4-2-3-2. 時代によって快苦への対応は相当に異なってくる
かつて、禁煙が大きな社会問題となったことがある。禁煙を求められても、中毒だからやめられないという者がけっこういたし、嫌煙権があるのなら、喫煙権があると息巻いていた。汽車に乗れば、もうもうとした煙の中にいて、皆平気であった。だが、いまは、喫煙者は日陰者である。あれほど中毒になっていたものを、皆やめた。その気になれば、中毒になっていても、やめることができる。やめることがしばらく続くと、余計な欲求であったから、喫煙欲自体が消滅もして、ほしくさえなくなることにまで進んだ。
快苦をひとは制御する。損傷を被る苦痛に耐えられる。ましてや、快楽は、価値あるものの獲得の感情であり、マイナス(苦痛・損傷)ではなくゼロにとどまるだけのことで、深刻なものではなく、苦痛に比して容易に耐えられる。とは思うが、現代社会において、各種の快楽への中毒では、砂糖中毒にしても、アルコール中毒にしても、個人の手には負えないというようなことを聞く。単に生理的なものにとどまらず、それに精神的要因が加わった場合、自分の意志だけでは、どうにもならないというようなこともある。意志の問題だというのは、最後は、ラディカルには、そうだとしても、歴史的にみれば贅沢三昧といってもいい生活に浸っている現代人を前にして、それだけで片づけようというのは乱暴な話になるのかも知れない(レイプを性欲に、戦争を闘争本能に帰すのと似た、短絡な間違った発想になるのかもと)。
食べ物などにしても、美味の快楽に浸りきった毎日なので、節制せよ、抑制せよといっても簡単にはいかなくなっている。菓子はいうまでもなく、果物などでも、強い甘味のものだけが売られていて、過食を誘う。みかんは、かつては、酸っぱさが効いていて過食はさそわなかった。だが、いまは、どの店頭の柑橘も酸味ゼロで甘すぎて過食を誘う。ニュージーランドあたりからの輸入のリンゴは、酸味があって堅く適度に甘く、何より小さくて食べやすく過食にはなりにくい。だが、日本の最近のリンゴは、多くが甘すぎて大きすぎて過食させる。果物は、日本のはナシでもブドウでも同様である。糖度が高くて大きければ値段を高くしてよいという商売人のもとでそうなっているのであろうが、困ったものである。酸っぱいブドウなどこの世にないかのようである。酸味があってこその独特の美味さであり、過食を抑止するものになるが、日本では、もはや、求めることが困難な状態である。お菓子を絶ち飲み物から砂糖を除去しても、果物が、なかには野菜までが甘さを競っていて、快楽主義があらゆる方面に蔓延している現代社会では、みずからの意志でもって快に、苦痛・不快に耐えよといっても、そう簡単にはできない生活になっているのである。
ひとは、常に時代の子である。戦前は、子供は、うちでもそとでも殴られて成長していた。自叙伝などを覗いてみると、父親のみでなく母親にすら何かあるとしばしば殴られていたようである(cf.大杉栄『自叙伝』)。小学校の先生は、鞭をもって教育していた。いまなら裁判になるような乱暴なことが普通であった。そんな時代と今は、自身の意志の使用についても、相当に異なっている。あの、「三代目は家をつぶす」を地でいった、忠臣蔵の、家臣のことなどまるで頭になく、ふしだらで、我慢・忍耐心ゼロの浅野内匠頭ですら、見事に切腹できたらしいではないか。皆がそういうことをする時代なら、軟弱な人間でも簡単に腹も切れるのである(浅野内匠頭、本当は、ぼんぼんゆえ往生際も悪かったかも知れない。だとしても、みっともないので押さえつけて即首を切って、発表は体裁を整えたことであろう)。『葉隠』などを見ると、随分短慮で乱暴で命知らずの、平時の話がたくさん出てくる。それがごく普通という時代もあったのである。根本的には意志が自身の感性・欲望を抑止して苦痛をしっかりと我慢・忍耐してしかるべきではある。が、甘え切った今の時代では、そう簡単にはいかない。生ぬるい時代には、生ぬるいやり方でないとうまくいかないのであろう。
かつて、禁煙が大きな社会問題となったことがある。禁煙を求められても、中毒だからやめられないという者がけっこういたし、嫌煙権があるのなら、喫煙権があると息巻いていた。汽車に乗れば、もうもうとした煙の中にいて、皆平気であった。だが、いまは、喫煙者は日陰者である。あれほど中毒になっていたものを、皆やめた。その気になれば、中毒になっていても、やめることができる。やめることがしばらく続くと、余計な欲求であったから、喫煙欲自体が消滅もして、ほしくさえなくなることにまで進んだ。
快苦をひとは制御する。損傷を被る苦痛に耐えられる。ましてや、快楽は、価値あるものの獲得の感情であり、マイナス(苦痛・損傷)ではなくゼロにとどまるだけのことで、深刻なものではなく、苦痛に比して容易に耐えられる。とは思うが、現代社会において、各種の快楽への中毒では、砂糖中毒にしても、アルコール中毒にしても、個人の手には負えないというようなことを聞く。単に生理的なものにとどまらず、それに精神的要因が加わった場合、自分の意志だけでは、どうにもならないというようなこともある。意志の問題だというのは、最後は、ラディカルには、そうだとしても、歴史的にみれば贅沢三昧といってもいい生活に浸っている現代人を前にして、それだけで片づけようというのは乱暴な話になるのかも知れない(レイプを性欲に、戦争を闘争本能に帰すのと似た、短絡な間違った発想になるのかもと)。
食べ物などにしても、美味の快楽に浸りきった毎日なので、節制せよ、抑制せよといっても簡単にはいかなくなっている。菓子はいうまでもなく、果物などでも、強い甘味のものだけが売られていて、過食を誘う。みかんは、かつては、酸っぱさが効いていて過食はさそわなかった。だが、いまは、どの店頭の柑橘も酸味ゼロで甘すぎて過食を誘う。ニュージーランドあたりからの輸入のリンゴは、酸味があって堅く適度に甘く、何より小さくて食べやすく過食にはなりにくい。だが、日本の最近のリンゴは、多くが甘すぎて大きすぎて過食させる。果物は、日本のはナシでもブドウでも同様である。糖度が高くて大きければ値段を高くしてよいという商売人のもとでそうなっているのであろうが、困ったものである。酸っぱいブドウなどこの世にないかのようである。酸味があってこその独特の美味さであり、過食を抑止するものになるが、日本では、もはや、求めることが困難な状態である。お菓子を絶ち飲み物から砂糖を除去しても、果物が、なかには野菜までが甘さを競っていて、快楽主義があらゆる方面に蔓延している現代社会では、みずからの意志でもって快に、苦痛・不快に耐えよといっても、そう簡単にはできない生活になっているのである。
ひとは、常に時代の子である。戦前は、子供は、うちでもそとでも殴られて成長していた。自叙伝などを覗いてみると、父親のみでなく母親にすら何かあるとしばしば殴られていたようである(cf.大杉栄『自叙伝』)。小学校の先生は、鞭をもって教育していた。いまなら裁判になるような乱暴なことが普通であった。そんな時代と今は、自身の意志の使用についても、相当に異なっている。あの、「三代目は家をつぶす」を地でいった、忠臣蔵の、家臣のことなどまるで頭になく、ふしだらで、我慢・忍耐心ゼロの浅野内匠頭ですら、見事に切腹できたらしいではないか。皆がそういうことをする時代なら、軟弱な人間でも簡単に腹も切れるのである(浅野内匠頭、本当は、ぼんぼんゆえ往生際も悪かったかも知れない。だとしても、みっともないので押さえつけて即首を切って、発表は体裁を整えたことであろう)。『葉隠』などを見ると、随分短慮で乱暴で命知らずの、平時の話がたくさん出てくる。それがごく普通という時代もあったのである。根本的には意志が自身の感性・欲望を抑止して苦痛をしっかりと我慢・忍耐してしかるべきではある。が、甘え切った今の時代では、そう簡単にはいかない。生ぬるい時代には、生ぬるいやり方でないとうまくいかないのであろう。