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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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報復律  

2024年11月19日 | 苦痛の価値論
4-5-3. 報復律  
 ものの等価交換において、苦痛・労苦の交換が行われるが、交換を望むのは、相手が自分の欲求を満たすもの、快となるものを有していて、自分はもっていないからであった。つまり、快(あるいは使用価値)が相互の交換へと駆り立てたのである。それに対して、苦痛が前面に出て、関わりを求めることもある。それは、「目には目を」の報復律(lex talionis同害復讐律)の場合である。快の贈答とは反対で、相手から被った苦痛があって、これと等しい苦痛をお返ししなくては、おさまりがつかないというのである(この根底には、ひとは、万人同一、対等だという思いがある)。被った苦痛あるいは損害と等しいものを返すことで、相互に同じマイナスをつくって、貸し借りなしにと決着をつける。ここでは、相手の苦痛と自分の苦痛が同等であると、等質化され、その仕返しの程度も踏まえて等量化もされている。さらに、歯を折られても、相手に既に歯がなければ、歯以外の手足等を傷つけ痛め付けることになるから、苦痛そのものが一般化され等質化されてもいることとなろう。商品となるものの価値の等価交換は、相互が自身で味わった苦痛を前提にして、同時的に、それに要した過去の苦痛を等価にと計量している。だが、報復律は、過去の一方の苦痛(損害)と未来に生じる他方の苦痛という異なる時間に生じる苦痛について、等しい苦痛をもって対応するのである。
 原理的には、被った苦痛(損害)を踏まえて、これと同じだけの苦痛(損害)を相手に返すことで、決着がなる。鬱憤を晴らせる。「歯には歯」であり、折られた歯には仕返しとして、相手の歯を折ることである。だが、それでは、損害・苦痛を二倍にするだけである。それを避けるために、場合によっては、折られた歯、苦痛に相当する価値あるもの・快をもって償うことにもなった。苦痛を快で埋め合わせる。マイナスに等しいプラスをもってしてゼロとする決着である。苦痛・損傷が同質化され量化されることで同等に置かれて報復は成り立つことだが、さらに、快で償うということでは、快とも等質化され等量化されていることとなる。快不快がプラスとマイナスにと量化されて計量されうるものとなっているのである。報復律の穏やかなやり方は、苦痛に苦痛で報いるのではなく、苦痛を快で保障し償い、埋め合わせをするということになる。
 自身のうちでは、動物でも人でも、快不快は同質化され量化されている。苦痛はどんな苦痛も苦痛であり回避したいもので、快も快として、どんなものでも受け入れたいものであり、両者は、受け入れか排除かという逆方向になるもので、プラスとマイナスの記号がつく。快も不快も方向が逆になるだけで同一線上にある受用の価値と反価値(逆向きの価値)として等質化され、量化され比較でき、差し引き計算できる。どんな苦痛であれ、適量の麻薬の快をもってこれをゼロにすることができ、マイナスをプラスでもって埋め合わせてなくすることができる。ひとのばあいは、目的を設定してその手段として、苦痛を甘受もする。苦痛を苦痛として計算するだけではなく、大きな快の目的の不可避の手段とすることでもある。その場合は、その手段の苦痛のマイナスの量と、獲得される目的(快)での価値のプラスの量の差引計算をする。マイナスが大きければ、その苦痛甘受は中止となろう。
 なお、報復律が適用される事例は、日常的には、「目」や「歯」の損傷・苦痛であるよりは、器物の損壊が多いことだし、不当・不法の償いも計らねばならない。苦痛・快不快を含めて、すべてを金銭(価値)でもって表し等質化するのが普通であろうか。それらのプラスマイナスの諸量の計量をもって解決を計る。

ものの交換は、苦痛の交換となることが多い

2024年11月12日 | 苦痛の価値論
4-5-2. ものの交換は、苦痛の交換となることが多い
 自分がさんざん苦痛を忍んで蜂蜜をたくさんとった場合、周囲の皆に与えるとしても、これを見知らぬものには、あるいは、敵対しているものには、分け与えない。しかし、自分のもとでは、大いに余りきっているのである。そのとき、敵対するものが、自分の求めている肉をたくさん持っていたとすると、これとなら交換してもいいと考えるであろう。敵に贈与するのではなく、同じ価値のものを自分の都合いいものにと交換するだけで、損得なしの等価交換である。敵対しているものは、それはそれで肉をたくさんもっているとしても、大いに苦労して得た肉であり、腐らせても、敵には、贈与することはできない。が、あまっているのであり、他方では蜂蜜には飢えているのだとしたら、相互に、等量の苦痛を払った分を交換して各々の苦痛を使用価値あるものにできたらと思うことであろう(二者の間では、無理でも、媒介者を経れば、抵抗感なく、それは実現されるであろう)。肉に苦痛をはらったものは、余分の肉のままではその苦痛は生きないが、蜂蜜に変えられるなら生きる。蜂蜜のあまった者においても同様で、肉にできれば、自分の余分の蜂蜜分の苦痛が生きる。相互に、損をせず、両得となる。
 お互いの苦痛の甘受の忍耐は、相互に交換することで、多様に、すべてその価値を実現できることになる。自分の苦痛を他者が楽しみ、他者の苦痛を自分が楽しむのである。もちろん、これが成り立つには、苦痛が価値創造の手段として十分に働いて、価値ある目的物を創造できていることが前提である。いくら苦痛を甘受するといっても、それが無意味なもの、無駄なもの、稚拙なものであっては、価値あるものを創造することはできない。価値ある目的物を創造しての手段価値をしっかりもった苦痛甘受のみが、交換の価値をもったものとして、生きるのである。
 交換においては、快は、交換の背後に控えているとしても、表には出てこない。快を等しいものにして交換するのでもない。表に出ていて、交換を支えるものは、苦痛・苦労の方になる。相互に費やした苦痛・苦労が等量だということを踏まえて、双方が納得して、交換しあうのである。その背後にそれを使用価値として楽しみ・快を実現することがあるが、その快(使用価値)の大きさは、等しいものでなくてよい。というより、使用価値について、相互が異なるから交換しようというのであって、そこに見出されている快は、相互に別々であるのが基本となる。同じ快なら、交換せず、各々の有しているものを使って楽しめばよいのである。使用価値(快)を大きく感じる方は、少々の無理はしても手に入れたいという交換の促進要素にはなろうが、その交換の相互に等しい苦痛の価値には、色を添える程度であろう。基本は、苦痛・苦労の等しいものを交換しあうのである。一匹のメザシがいくら喉から手が出るほどほしいとしても、交換するに自分のさんざん苦労して作った箪笥一つと交換はしない。  
 それぞれ別である苦痛を等価とみて交換するという前提には、苦痛一般にと各自の苦痛の還元されていることがあろう。生理的苦痛にもいろいろあるし、精神的苦痛もある。それら異質の苦痛が、等しい質にと還元されて取り扱われていることがあって、交換での等値は可能となる。苦痛となる身体の損傷については、それで生活がどの程度阻害されるかで、等質化しその量を測っている。苦痛一般について、生を打ちのめす辛さとその度合いで、これを測っているのであろう。労働の場合、時間でその量を測るのが普通である。自分の時間、自由な時間が阻害されて、その労働の時間の間は、自分のではなく、他者のものとなっているのである。ひとの田んぼで働いている時間は、自分ではなく、他者の手足となり他者の時間となっているのである。さらに、その労働の時間のうちでの、損なわれ方、苦痛の程度ということもある。重労働と軽作業では、同じ時間でも、苦痛の強度がちがう。それらを踏まえて等質化し量化して計算することになろう。

辛苦(苦痛甘受)は、他のものと交換できる価値になる

2024年11月05日 | 苦痛の価値論
4-5-1. 辛苦(苦痛甘受)は、他のものと交換できる価値になる  
 苦痛の創造した価値は、他者に利用される快適な価値となることがある。苦労して仕上げた椅子は、自分の座れる価値ある椅子であるが、それは、他の者にも価値ある椅子であろう。かつ、他の者が苦痛の手段をへて創造したその価値物は、たとえば、手袋は、自分にも価値ある物となりうる。それらは、各自においては、たくさん作った場合は、無用なものとなる。その余分のものは、自分には価値がないが、他の人には、使用価値のあるものとなりうる。自分の作った余分のものと他者のつくった余分のものは、交換することで相互に有用性をとりもどす。交換によって有用な使用価値としてよみがえる。自分たちの苦痛の創造した余分なものは、相互に、交換において価値あるものに変身する。その各々の苦痛(の甘受)は、各自において交換価値を有したものとなる。 
 その各々の苦痛甘受は、各自各様の苦痛であり、別々に生じた苦痛である。それが等値されて交換されるのであるから、その異なる苦痛は、等値されたのである。どういう苦痛であっても、交換されるところでは、等しいもの、同じ質としての苦痛に還元されているのである。かつ量的にも等しいものが交換されているはずである。椅子一つと手袋10組という比率かもしれない。交換においては、量・質ともに等しい(苦痛、苦労の)価値となる。
 もっとも、その交換を支える苦痛は、広義のもので、自分の時間をとられていることぐらいでも苦痛といえば苦痛になる。主観的に嫌悪すべき苦痛刺激のあることも、自由にならない時間ということも苦痛である。快楽の状態で創造したものは、他のひとも自分でそういう快楽は享受したいから、自分で創造することになり、みんなが自分で作るのなら、他者がほしがるもの、価値とはなりにくい。プラモデル作りは、楽しい作業であり、ひとにやらせたくない。自分でやる。だが、苦痛は、万人、回避したいことであり、この苦痛なしに快適な価値あるその成果が享受できるのなら、そうしたいこととなり、苦痛の創造したものは、一般的に価値あるものとなる。また、苦痛をもって創造したものは、自身には尊い犠牲を払っての価値ある創造であり、他者に簡単には譲れない。その苦痛にみあった別の価値あるものとの交換であってはじめて納得のいくものとなる。
 何が苦痛になるかは、おおむねは、万人において一致している。心身の損傷となることが苦痛の元である。ただし、慣れているものとか、もともとその方面では鈍感とか、少しの違いはある。自分ですると大きな苦痛になるが、他のひとではより小さな苦痛で済むのであれば、その小さな苦痛で済むもの同士を交換すれば、相互に好都合となろう。得手となるものを作り、不得手なものに交換すれば、小さな苦痛で相互が大きな価値を享受できることとなる。

辛苦(の忍耐)は、自他の手段価値となる

2024年10月29日 | 苦痛の価値論
4-5. 辛苦(の忍耐)は、自他の手段価値となる   
 苦痛を甘受すること、忍耐それ自体は、味わいたいものではない。苦痛は、嫌悪すべきもの、反欲求の代表で、反価値である。が、それの忍耐は、価値ある事柄として受け入れられることが多い。それは、その苦痛甘受の営為を通して、価値あるものが創造されるからである。それによってしか価値創造がならないのであれば、その苦痛甘受・忍耐は、貴重な手段としての価値をもつことになる。さらに、苦痛を耐えることを通して自身の能力の開発されることもある。辛いトレーニングは、能力開発の手段価値となる。
 辛苦・苦痛に耐えることで、自分の外に価値ある物の創造されることがある。その苦痛の甘受・忍耐は、自分から独立した価値物となって、自分だけにではなく、ほかのひとにも価値あるものとして役立ちうることになる。自分の苦痛は、そのマイナス・反価値で終わるのではなく、それをもって生み出したものにおいて、価値としてよみがえり、これを受け取った他者には、享受したい価値物となり、快となって、有益なものとなる。
 ひとに役立つ自分の苦痛甘受・忍耐は、直接的になることもある。他者の価値ある状態、楽のために、その人に代わって自分が苦痛を引き受ける場合である。たとえば、重い荷物を運ぶという苦痛になることを、そのひとが忍耐して運ぶ代わりに、自分が引き受けるのである。重い荷物を自分が引き受けてその苦痛を甘受して運ぶことで、そのひとは、楽ができる。自分が苦痛甘受しただけ、そのひとは、苦痛を抱くことなくそれに相当するものを享受できる。 
 時には、その人自身にはできない事柄を自分が引き受けて苦痛甘受の忍耐をすることもある。背中を按摩することは、その人自身ではできない。それをしようとしたら、相当に難しいことで、厄介なことになる。だが、他人が代わって、その背中を按摩したり、掻いてあげることはそれほどの苦労なくして可能となる。おそらく苦痛になるとしても、小さな苦痛でそのことが実現できる。按摩では、まさに、相手の手(手段)となって働くのである。自分の手だが、按摩の間は、相手のものとなっているのであり、自身はその間、相手のまさに手段(犠牲)になるのである。苦労の価値は、その犠牲になった時間で測られることが多い。

よく考えて、苦痛甘受、忍耐しなくてはならない

2024年10月22日 | 苦痛の価値論
4-4-1. よく考えて、苦痛甘受、忍耐しなくてはならない 
 苦痛甘受は、その生に損傷をもたらし、心身を疲弊させる拒否したい嫌なことである。したがって、苦痛を甘受するという超自然的な振る舞いは、安易には受け入れられない。ほかに方法がないとか、それが目的のための最高を結果するというような場合に限って、苦痛甘受の忍耐は、受け入れるべきであろう。 
 苦痛甘受、忍耐は、意外に愚かしいものとなることがある。結果・目的について、しっかりと考えることをしないからである。せっかくの苦痛も甘受も、生きないことになる。忍耐には、愚かしい忍耐、無意味な忍耐、自虐的忍耐、邪悪な忍耐等がある。いずれも、自然を超越する苦痛甘受の忍耐自体は尊いのであるが、その目的・結果が愚かしいのである。せっかくの忍耐が生かされないことになる。激痛に耐えたのに、結果は、さんざんということになりかねない。受験に合格させてくださいと近所の神社に願掛けし、早朝からお参りを繰り返したとしても、その苦労は報われないどころか、その時間分勉強をしないのだから、おそらく不合格の度合いを高める。目的と手段をしっかりと精査・精選することが必要である。手段・目的がしっかりしておれば、その苦痛甘受も生きるし、やりがいがあり、よりよく忍耐できることになる。それがいい加減では、苦痛甘受・忍耐は生きない。
 忍耐は、奴隷労働のように強制されることもある。苦痛が続くと、苦痛に鈍感になることもある。邪悪な経営者のために過労死するまで働かされることがある。苦痛甘受は、自分を無駄に殺すことともなる。人でなしの貪欲な経営者のために命を捨てる忍耐は、するべきではない。忍耐するに際しては、その苦痛と甘受の仕方、その目的についてしっかりと考えながらすることがいる。確実に忍耐は自己を犠牲にするのだから、その目的も手段も自分でよく見極めて展開することが求められる。本来、人間は、未来に生きる。今、法学部学生であるのは、未来の法曹になるためである。その未来がなく、現在の法学部生を永遠に続ける者はいない。その、未来に生きる人間であるのに、苦痛の忍耐では、現在の苦痛に意識が奪われがちとなり、未来のことを考える余裕を与えないぐらいに厳しいものになることがある。苦痛と忍耐から、時々は距離をとって、未来の結果を想像する余裕をもっていなくてはならない。 
 忍耐では、その苦痛(損傷)甘受の限度を超えたものとなった場合も考えておく方がいい。無謀な我慢は苦痛・損傷で身を亡ぼすことになりかねない。さらには、苦痛甘受だけでなく、目的の実現に失敗することもでてくる。当然、それにも備えておくことがいる。苦痛と甘受が無駄に帰すことがある。「骨折り損のくたびれもうけ」は、まれなことではない。よくあることである。忍耐においては、苦痛の多大な犠牲を払うのだから、それに見合う成果があると思いたくなるが、現実は、あまくない。期待通りにいくとは限らない。苦痛・犠牲のみを負って終わることもある。さんざんな目にあうことは、苦痛甘受では、しばしばである。快を手段として目的を実現しようというのなら、目的確保に失敗しても快は得たのであり、損害は少ない。だが、苦痛を手段とする場合、失敗は、犠牲だけを残す。その覚悟もして、深慮遠謀のもとに忍耐・苦痛甘受はしなくてはならない。