5-1. 意識することとしての欲求
我々の生命活動の多くは、意識活動以前において、自動的に不随意に行われている。手を動かすように、心臓や胃を自分で意識的に動かす必要があるのだとしたら、大変である。随意になる部分についても、一々に意識してこれを行うことが大変なものは、歩行のように、なかば自動化し無意識的にことが遂行される。食でいえば、噛むとか呑み込むことは、普通には自動的になされる。が、必要なときには、しっかり噛むとか、ゆっくり呑み込む、無理に呑み込むということを意識的に行う。
欲求は、これらの自動的な営為の上に成り立った、自覚的意識的に行うひとの営みになる。欲求は、「~したい」と思い、「欲しい」と思うのであり、意識するものである。食べられそうなものが近づいたら自動的に反応して生体に取り入れるのではなく、「ほしい」「食べたい」と意識し(つまり欲求して)、その食べ物を描き、食べることを想像して、食の行動を始めていくのである(潜在意識において無自覚に欲求を抱いているということはあろう。それもやはり、意識のうちで潜在的に、目的を立ててこれを「欲している」のである)。
食欲も、それが意識されないときには、「食欲が、ない」のである。食べたいと「思う」ところに食欲はある。呼吸欲は、通常は、ない。自律神経で自動的に呼吸する。呼吸欲になるのは、窒息しそうになって意識するときのみである。
尿意は、せっぱつまると「したい」という大きな欲求になる。尿意がなくても出せるが、それは、「欲した」わけではなく、欲求の充足でもない。食事も同様である。食べたくなくても食べられるが、これは、食欲を充たしているのではない。「したい」「ほしい」と意識することで欲求となる。
我々の生命活動の多くは、意識活動以前において、自動的に不随意に行われている。手を動かすように、心臓や胃を自分で意識的に動かす必要があるのだとしたら、大変である。随意になる部分についても、一々に意識してこれを行うことが大変なものは、歩行のように、なかば自動化し無意識的にことが遂行される。食でいえば、噛むとか呑み込むことは、普通には自動的になされる。が、必要なときには、しっかり噛むとか、ゆっくり呑み込む、無理に呑み込むということを意識的に行う。
欲求は、これらの自動的な営為の上に成り立った、自覚的意識的に行うひとの営みになる。欲求は、「~したい」と思い、「欲しい」と思うのであり、意識するものである。食べられそうなものが近づいたら自動的に反応して生体に取り入れるのではなく、「ほしい」「食べたい」と意識し(つまり欲求して)、その食べ物を描き、食べることを想像して、食の行動を始めていくのである(潜在意識において無自覚に欲求を抱いているということはあろう。それもやはり、意識のうちで潜在的に、目的を立ててこれを「欲している」のである)。
食欲も、それが意識されないときには、「食欲が、ない」のである。食べたいと「思う」ところに食欲はある。呼吸欲は、通常は、ない。自律神経で自動的に呼吸する。呼吸欲になるのは、窒息しそうになって意識するときのみである。
尿意は、せっぱつまると「したい」という大きな欲求になる。尿意がなくても出せるが、それは、「欲した」わけではなく、欲求の充足でもない。食事も同様である。食べたくなくても食べられるが、これは、食欲を充たしているのではない。「したい」「ほしい」と意識することで欲求となる。