に贅沢を謳歌する無慈悲なエゴイストでないと食道楽(快楽主義者)にはなれなかったであろう。
 快楽主義が嫌悪されてきたのは、もっともなことである。

快楽が目的の食欲・性欲

2010年05月03日 | 節制論
4-3. 快楽が目的の食欲・性欲
 食と性は、個体と種の生維持のための本源的営為になる。これに引き付けるために自然は、両方に強力な快楽のアメをつけた。ひとがその生の維持をことさらに気にしなくても、快楽に引かれて、その自然的営みはおのずから達成される。自然の狡知である。所有欲などの高度の社会的欲求になると、もはや、快楽は問題外で、快(喜び)が皆無であっても所有欲を充たそうとする。だが、性欲と食欲は、快楽自体が(主観的な)目的になる。
 社会的な欲求でも、快楽が目的になるものがあり、それは、食・性とともに、節制の対象となる。射幸心を充たす賭け事・遊び、嗜好品の酒・たばこ等がそれになる。快が目的でそれが害悪になる程度に応じて、禁止や節制の対象になる。
 食では、美味しいものを腹いっぱい食べて無上の快楽にひたる。栄養あるもの(喉越しのおいしさの快)を、必要な量満たす(満腹の快感)ということである。さらに食の場合、有害なものの混入を排除する必要があり、それには、「不快」が働く。悪臭・舌での苦みなど、不味く嘔吐をもよおすものになる。
 快楽といえば、性の快楽を思うぐらい、性欲ではなによりも快楽が目的となる。食の場合、不味くても栄養ということでのどに押し込むことが可能だが、性の場合、自然的には、生殖には、男子の場合は特に、快楽が必須である。男子のレイプされたという話は信用されない。体外受精の精子の釣り書にも快楽由来(若いドナー)であることが記されている。女子の場合は、不快でも妊娠する。

欲求充足における安堵等の快感

2010年05月03日 | 節制論
4-2. 欲求充足における安堵等の快感
 欲求は、目的の実現にむけて緊張状態を維持するが、その達成で、緊張解除の安堵感を成立させる。それは、各欲求達成に固有の快とは別の無の快感である。食や性の欲求の目的をなす快・アメは、無の快ではない。プラスのものの享受の快である。食欲は、積極的な快をもたらす「甘くておいしい」ケーキを食べて、そのプラスの快に満足するのである。そこで同時に、欲求実現への期待感を充たしているのであれば、これも心地よい。
 さらに、欲求での快感に、緊張解除の安堵感とは反対の、緊張自体の快感の存在することもある。猫は、ときに、ねずみをもてあそんで、捕まえても逃がし、再度追いかけて喜々としている。釣りや狩猟では、獲物を食べることではなく、追いかけたり、釣りあげる時のわくわくする緊張感がたまらないのである。