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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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時代によって快苦への対応は相当に異なってくる

2024年09月10日 | 苦痛の価値論
4-2-3-2. 時代によって快苦への対応は相当に異なってくる
 かつて、禁煙が大きな社会問題となったことがある。禁煙を求められても、中毒だからやめられないという者がけっこういたし、嫌煙権があるのなら、喫煙権があると息巻いていた。汽車に乗れば、もうもうとした煙の中にいて、皆平気であった。だが、いまは、喫煙者は日陰者である。あれほど中毒になっていたものを、皆やめた。その気になれば、中毒になっていても、やめることができる。やめることがしばらく続くと、余計な欲求であったから、喫煙欲自体が消滅もして、ほしくさえなくなることにまで進んだ。
快苦をひとは制御する。損傷を被る苦痛に耐えられる。ましてや、快楽は、価値あるものの獲得の感情であり、マイナス(苦痛・損傷)ではなくゼロにとどまるだけのことで、深刻なものではなく、苦痛に比して容易に耐えられる。とは思うが、現代社会において、各種の快楽への中毒では、砂糖中毒にしても、アルコール中毒にしても、個人の手には負えないというようなことを聞く。単に生理的なものにとどまらず、それに精神的要因が加わった場合、自分の意志だけでは、どうにもならないというようなこともある。意志の問題だというのは、最後は、ラディカルには、そうだとしても、歴史的にみれば贅沢三昧といってもいい生活に浸っている現代人を前にして、それだけで片づけようというのは乱暴な話になるのかも知れない(レイプを性欲に、戦争を闘争本能に帰すのと似た、短絡な間違った発想になるのかもと)。
 食べ物などにしても、美味の快楽に浸りきった毎日なので、節制せよ、抑制せよといっても簡単にはいかなくなっている。菓子はいうまでもなく、果物などでも、強い甘味のものだけが売られていて、過食を誘う。みかんは、かつては、酸っぱさが効いていて過食はさそわなかった。だが、いまは、どの店頭の柑橘も酸味ゼロで甘すぎて過食を誘う。ニュージーランドあたりからの輸入のリンゴは、酸味があって堅く適度に甘く、何より小さくて食べやすく過食にはなりにくい。だが、日本の最近のリンゴは、多くが甘すぎて大きすぎて過食させる。果物は、日本のはナシでもブドウでも同様である。糖度が高くて大きければ値段を高くしてよいという商売人のもとでそうなっているのであろうが、困ったものである。酸っぱいブドウなどこの世にないかのようである。酸味があってこその独特の美味さであり、過食を抑止するものになるが、日本では、もはや、求めることが困難な状態である。お菓子を絶ち飲み物から砂糖を除去しても、果物が、なかには野菜までが甘さを競っていて、快楽主義があらゆる方面に蔓延している現代社会では、みずからの意志でもって快に、苦痛・不快に耐えよといっても、そう簡単にはできない生活になっているのである。
 ひとは、常に時代の子である。戦前は、子供は、うちでもそとでも殴られて成長していた。自叙伝などを覗いてみると、父親のみでなく母親にすら何かあるとしばしば殴られていたようである(cf.大杉栄『自叙伝』)。小学校の先生は、鞭をもって教育していた。いまなら裁判になるような乱暴なことが普通であった。そんな時代と今は、自身の意志の使用についても、相当に異なっている。あの、「三代目は家をつぶす」を地でいった、忠臣蔵の、家臣のことなどまるで頭になく、ふしだらで、我慢・忍耐心ゼロの浅野内匠頭ですら、見事に切腹できたらしいではないか。皆がそういうことをする時代なら、軟弱な人間でも簡単に腹も切れるのである(浅野内匠頭、本当は、ぼんぼんゆえ往生際も悪かったかも知れない。だとしても、みっともないので押さえつけて即首を切って、発表は体裁を整えたことであろう)。『葉隠』などを見ると、随分短慮で乱暴で命知らずの、平時の話がたくさん出てくる。それがごく普通という時代もあったのである。根本的には意志が自身の感性・欲望を抑止して苦痛をしっかりと我慢・忍耐してしかるべきではある。が、甘え切った今の時代では、そう簡単にはいかない。生ぬるい時代には、生ぬるいやり方でないとうまくいかないのであろう。

ひとは、甘やかされれば、動物になりきる

2024年09月03日 | 苦痛の価値論
4-2-3-1. ひとは、甘やかされれば、動物になりきる  
 飲酒が過ぎてアルコール中毒になったとき、これは自分の意思では対処できない、入院、薬物療法が必要と言われることがある。アル中ではなく、精神的病が問題の場合は、後者の治療となり、自分だけで解決することが困難なこともあろう。だが、純粋に快楽に溺れるだけのアル中なら、かなりの場合、当人が理性意志を強く働かせれば、克服できるのではないか。それを、飲酒を続ける者は、幼児のように甘えた状態にとどまって、困難に挑戦する意志をもつことなく動物的自然状態のままに、なにかと理屈もつけて中毒に甘える。自身を甘やかせているから、甘えられるから、自身の意思では対処できないということにしているのである。周囲の誘惑があってこれに負けてしまうと言い訳をするが、それなら、山中の一軒家など誘惑のないところへ移ればいいのである。本気になれば、理性的な解決策はいくらでもあろう。同じ頃禁酒を誓った知人は、刑務所に入って即日禁酒をはじめて、アル中からとっくに抜け出しているのである。 
 ひとには動物的衝動が当然あり、これは自身を強くその方向へと向ける。だが、それを抑止できるのが人間である。理性をもって、快不快を制御して、苦痛に忍耐し、快楽を我慢して、ひとは、社会的にしっかりと秩序をもった生活を可能にしているのである。性と食の強い欲求、動物的な衝動をひとは、普通に制御している。日に三食とか二食に限定した食事も、制御してなりえていることである。おいしそうなものを見たら即ほしくなるが、食事時まで我慢できるのである。性欲も、ほしいままをする犬畜生と唾棄される者以外は、しっかりと抑制して一夫一婦制を守っている。畜生と言われるものでも、刑務所に入ったらしっかり我慢でき(させられ)、刺激がなければ、性欲は消滅さえする。薬物乱用者でも刑務所では何年でも禁欲できる。強い欲求でも、環境を整理しその気になれば、適切に抑制できる。
 ひとは、自然的には回避する苦痛も、回避せず甘受でき、我慢・忍耐ができる。そのことで自然を超越した存在となる。自然の衝動・欲求を抑制して、超自然の存在となるのである。快享受を制御するより、苦痛の甘受の方が厳しい意志の働きを要する。苦痛では、苦痛、損傷が現に生じているのを、逃げずに、耐えるのであり、強い意志を必要とするものが多い。これから逃げたとしても、「弱虫」と批判されるぐらいで済む。だが、快の方は、これを享受するのを抑止するのであり、その快はまだ現前していない、想像の段階である。その快の享受を控えて我慢するとしても、苦痛のように生が損傷を受けるという深刻なものではない。比較的に容易なのが快の抑止である。したがって、快享受について我慢できない者は、「人間に悖る」と嘲笑される。苦痛に負けるのは、弱い人間である。だが、快楽に負ける人間は、人間に悖るもの、動物である。

ひとは、快や衝動で動く動物を超越した、理性的存在である

2024年08月27日 | 苦痛の価値論
4-2-3. ひとは、快や衝動で動く動物を超越した、理性的存在である  
 現代社会の悲劇的な事態について、それを人間の本能によるものと解することがある。戦争をとめどもなく繰り返すことの原因を、闘争本能があるからだとか、現代の欲望肥大なども含めてドーパミンとかエンドルフィンがそういうことをしでかすのだというようなことを生理学者に語らせるマスコミの番組が時々ある(生理学者がというより、マスコミがことを単純化しこれを権威づけるために、適当に切り貼りしてそうしているのだとは思うが)。自然本能からいえば、そうかも知れない。だが、ひとがひとであるのは、そういう自然本能を超越したところにある。自然的には快楽に惹かれ苦痛は回避したいのを、人は、その自然本性を克服し節制して、快を抑制し苦痛を甘受しているのである。生理的動物的なものに還元して人間社会を見ようという還元主義は、ひとの自然的動物的性向が、そういうところにあるという程度なら(したがって、本能を抑止し厳格に理性的にならねばならないというのなら)いいが、それが戦争や欲望肥大の原因だというのは、レイプ犯罪の原因を性欲に求める以上に短絡的発想になるというべきである。
 節制できず、過食で肥満になることについて、あるいは、アルコール中毒などでも、そうだが、ひとにはそういう快楽追求への動物的本性があるということで、その本性を和らげるために薬物を使用するとか、胃を小さく手術するといったこともある。肝心の人間のみの有する卓越した理性、その意志・意欲といったものは問わず、まるで、それがない動物であるかのような取り扱いに見えてくる。しかし、人は動物以上のものである。人が人であるのは、そういう感性を制御できる理性、高度の脳があってのことで、その理性を患者が(もちろん治療者も)しっかり使うのが本筋なのではないか。
 ひとは、理性的動物である。超自然的存在なのである。ひとも当然動物的生理を有しているが、それは、人の土台であり、その動物的生理を制御・支配してこその人間である。それを無視して、人間社会の愚かしい戦争とか、快楽主義的な傾向について、これを動物的生理的に問題にしようというのは、ひとの動物的土台だけを見て、その上にそびえている肝心の理性的自然超越的な人間性といったものを見ない、つまり、人間の尊厳を無視した、人を動物にと見下した見方だというべきである。ひとには自然的動物的な感性・衝動を抑止できる理性が備わっている。社会としっかりと遮断した刑務所に入れば、どんなに強い性欲がある人でも、これは簡単に消滅する。食欲は、個人にとり命にかかわるから刑務所でも旺盛であるが、その食欲さえも、理性意志は、これを抑止できる。かりに、食べたら殺されるという状況におかれたら、動物とちがって、100%これを抑止して断食できるはずである。日頃は甘えているから、食や性の衝動を抑止できない、節制できないというが、甘えられない場になると、まちがいなく、その有する理性意志を働かせて、節制できる。甘えて節制しないだけである。
 昨今、不倫などもこれを肯定する者(こういうことでは、だいたいが自分の行っていることを語る)は、動物的本性だ、自然本能だという。動物的生理的には、多数と交わりたいという衝動を有する。それで動物は自分の子孫をよりよく残せるのである。しかし、モーゼが不倫を石打の刑(死罪)にして、人間の家庭の安寧、子孫の保護を可能にしたように、どの社会も、規範(法や道徳)をもって、人間にふさわしいようにと自然を超越し、動物的本能を制御していったのである。動物的自然は、人においては、その土台をなすにすぎない。それの好ましくない面を抑止し、これを理性でもって制御して、節制等に取り組んではじめて自然を超越した尊厳をもった人間となるのである。

人と動物での忍耐の有り方の違い   

2024年08月20日 | 苦痛の価値論
4-2-2. 人と動物での忍耐の有り方の違い
 ひとのみが目的論的な忍耐をする。動物と人の苦痛甘受(=忍耐)における根本的な違いとなろう。未来に目的を定立して、そこから現在の方向にとさかのぼり因果を逆にたどって手元の原因にまでいたる観念的展開は、理性を有した人間のみの行えることである。忍耐をもっての価値創造を実際に行う前に、これを理性は観念において描き出し、彼方の目的から手元の原因までをしっかりと踏まえて、未来の目的に至る因果連鎖を精査しているのである。したがってまた、苦痛の甘受については、手段として不可避的なもののみを精選して、やむをえない苦痛のみを耐え抜く姿勢をもっていることでもある。動物の場合、快不快の差引計算で、より快が多く、より苦痛が少ない状態を選ぶ。だが、ひとは、目的を実現するためということでは、その目的に必須ということなら最大の苦痛を選択することもある。
 苦痛甘受を必須の手段としてとらえているがゆえに、ひとは、目的との関係のもとに、現在は、苦痛のみという場合もしっかり忍耐できる。動物の場合、現にある欲求や快不快の差引計算で、苦痛の方が小さければ、苦痛をひきうけて忍耐する。しかし、現にあるのが苦痛のみだと、おそらく、動物の場合、これを回避することになろう。ひとのばあい、感性的には、苦痛のみを抱いているとしても、理性が未来の目的を堅持しておれば、そのための不可欠の手段であれば、苦痛甘受を貫いていける。動物は、感性・自然本能によって動くのみであり、苦痛しかなければ、逃げることを抑止するほかの本能的なものがなければ、当然、逃げることとなる。 
 動物は、快不快の差し引き計算のみで、快が大きければ、そこでの苦痛は帳消しになって受け入れ忍耐する。ひとも同じようにする場合がある。だが、ひとは、現にあるのは苦痛のみであっても、未来に生きる存在なので、描いた目的(例えば秋の収穫)のために、現在ある苦痛を引き受けなくてはならないと判断できれば、現在の苦痛(苦労の田植えとか、種まき)を引き受け忍耐することができる。動物は、大きな快(価値)が手の届くところに見えていて、その享受には目の前の小さな苦痛を避けることができないというようなとき、差し引き計算して苦痛を忍耐する。だが、ひとは、未来に(快を含む)価値を描き、現にあるのは苦痛のみであっても、それを引き受け忍耐することによってのみその未来の価値獲得がなるのであれば、未来の目的のための不可避の手段として苦痛を捉えて、その苦痛甘受の忍耐をする。
 旧約聖書は、アダムとイヴがエデンの園を追放されてこの人間世界を作ったことを語るが、その楽園追放で課されたものは、アダムの苦痛の労働と、イヴの出産の苦しみであった。人が人になったのは、苦痛をもって、ということである。苦痛から逃げず苦痛を甘受、忍耐することを通して、動物とちがう人間世界が可能になったということである。ひとと動物のちがうところは、アダムとイヴの話からすると、知恵の木の実を食べて理性知を有することになったことを踏まえつつ、苦難・苦痛から逃げず、これを受け止めて甘受、忍耐することにある。旧約の太古の時代から、人が人であるのは苦痛から逃げず忍耐するところにある、と見ていたわけである。 

価値を生むのは、苦痛自体か、これに耐える意志か 

2024年08月13日 | 苦痛の価値論
4-2-1. 価値を生むのは、苦痛自体か、これに耐える意志か   
 苦痛は、反価値であり、ひとも動物も、これを回避する衝動をもち、これを拒む。その苦痛を回避せず甘受することがあるが、それは、その先に、その苦痛甘受を凌駕する大きな価値が可能になると思うからである。苦痛は、自然的には単なる妨害物、障害物にすぎないが、ときに、苦痛を含む過程・活動を踏まえることで、これを手段として、価値あるものが可能になる。苦痛自体というよりは、これを回避しないで甘受しつづける意志が、その忍耐が価値を生み出していくということであろうか。
 一般的には、苦痛のともなう過程を踏まえないと目的を実現できないということで、反価値のいやな苦痛を避けず、やむをえず、これを受け止めて乗り越えていくのである。苦痛自体がなにかを産むというのではなかろう。苦痛甘受を踏み台にする以外には目的に届かないので、苦痛をしぶしぶ受け入れるのである。かりに苦痛なしで済むのなら、そちらの方法をとる。苦痛を伴うやり方しか手段がないので、やむなく、苦痛を甘受しているのであり、苦痛自体が価値創造をするとはいいにくいだろう。苦痛がなければ、もっと容易に価値創造がなる(苦痛がスムースな展開を妨げているだけなら、それは、反価値の障害物でしかなかろう)。とすると、なにがあっても目的を実現するという固い意志こそが肝心ということであろうか。どんなに辛く不快なことであろうと、目的への道を突き進むという強い意志である。苦痛が途中で生じても、これを回避せず甘受して進むという意志である。それがあっての価値創造、目的実現である。
 しかし、苦痛を甘受する意志は、苦痛自体を逃げず受け止める、苦痛を耐えるという意志であり、苦痛を感じること(感情)と、これを回避しないということ(意志)は、ひとつになっているというべきであろう。大体、ことが快なら意志はいらない。快ならば、それへの欲求が生じる。だが、苦痛だと、欲求は生じず、苦痛甘受の欲望などありえない。意志してはじめて苦痛甘受となる。「意志が強い」、「意志薄弱」と言われるのは、困難を前にしてのことである。意志こそが、自然に逆らい、不快・苦痛から逃げず甘受するのである。意志と苦痛甘受は、そういう点からいえば、一つの仕事をするときの、班長(意志)と班員(苦痛)の関係である。班長だけでも班員だけでもうまくはいかない。両方が一つになっての仕事の進展である。意志は、感性を制御するものとして、多くは苦痛を前にして求められるものであり、苦痛を甘受し苦痛を感じ続ける事態と不可分である。その意志のもとで苦痛自体が価値を創造するのだとみてもよいであろうか。意志して受け入れる苦痛(の忍耐)が価値あるものを創り出しているのである。
 苦痛を甘受して創作したものには、価値があり、これに対価を支払うが、そのときその価値を計算するのは、苦痛の大きさであろう。苦痛を回避しないということにはじまり、その甘受を必要なところまで持続していくという意志の持続である。回避しない意志は、苦痛甘受の始まりであり、引き受けるという意志であるが、肝心なのは、目的実現まで必要な限り、その苦痛甘受を持続させて、辛苦を積み重ねていくことであり、それを持続させる意志である。その意志のもとで、どれだけの犠牲を払ったのか、その作った物にとどれだけの量の苦労が結晶し肉化されているのかであろう。消耗し、身をすり減らしているのは、苦痛・損傷においてである。その計量は、感情としての苦痛の量・質をもってする。苦痛(感情)の体験自体が、その創造にとって肝心なものとなっているのだと言えようか。労働の生産物の価値は、それにつぎ込み、そこに結晶した苦痛・辛苦の大きさによって決まる。苦痛自体がここでは価値創造の中心に位置づけられることとなろう。
 しかし、意志の方が肝心という場合もあろう。コロンブスのアメリカ発見は、その航海の苦難は並大抵のものではなかったろうが、それよりも、それを実行しようという意志が何より評価される。未知の世界へ勇猛な意志もって一歩を踏み出し、困難に面してもあきらめずその意志を貫徹することが肝心だったのである。商品は、苦労の結晶で、辛苦の労働の量をもって測られるとしても、ときには、新商品を作ろうという意志が肝心で、それが当たったということになると、その新商品への固い意志が高く評価される。