4-5-3. 報復律
ものの等価交換において、苦痛・労苦の交換が行われるが、交換を望むのは、相手が自分の欲求を満たすもの、快となるものを有していて、自分はもっていないからであった。つまり、快(あるいは使用価値)が相互の交換へと駆り立てたのである。それに対して、苦痛が前面に出て、関わりを求めることもある。それは、「目には目を」の報復律(lex talionis同害復讐律)の場合である。快の贈答とは反対で、相手から被った苦痛があって、これと等しい苦痛をお返ししなくては、おさまりがつかないというのである(この根底には、ひとは、万人同一、対等だという思いがある)。被った苦痛あるいは損害と等しいものを返すことで、相互に同じマイナスをつくって、貸し借りなしにと決着をつける。ここでは、相手の苦痛と自分の苦痛が同等であると、等質化され、その仕返しの程度も踏まえて等量化もされている。さらに、歯を折られても、相手に既に歯がなければ、歯以外の手足等を傷つけ痛め付けることになるから、苦痛そのものが一般化され等質化されてもいることとなろう。商品となるものの価値の等価交換は、相互が自身で味わった苦痛を前提にして、同時的に、それに要した過去の苦痛を等価にと計量している。だが、報復律は、過去の一方の苦痛(損害)と未来に生じる他方の苦痛という異なる時間に生じる苦痛について、等しい苦痛をもって対応するのである。
原理的には、被った苦痛(損害)を踏まえて、これと同じだけの苦痛(損害)を相手に返すことで、決着がなる。鬱憤を晴らせる。「歯には歯」であり、折られた歯には仕返しとして、相手の歯を折ることである。だが、それでは、損害・苦痛を二倍にするだけである。それを避けるために、場合によっては、折られた歯、苦痛に相当する価値あるもの・快をもって償うことにもなった。苦痛を快で埋め合わせる。マイナスに等しいプラスをもってしてゼロとする決着である。苦痛・損傷が同質化され量化されることで同等に置かれて報復は成り立つことだが、さらに、快で償うということでは、快とも等質化され等量化されていることとなる。快不快がプラスとマイナスにと量化されて計量されうるものとなっているのである。報復律の穏やかなやり方は、苦痛に苦痛で報いるのではなく、苦痛を快で保障し償い、埋め合わせをするということになる。
自身のうちでは、動物でも人でも、快不快は同質化され量化されている。苦痛はどんな苦痛も苦痛であり回避したいもので、快も快として、どんなものでも受け入れたいものであり、両者は、受け入れか排除かという逆方向になるもので、プラスとマイナスの記号がつく。快も不快も方向が逆になるだけで同一線上にある受用の価値と反価値(逆向きの価値)として等質化され、量化され比較でき、差し引き計算できる。どんな苦痛であれ、適量の麻薬の快をもってこれをゼロにすることができ、マイナスをプラスでもって埋め合わせてなくすることができる。ひとのばあいは、目的を設定してその手段として、苦痛を甘受もする。苦痛を苦痛として計算するだけではなく、大きな快の目的の不可避の手段とすることでもある。その場合は、その手段の苦痛のマイナスの量と、獲得される目的(快)での価値のプラスの量の差引計算をする。マイナスが大きければ、その苦痛甘受は中止となろう。
なお、報復律が適用される事例は、日常的には、「目」や「歯」の損傷・苦痛であるよりは、器物の損壊が多いことだし、不当・不法の償いも計らねばならない。苦痛・快不快を含めて、すべてを金銭(価値)でもって表し等質化するのが普通であろうか。それらのプラスマイナスの諸量の計量をもって解決を計る。
ものの等価交換において、苦痛・労苦の交換が行われるが、交換を望むのは、相手が自分の欲求を満たすもの、快となるものを有していて、自分はもっていないからであった。つまり、快(あるいは使用価値)が相互の交換へと駆り立てたのである。それに対して、苦痛が前面に出て、関わりを求めることもある。それは、「目には目を」の報復律(lex talionis同害復讐律)の場合である。快の贈答とは反対で、相手から被った苦痛があって、これと等しい苦痛をお返ししなくては、おさまりがつかないというのである(この根底には、ひとは、万人同一、対等だという思いがある)。被った苦痛あるいは損害と等しいものを返すことで、相互に同じマイナスをつくって、貸し借りなしにと決着をつける。ここでは、相手の苦痛と自分の苦痛が同等であると、等質化され、その仕返しの程度も踏まえて等量化もされている。さらに、歯を折られても、相手に既に歯がなければ、歯以外の手足等を傷つけ痛め付けることになるから、苦痛そのものが一般化され等質化されてもいることとなろう。商品となるものの価値の等価交換は、相互が自身で味わった苦痛を前提にして、同時的に、それに要した過去の苦痛を等価にと計量している。だが、報復律は、過去の一方の苦痛(損害)と未来に生じる他方の苦痛という異なる時間に生じる苦痛について、等しい苦痛をもって対応するのである。
原理的には、被った苦痛(損害)を踏まえて、これと同じだけの苦痛(損害)を相手に返すことで、決着がなる。鬱憤を晴らせる。「歯には歯」であり、折られた歯には仕返しとして、相手の歯を折ることである。だが、それでは、損害・苦痛を二倍にするだけである。それを避けるために、場合によっては、折られた歯、苦痛に相当する価値あるもの・快をもって償うことにもなった。苦痛を快で埋め合わせる。マイナスに等しいプラスをもってしてゼロとする決着である。苦痛・損傷が同質化され量化されることで同等に置かれて報復は成り立つことだが、さらに、快で償うということでは、快とも等質化され等量化されていることとなる。快不快がプラスとマイナスにと量化されて計量されうるものとなっているのである。報復律の穏やかなやり方は、苦痛に苦痛で報いるのではなく、苦痛を快で保障し償い、埋め合わせをするということになる。
自身のうちでは、動物でも人でも、快不快は同質化され量化されている。苦痛はどんな苦痛も苦痛であり回避したいもので、快も快として、どんなものでも受け入れたいものであり、両者は、受け入れか排除かという逆方向になるもので、プラスとマイナスの記号がつく。快も不快も方向が逆になるだけで同一線上にある受用の価値と反価値(逆向きの価値)として等質化され、量化され比較でき、差し引き計算できる。どんな苦痛であれ、適量の麻薬の快をもってこれをゼロにすることができ、マイナスをプラスでもって埋め合わせてなくすることができる。ひとのばあいは、目的を設定してその手段として、苦痛を甘受もする。苦痛を苦痛として計算するだけではなく、大きな快の目的の不可避の手段とすることでもある。その場合は、その手段の苦痛のマイナスの量と、獲得される目的(快)での価値のプラスの量の差引計算をする。マイナスが大きければ、その苦痛甘受は中止となろう。
なお、報復律が適用される事例は、日常的には、「目」や「歯」の損傷・苦痛であるよりは、器物の損壊が多いことだし、不当・不法の償いも計らねばならない。苦痛・快不快を含めて、すべてを金銭(価値)でもって表し等質化するのが普通であろうか。それらのプラスマイナスの諸量の計量をもって解決を計る。