4-4. 目的のための苦痛(手段)は、合理的に因果等を踏まえねばならない
ひとが苦痛を甘受するのは、その犠牲を払っても実現したいものがあってのことであろう。何ごとをなすにしても、自然に対してならその自然法則を周知して、それの向かう方向なり、反応を理解していなくては、その自然を自分の求めるようには動かせない。社会的な問題でも、社会の法則・動静をしっかりと掴んでいなくては、苦痛の犠牲は生きることなく無駄に終わってしまうであろう。
苦痛甘受をもって事にかかわるのであれば、無駄な苦痛にならないように、求める目的から観念的に因果を遡源して、その目的を実現しうる赤い糸を手元の原因までたどって、これを客観的に把握していることが必要であろう。単に自分の主観的な願望を目的にあげてがむしゃらに動いて苦痛を甘受しても、願望は実現しない。願望に到るまでの筋道をたどって手元にかえり、この手元を確保し、自身の苦痛がそこに必要な手段となっていることを確かめていなくてはならない。単に不快・苦痛に耐えるだけで成果が得られるのではない。道理を踏まえて合法則的に歩み、そのプロセスにおいて苦痛甘受が必須というときの苦痛のみが、成果と結ぶのである。単なる苦痛の甘受は、徒労に終わる。
ひとは、大きな成果をだすとき、大きな苦痛を耐えてすることが多いが、それがかなうのは、合理的に筋道がたっていて、苦痛から望み・目的までの道が通じているときのみである。いくら大きな苦痛を受け入れて宗教的苦行を重ねても、雨を降らせたり交通事故を止めることはできない。目的の確かな手段となる苦痛のみが目的を可能とするのである。受験の成功は、勉学に辛苦を重ねることでなるのであって、いくら全国の神社仏閣に願掛けに走り回り苦労を重ねても、無益な苦労・苦痛である。親が駆け回るのなら、気休めぐらいにはなるが、受験生本人が全国の神社を駆け回るのだとすると、無駄・無益どころではなく、有害で、回るほどに勉学を遠のくから、受験失敗確実となる。
自然においては、快は、好んで受け入れ、苦痛不快になるものは、避ける。快を享受しようと動くので、自然は、導きたい方向にこの快をさしはさむ。ときに、それは、罠・エサとなり、快に引かれて身を亡ぼすことともなる。先を、未来を洞察する人間は、このとき、快が自分たちの生に資するより、有害と知れば、これを回避して、快を抑制する。ことの展開に苦痛が不可避という場合は、苦痛は有害で損傷を与えるものであるから、さらに、その展開の過程をしっかりと洞察し、深慮遠謀をもって対処しなくてはならない。その上で、必要なら、苦痛を回避する自然を抑止して、これを甘受する。動物なら回避し逃走するものを、「肉を切らせて骨を切る」ということで、苦痛を甘受して、目的へと邁進できる。もちろん、いたずらに苦痛を受け入れるのではない。苦痛なしで同じ目的が実現可能なのであれば、当然、苦痛のない道を選ぶ。苦痛を甘受する以外に道のないとき、これを回避せず受け止めて、道を先へと進めるのである。
ひとが苦痛を甘受するのは、その犠牲を払っても実現したいものがあってのことであろう。何ごとをなすにしても、自然に対してならその自然法則を周知して、それの向かう方向なり、反応を理解していなくては、その自然を自分の求めるようには動かせない。社会的な問題でも、社会の法則・動静をしっかりと掴んでいなくては、苦痛の犠牲は生きることなく無駄に終わってしまうであろう。
苦痛甘受をもって事にかかわるのであれば、無駄な苦痛にならないように、求める目的から観念的に因果を遡源して、その目的を実現しうる赤い糸を手元の原因までたどって、これを客観的に把握していることが必要であろう。単に自分の主観的な願望を目的にあげてがむしゃらに動いて苦痛を甘受しても、願望は実現しない。願望に到るまでの筋道をたどって手元にかえり、この手元を確保し、自身の苦痛がそこに必要な手段となっていることを確かめていなくてはならない。単に不快・苦痛に耐えるだけで成果が得られるのではない。道理を踏まえて合法則的に歩み、そのプロセスにおいて苦痛甘受が必須というときの苦痛のみが、成果と結ぶのである。単なる苦痛の甘受は、徒労に終わる。
ひとは、大きな成果をだすとき、大きな苦痛を耐えてすることが多いが、それがかなうのは、合理的に筋道がたっていて、苦痛から望み・目的までの道が通じているときのみである。いくら大きな苦痛を受け入れて宗教的苦行を重ねても、雨を降らせたり交通事故を止めることはできない。目的の確かな手段となる苦痛のみが目的を可能とするのである。受験の成功は、勉学に辛苦を重ねることでなるのであって、いくら全国の神社仏閣に願掛けに走り回り苦労を重ねても、無益な苦労・苦痛である。親が駆け回るのなら、気休めぐらいにはなるが、受験生本人が全国の神社を駆け回るのだとすると、無駄・無益どころではなく、有害で、回るほどに勉学を遠のくから、受験失敗確実となる。
自然においては、快は、好んで受け入れ、苦痛不快になるものは、避ける。快を享受しようと動くので、自然は、導きたい方向にこの快をさしはさむ。ときに、それは、罠・エサとなり、快に引かれて身を亡ぼすことともなる。先を、未来を洞察する人間は、このとき、快が自分たちの生に資するより、有害と知れば、これを回避して、快を抑制する。ことの展開に苦痛が不可避という場合は、苦痛は有害で損傷を与えるものであるから、さらに、その展開の過程をしっかりと洞察し、深慮遠謀をもって対処しなくてはならない。その上で、必要なら、苦痛を回避する自然を抑止して、これを甘受する。動物なら回避し逃走するものを、「肉を切らせて骨を切る」ということで、苦痛を甘受して、目的へと邁進できる。もちろん、いたずらに苦痛を受け入れるのではない。苦痛なしで同じ目的が実現可能なのであれば、当然、苦痛のない道を選ぶ。苦痛を甘受する以外に道のないとき、これを回避せず受け止めて、道を先へと進めるのである。