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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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目的のための苦痛(手段)は、合理的に因果等を踏まえねばならない

2024年10月15日 | 苦痛の価値論
4-4. 目的のための苦痛(手段)は、合理的に因果等を踏まえねばならない   
 ひとが苦痛を甘受するのは、その犠牲を払っても実現したいものがあってのことであろう。何ごとをなすにしても、自然に対してならその自然法則を周知して、それの向かう方向なり、反応を理解していなくては、その自然を自分の求めるようには動かせない。社会的な問題でも、社会の法則・動静をしっかりと掴んでいなくては、苦痛の犠牲は生きることなく無駄に終わってしまうであろう。
 苦痛甘受をもって事にかかわるのであれば、無駄な苦痛にならないように、求める目的から観念的に因果を遡源して、その目的を実現しうる赤い糸を手元の原因までたどって、これを客観的に把握していることが必要であろう。単に自分の主観的な願望を目的にあげてがむしゃらに動いて苦痛を甘受しても、願望は実現しない。願望に到るまでの筋道をたどって手元にかえり、この手元を確保し、自身の苦痛がそこに必要な手段となっていることを確かめていなくてはならない。単に不快・苦痛に耐えるだけで成果が得られるのではない。道理を踏まえて合法則的に歩み、そのプロセスにおいて苦痛甘受が必須というときの苦痛のみが、成果と結ぶのである。単なる苦痛の甘受は、徒労に終わる。
 ひとは、大きな成果をだすとき、大きな苦痛を耐えてすることが多いが、それがかなうのは、合理的に筋道がたっていて、苦痛から望み・目的までの道が通じているときのみである。いくら大きな苦痛を受け入れて宗教的苦行を重ねても、雨を降らせたり交通事故を止めることはできない。目的の確かな手段となる苦痛のみが目的を可能とするのである。受験の成功は、勉学に辛苦を重ねることでなるのであって、いくら全国の神社仏閣に願掛けに走り回り苦労を重ねても、無益な苦労・苦痛である。親が駆け回るのなら、気休めぐらいにはなるが、受験生本人が全国の神社を駆け回るのだとすると、無駄・無益どころではなく、有害で、回るほどに勉学を遠のくから、受験失敗確実となる。
 自然においては、快は、好んで受け入れ、苦痛不快になるものは、避ける。快を享受しようと動くので、自然は、導きたい方向にこの快をさしはさむ。ときに、それは、罠・エサとなり、快に引かれて身を亡ぼすことともなる。先を、未来を洞察する人間は、このとき、快が自分たちの生に資するより、有害と知れば、これを回避して、快を抑制する。ことの展開に苦痛が不可避という場合は、苦痛は有害で損傷を与えるものであるから、さらに、その展開の過程をしっかりと洞察し、深慮遠謀をもって対処しなくてはならない。その上で、必要なら、苦痛を回避する自然を抑止して、これを甘受する。動物なら回避し逃走するものを、「肉を切らせて骨を切る」ということで、苦痛を甘受して、目的へと邁進できる。もちろん、いたずらに苦痛を受け入れるのではない。苦痛なしで同じ目的が実現可能なのであれば、当然、苦痛のない道を選ぶ。苦痛を甘受する以外に道のないとき、これを回避せず受け止めて、道を先へと進めるのである。

快と違い、苦痛なら、必ず先(目的・結果)へと進む

2024年10月08日 | 苦痛の価値論
4-3-2. 快と違い、苦痛なら、必ず先(目的・結果)へと進む
 ひとは、価値創造においてその手段の過程が快であっても、動物とちがい、必ずしも、これにのめり込んで先に進むのを止めるようなことはしない。しかし、手段の快だと意識していないとこれに魅されて先に進むことを忘れがちとなろう。先の目的を忘れないかぎりでの快の受け入れ・享受にとどまるようにと注意する必要がある。その点では、苦痛なら、苦痛を一刻も早くなくしたいから、そこにとどまってなどおれず、苦痛の先へとみずからを強制し、苦痛のないところへ、あるいは目的とするところへと直行することになる。
 動物では、快を与えると、それにのめり込み先には進まない。芸を教えるとき、先に褒美の餌(快)を与えるとそれに魅されて、芸を覚える方には向かない。ひとだと、先に快の褒美を出しても、しっかりしておれば、その褒美に見合うようなことを続けうるが、それでも、味わった快が心残りでは、さきへと集中することは難しくなろう。その点、苦痛が与えられた場合は、これを避けたいから、苦痛を少しでも早く克服したいと、苦痛の鞭に駆り立てられて先に、目的へと進む。苦痛の自然的反応(苦痛回避衝動)が苦痛のないところへと猛進することはもちろんだが、それができない状態、苦痛を甘受せざるをえないという場合においても、一刻もはやく苦痛甘受を終わりたいと目的へと邁進することになる。馬を御者は、思うように走らせるために、鞭打つ。進むことを億劫がっている馬には鞭を加えて苦痛を与える。馬は、鞭うたれ続けることを止めてもらえるようにと、御者のいうことを聞き入れて嫌であっても前に進む。苦痛では、快とちがい、これをなくする方向に向かわずにはおれないから、苦痛のないその先へと直行することになる。それは、人の目的論的営為でもそうであろう。辛苦の状態を一刻もはやくなくしたいので、それが可能になる目的達成へとひたすらに前進することになる。途中の手段の過程が快だと、これに魅されて立ち止まり、快に安住してしまえば前には進まなくなる。
 多くの価値あるものの創造の過程は、快である場面もあり苦痛である場面もあることであろう。快であれば、そこにとどまりたくなり、先には進みにくいことが生じる。それに対して苦痛が生じる場面になると、まずは、その苦痛を回避したいということで、その苦痛回避に向かおうとすることであろう。だが、ひとは、その過程の目的も踏まえて、その苦痛を回避したのでは、ことを台無しにし目的実現が不可能となることを知っている。その苦痛を回避することで損害があまり出ないのであれば、その苦痛は自然的反応としての回避へと向かってよかろうが、その回避によって、多大な損害が生じると分かっておれば、苦痛を回避せず甘受することに人は向かう。苦痛を耐える過程を回避しないことでもって、その先に大きな価値創造の結果(目的)が可能となるのであれば、これを甘受し忍耐して乗り越えていこうとする。しかも、その苦痛の過程は小さくしておきたいから、それがかなうようにと、最小限の苦痛をもって、先の目的へとまっしぐらになろう。

動物なら快にはのめりこむが、ひとは、これを手段ともする

2024年10月01日 | 苦痛の価値論
4-3-1. 動物なら快にはのめりこむが、ひとは、これを手段ともする  
 美味しければ、動物は、快楽を享受するのみである。芸を覚えさせようという場合、先に餌(快)を与えたら、これにのめり込んで、芸を覚えることには進まない。快は、芸をした後に褒美として出すのでなくてはならない。だが、ひとは、快を享受しつつ、その先の栄養摂取等の目的を考えることができる。美味しいけれどこの美味の堪能はこれぐらいでやめにして、栄養として必要な不味い物も食べようと、快への自制ができる。
 自然が快楽をえさにして実行させる生促進になること自体を、動物は、自分の意識において求めることはないが、ひとは、快にしたがうとともに、生促進自体を自分の目的として意識することができる。自然の狡知の全体を自分の知の営為にできる。食の快楽を求めるとき、その背後で自然は、栄養摂取を実現している。性的快楽を求めることによって、自然は、その動物個体の意識を超えたものである受精を実現する。その全体を、動物とちがって、ひとは、手段・目的のもとにおさめて自覚することができる。食や性の快楽は手段だと承知して、その上に、栄養摂取の目的を立てたり、受精を目的として明確にし、快楽享受を制限し制御もする。元気な精子を受精させねばと、しばらく快楽の性的営みを延期もできる。
 ひとも、美味しい物を食べるとき、その快楽に魅され、それがすべてとなって、動物なみになって、手段であることを忘れることがある。ときには、肥満せぬよう栄養摂取の大目的を拒否して、快楽にのめりこもうともする。快楽享受が最終目的になってしまう。性的快楽も同様である。それが受精をもたらす手段であることは、みんな周知している。だが、そのことをまるで顧慮のそとにおいて、快楽のみを最終目的にすることは多い。ときには、受精を拒否し妊娠を拒否して自然の目論見を意識的に回避することもある。快の先に大きな目的があった場合でも、その目的を忘れて、魅了する快楽にのめりこみ、そこに停滞することが生じる。これが苦痛という手段なら、できるだけ早くそれを抜け出したいから、苦痛の先の目的へと邁進する。快では、とくに目的への意志が弱い場合、手段のはずの快楽にかまけてしまい、目的には進まないで終わることにもなる。
 動物のように、その快楽に魅されてこれで終わりとすることが時にはあるとしても、ひとは、根本的に未来に生きる存在であり、多くの場合、さきを見ていて、快楽だからといっても、その現状に留まることなく、おそらく、最終目的にまで進むであろう。芸術活動の場合、楽しいことで、これに一日のめりこむこともあろうが、その先の目的を意識してその目的実現、完成をもって充足するのが普通である。絵画を楽しく描きつつも時間の都合で中断したままになっていたとすると、ちゃんと仕上げなくてはと、気がかりになる。ひとは、快苦にかかわらず、未来の目的を第一として、苦痛を回避せず、快でもこれに魅されてそこにとどまり続けることをしないで、それを手段と見定めて、これの先にと進まずにはおれないのである。

目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある

2024年09月24日 | 苦痛の価値論
4-3. 目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある
 ひとは、苦痛を耐え忍ぶことを手段として、価値あるものを獲得する。労働は、その代表で、辛い労働を手段にして、その結果において価値あるものを作り出す。秋の実りを得るためには、炎天下での辛い農作業を耐えることが必要である。だが、その実り・価値あるものを獲得するための手段の営為は、かならずしも苦痛である必要はない。価値ある結果を導き出す手段の過程が苦痛・快どちらでも可能というのなら、それが価値ある同じ目的(結果)を産むのならば、むしろ、快を手段とすることであろう。わざわざに命を縮めるような辛苦を引き受けなくても、楽に成果が出せるのであれば、それを取る。ときに、そういう快の、楽な仕事も存在する。
 絵を描くことを楽しみにしているひとは多い。できた絵は、他者にとって価値がなければ、その営為は、価値を生む営為ではなかったのであるが、それが市場で価値あるものとして売れるようになることもある。画家として生計を立てている人のうちには、描くことが楽しく快適なものになる人もいることであろう。音楽家も、できあがった作品がみんなにとって魅力的で価値あるものになるとしても、それを創作する過程は、かならずしも、苦痛である必要はない。創作が楽しいなら、その方がよい。創作が快なら、それは、持続しやすいし、多くの時間をそれにまわすことになって、より多くの価値ある作品を生み出すことが可能となる。芸術家のなかには、人生に苦悩していて、その作品創造をその苦悩解消の手段にするような人もいる。ここでは価値創造の過程は、苦痛どころか、反対に苦痛を癒す過程となっているのである。
 一般的に仕事は、苦しいことのあるもので、その苦痛を耐えしのび、それを手段とし不可避のプロセスとして、結果として、価値あるものを創造する。歴史は、その苦難の労働をだんだんと楽なものにと改善してきた。苦難になる過程・部分は、道具や機械にやらせて、ひとは、それの制御・操作という楽な仕事にしてきた。農業というと田畑を耕作する重労働であったが、いまは、もう耕作等は農業用の各種の機械でもってすることで、ひとは、それを制御・操作することで済んでいて、かつてとは雲泥の差で楽なものとなってきている。
 価値あるものを生み出すには、かならずしも、苦痛を介することはないのである。工夫をすることで、価値創造の手段の過程が快適な作業となり、楽なものにできるのなら、わざわざに苦痛を甘受するようなことはない。しかし、快であったり楽しみなものは、皆が自分ですることになり、わざわざ対価を払って買いたいようなものにはならなくなる。盆栽の水やりとか、プラモデル作成は、自身の楽しみであり、ひとには譲りたくない仕事であろう。だが、苦痛になるものなら、皆が回避しがちになる。それは、希少で、皆がその創造したものを欲しがるような活動となり、それに要する苦労には、これに報いるだけの対価を払ってもよいということになろう。創造的なことをする場合、その歩みを妨害し阻害するものがどこかに出てくるのが普通であり、そこに生じる苦痛を回避していたのでは、先には進めない。苦痛になると、これには必ず回避衝動がともない、苦痛からは逃げ出したくなる。逃げずその苦痛を甘受し忍耐することがないと先には進めなくなる。こういう場合は、苦痛を忍耐することをもってのみ、その先の価値あるものの創造は可能となるのである。

意志は、苦痛が創る

2024年09月17日 | 苦痛の価値論
4-2-3-3. 意志は、苦痛が創る    
 「三代目」が家をつぶすのは、跡継ぎだというので大事にして、苦労をさせず、結果、苦痛によって養われる強い意志の育たないことが一番の原因であろう。強い意志は、苦痛・苦労の中で創造される。強い身体が、身体を無理やりに使って鍛えて可能になるように、こころも、厳しい辛苦の体験をもって鍛えられる。
 ひとは、知恵をもって自然のもとで至高の存在となっているが、単なる知、理性だけではすぐれた生き方には、不足する。理性知は、ことにかかわって、深い洞察をもち、真実を見出すけれども、それだけでは、この世界を星の高みから傍観するにとどまる。深く洞察しても、単に観想するだけでは、自身と世界を動かすようなことはできない。自己自身と外的世界を動かしこれに実在的に関与していくには、実践が必要となる。理性は、観想する理性であるにとどまらず、実践的理性、つまりは意志とならねばならない。
 この意志は、苦難・苦痛に出会って動くものである。もし快の状態にあるとしたら、これを享受するだけでよく、そこには、その快への欲求は生じても、これをことさらに意志する必要はない。意志が求められるのは、そこで思うようにならないことがあって、つまり、障害があって不快・苦痛を生じているところである。仮に快であるところで意志が求められるとすると、それは、その快への欲求・衝動を抑止する場面である。その快楽享受を抑止する苦痛に際して、苦痛を耐えて快享受を抑止するその反自然の事態に、理性意志が登場する。あるいは、快享受がならない場面で、快獲得のために苦労・苦難に挑戦するとき、意志が登場するのである。酒など麻薬の快を享受するところには、意志はいらない。意志は、この快楽を拒否して(時には禁断症状の苦痛に耐え)苦闘するとき、求められる。意志は、思うようにならない苦難・苦痛に直面して、これを理性の思うようにと変革していくときに必要となる。この苦難の世界に挑戦する理性が、実践的理性、すなわち意志となるのである。
 意志が苦痛に挑戦することを通して成長し強化されるのは、身体の鍛錬と同じであろう。身体の強化は、これを使うこと、酷使することで可能になる。鉄棒で大車輪をするには、何回も失敗を繰り返しつつ、身体の使用の仕方に工夫をして、だんだんと巧みになって、これを実現するのである。おなじく、意志も苦難に出会って挑戦を繰り返す中で、心の使い方を訓練して、しだいに鍛錬され、意志強化となる。叱られてはじめは落ち込んでいても、しだいにこれを自身で内心において調整して乗り切っていくことがうまくなっていく。苦痛への挑戦を反復するなかで、意志は強化される。
逆境の中の若者は、これに耐えて屈することがなければ、強い意志を創り上げ、やがては大成していく。温室育ちの三代目は、逆に没落する。ただし、あまりに強烈な苦痛では、意志の強化にならず、打ちひしがれた負け犬となって、三代目以下になることもある。身体も鍛えるにあまりにも無謀なやり方では、身体を破壊してしまう。ほどほどの苦痛とこれへの挑戦が必要である。意志がかかわるものは、多くが精神的苦痛であろう。この苦痛は、絶望にせよ不安にせよ、当人の解釈しだいというようなところがある。身体の酷使とちがって、過度の苦痛であるかどうかは当人の心構え次第ということであれば、耐えられない苦痛はなくすることができる(受験や就職で絶望・憔悴しきっていても、海外へ移住でもすれば、リセットできる)。どんな場合も、生じている苦難の解釈を変えるなどして挑戦可能なものに作りなし、自らの意志強化、鍛錬へとつなげていくことが可能となるのではないか。
 なお、意志は苦痛によって創られるといったが、もう少しことを分けて見ると、狭義の苦痛自体は、ひとを痛めつけ、心身をくたびれさせ、しばしば挑戦精神・気力をも奪う嫌悪すべきもので、意志の強化を可能とするものは、その苦痛に駆り立てられて心身を総動員して挑戦する積極的な前向きの心構え(気力など)をもつところにあるというべきであろうか。身体損傷の苦痛の場合など、その痛み自体に対してみずからが意志して何かできることはほとんどない。痛みを前にして、なにくそと気力を奮い起こし、痛みを吹き飛ばそうと意気込み、創造的な活動へと自身を奮い立たせる過程に、堅忍不抜の意志が目覚めるのである。痛み自体は、意志を直接奮起させるとはいえないかも知れない。しかし、ことがスムースで快である場合は、これに魅され享受するだけで、積極的に意志を働かせるような場はない。苦痛は、直接的には人を痛めつけ意気消沈させるが、この苦痛を前にして、尊厳を有する人間は、苦痛(自然)に支配されるのでなく、これを支配下において、挑戦精神を奮い起こす姿勢をもてるのである。しつこい苦痛が、尊厳を有した人間にチャレンジ精神をもつことを強いる。挑戦する心構えや意志の喚起は、苦痛で踏みにじられてということであろうから、やはり、苦痛あっての意志の形成と解して良いであろうか。