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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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創造的意思を発揮しての苦痛と時間

2024年12月24日 | 苦痛の価値論
4-6-3-1. 創造的意思を発揮しての苦痛と時間          
 価値あるものを創造するには、時間を割き、困難に直面して苦痛を甘受し忍耐することが必要だが、その時間と苦痛が活きるには、結果を生み出す能動的営為がなくてはならない。ひとのために一日の時間を割くとすると、途中で、辛いことになろうが、そこで苦痛を回避していたのでは先に進まない。苦痛甘受の忍耐が必須である。だが、時間を割き犠牲にして苦痛を我慢するだけでは、創造物はならない。価値ある物という結果を先に見て、それのための目的的な活動になっているのでなくてはならない。自身の一日を他者のために投げ出し、苦労をするのだが、肝心なことは、相手の求める価値あるものを創造することである。相手が雇ったのが、竹籠を作って欲しかったためだとすると、竹籠を編むという作業をするのでなくてはならない。
 ものの創造には、苦痛が必須ということで、むやみに苦痛をもって願いを達成しようとすることがあるが、それは、苦痛の買い被りであろう。無意味な苦痛がありうる。かりにその苦難が宗教的修行だったら、何かを作り出す営為ではないから、いくら苦痛を重ねても、その苦痛自体は、価値ある物を生まない。苦痛即価値あるものの産出とはならない。苦痛といえば、病気がそれの代表になろうが、病気で苦しみ、辛い目にあって苦痛にのたうちまわっていても、そのこと自体からは、価値ある物が産み出されることはない。元気で運動して筋肉を痛めつけつづけても、なにも価値ある物がそれで生産されるわけではない。物の創造的な活動となって、目的実現への具体的な営為があってはじめて、価値ある物が創造されるのである。
 時間を割いて自身の時間を喪失・疎外するとしても、その時間のうちで、創造的な目的があって働くのでないと、その時間は、価値ある物を生み出さない。することがないので、つまらないテレビやスマホを、「下らない、不愉快だ」と思いながら、半日見てつぶしたとすると、時間は喪失していて、自分の時間は無でしかないとしても、その時間は、生産的創造的に使用されていないのであって、物の創造とはならず、その創造の価値はないということになろう。無意味無駄な時間使用にとどまる。価値ある物の創造では、割かれた時間がその物に結晶しているし、苦痛苦労の結晶でもあるが、創造的な目的の活動のための時間であり苦痛であってのみ、価値として結晶するのである。立派な創造物がなってはじめて、それに費やした時間と苦痛が活きる。そして、その価値を評価するときには、それに結晶した時間と苦痛をもってするのである。


苦痛は、価値を創造するというより、創造のための条件か  

2024年12月17日 | 苦痛の価値論
4-6-3. 苦痛は、価値を創造するというより、創造のための条件か  
 時間を犠牲にするだけでは創造はならない。苦痛甘受の忍耐が必須である。だが、忍耐もそれだけでは受動であり、創造はしない。創造の意欲・意思がないとうまく創造は進まないであろう。時間を割き、苦痛を甘受し忍耐するだけでなく、それらが意味・価値をもつには、実現すべき目的を引き受けることがいる。何の仕事かということである。その仕事の内容を実現するという意思をもって動くことがいる。時間を犠牲にし、苦難の忍耐をしっかりと引き受けて、目的実現に邁進するという展開である。苦痛は、損傷にいだく。損傷は、生を損ない、傷を受ける受け身に生じることである。その苦痛自体においては、能動的積極的に価値物を創造することはない。
 価値ある創造物がなるのは、それに人間の技術が加わって創作の意思が発揮されてのことである。それは、時間を費やしてのこととして、その創作者の有する時間のそれへの対象化・放棄(犠牲)であり、その時間分が価値として結晶する。その生の放棄・損傷は、労苦となり、苦痛となる。苦痛が不可避となるのが普通で、苦痛が価値の創造には欠かせない。苦痛でなく、楽しく創造しても、価値あるものは同じように可能であれば、苦痛はかならずしも、創造に必須とはいえないが、交換のための価値ということでは、苦痛が必須であろう。苦労して作られた物だから、代価を払うのである。ひとに代わって働いてもらおうというのは、それが苦労、苦痛を要するものだからであろう。楽で快であるのなら、盆栽などの趣味がそうであるが、自分でする。苦痛だからお金を出して代わりにやってもらうのである。苦痛が根本にある。
 苦痛の原因となる損傷も、それ自体は、受け身で受難状態にある。損傷をうけいれる忍耐をもって、価値ある創造が可能になるのではあるが、損傷自体が創造するのではなかろう。労働時間はその間、自分の生の喪失・欠損となり、苦痛になるが、その喪失自体は、何かを積極的に作るものではなく、無である。価値創造は、その自己を無化した時間において、価値ある創造的能動的な行動をすることでなる。単に時間の喪失のみでは、無にとどまり、なにも創造しないだろう。その時間の喪失・損傷自体ではなく、その損傷、したがって苦痛を生が被ることを踏まえ前提にして、対象側に能動的に価値あるものが付加されるということが創造であろう。暴行され痛めつけられ負傷するとしても、その損傷・苦痛は何も創造しない。創造的営為に必要な苦痛・損傷だけが、価値あるものを創造するのである。能動的な価値創造のなかで、苦痛甘受という受け身をとらないで、逃げるとか攻撃するとしたら、うまくいかない。苦痛を回避したのでは、創造の営為がストップする。苦痛を受け入れることがないと先に進めない。その関所を開きつづけるのが忍耐、苦痛の甘受になる。そのことで前進が可能となる。価値あるものを実現した場合、よく「血と汗の結晶」をいう。辛苦労苦、苦痛をもって創造したということである。苦痛・損傷を回避しない忍耐をもってはじめて創造は前進する。

苦痛の度合いで、生み出される価値の大きさは異なる

2024年12月10日 | 苦痛の価値論
4-6-2. 苦痛の度合いで、生み出される価値の大きさは異なる
 目的を実現するには、それに至る諸手段をふまえるが、そこで一番困難なのが苦痛甘受である。快であったり、苦痛でないものは、スムースに受け入れられていくが、苦痛は、自然的には回避される。人はそれに逃走衝動をいだく。これを回避せず甘受することは難しい。それさえうまくやれれば、最大の関門は突破するのである。目的実現への不可避の過程・手段として苦痛甘受がある。時間を犠牲にし、ひとのためにこれを放棄し譲渡するとしても、そこでの仕事をいい加減にして、生じる苦痛を回避していたのでは、仕事は進まない。時間を犠牲にしただけでは、価値あるものは創造されない。時間を犠牲にするだけでなく、そこに生じる苦労苦難を引き受けるのでなくては、創造は停滞する。苦痛甘受の忍耐が必須ということになろう。農作業を引き受けて自身の時間を割いて犠牲にする場合、同時にそこでは汗を流して働くのでなくてはならない。時間だけ犠牲にして、ぼんやりと佇んでいたり、苦痛になることを回避していたのでは、創造はならない。時間を割いてそのうえで、肝心なことは、労苦を背負って進むことである。苦痛を回避せず、忍耐して、困難な作業は前進可能となる。
 労働の結晶の生産物の価値は、その生産過程に費やし注ぎ込んだ人間の労苦によって測られる。その苦労の大きさは、苦労の度合い・強度によることが一つ、もう一つは、その苦労・苦痛がどれだけの時間注がれたのかで測られることになる。同じ時間、畑を耕したとして、一方は、他方の二倍の広さを耕したとすると、おそらく二倍の苦労になるであろう。耕してもらったひとは、二倍耕したものには、二倍の報酬を準備することであろう。その労働の結晶、価値が二倍あるのだから、それに報いようとするであろう。その耕作を何時間続けたのかと、その間どの程度の強度の労働であったのかでその報酬を計量することであろう。同じ時間働いたとしても、その働きの強度、苦労・苦痛の強度というものがあって、その分がその労働対象に結晶しているのである。同じ時間だということで同じ報酬ということにはならない。どれだけ労働をそこに結晶させているかが肝心となる。畑を掘って種を蒔く者と、時々畑に舞い降りてくるカラスを追い払うだけの者とでは、苦労の度合い・強度がちがうから、同じ一日働いたとしても、前者には多くの報酬を出すことであろう。同じ時間の苦労をしたのだとしても、その強度によって、その対象に結晶する苦労・苦痛は異なり、創造した価値は異なることとなる。

ものの価値創造には、苦痛が根底にあると言えようか

2024年12月03日 | 苦痛の価値論
4-6-1. ものの価値創造には、苦痛が根底にあると言えようか  
 報復律は、相手と自分において同じ苦痛を根底におくが、物の交換・売買でも、同じように苦痛・損傷が踏まえられていると一応は言えるであろう。商品に結晶している労働時間は、自身の自由な主体的な生がその間奪われているのであり、生の喪失・損傷、犠牲といっていい。その生産物にはその働き・苦労の時間分が結晶している。他人の田で一日働くとすると、その時間は、その田の持ち主のものとして、その労働の結晶は、その持ち主のものとなる。自身のその一日は、他者のものとなる。自己を疎外し、その一日は、自己の時間は喪失しているのであり、損失・損傷ということになる。その一日分の損失を償ってもらわねばおさまらないであろう。しかし、その一日が友人の家での楽しいお祝いによばれてのことだとすると、自身、大いに快であり、楽しむのであって、自己はその間、喪失しておらず、充実した一日となる。もちろん、賃金などの償いを求めることはない。自己の時間を失うという損失かどうかは、それが苦痛で、回避したいものかどうかであろう。不快・苦痛があって避けたいものと感じられることがあっての時間の損失であろうから、苦痛があっての、苦痛を踏まえての補償ということになろう。が、その自己喪失の時間のもとでは、基本は苦痛であるとしても、ときには快であり楽しい作業のこともあろう。そこでの作業に生じる狭義の苦痛はその間の一部のみというのが普通であろうか。
 物の生産で、価値あるものが創造されるのは、純粋に苦痛のみとなることは少ない。多くは、快不快を含めて多様な契機が総合的に動いてなる。苦痛は、主観的なもので、各人で異なる。だが、自身の生の時間は、客観的に測りうるもので、半日、他人のために働く場合、その半日の間、自分の時間は喪失し、その他者のための手段になり、犠牲になるのである。その間の苦労の大きさは、様々であるが、その半日という時間は客観的に計測されるものである。その間は、他者のための手段になりきり、自身は無化している。その半日分の労働への償いが賃金である。しかし、他のために時間を割くとしても、かりに田んぼを耕す仕事である場合、半日、田んぼに座って日向ぼっこに過ごしていたとすると、報酬を求めることはできない。耕作の苦労を重ねることがあって、苦痛・苦労を耐えて田んぼを整備することがなくてはならない。その苦労・苦痛の量が報酬をもたらすものになろう。その報酬の大きさは、苦痛をどれだけの時間費やしたかで測ることである。苦痛あっての、報酬ということになる。
 人のために何か仕事をするという場合、かならずあるのが、時間の喪失・損傷であろう。自身の時間をその他者のために使うのであり、その間自身は、その他者の手段になる。老人介護で歩行の手伝いをしたとすると、その間の自身の手足は、老人の手足の一部になっているのであり、自身の時間の喪失・損傷と言える。この事態自身は苦痛と感じられることは少ないとしても、快ではなかろう。その時間喪失自体は、さして苦痛と意識はしないとしても、自身の時間を奪われ喪失しているのであり、広い意味において、苦痛ととらえてもいいのではないか。自分の価値ある時間が奪われることは、回避したいことで、その間、自身の欲求、したいことは、抑止しなくてはならず、苦痛に属するといって良いであろう。わが子を風呂に入れて体を洗うことは、時間も労力もとられることであるが、これは、多くの場合、愉快であり、楽しみであろう。自分のために自身の身体を洗うのに準じた営為であれば、これは、時間の喪失とか損傷とはみなさない。同じ作業が、自身と、拡大した自身(家族)のためにするのは、時間充実であり、したがって愉快であるが、他者のためにするのは、自己の時間の喪失で損傷であって、苦痛となる。時間喪失・損傷となるかどうかは、苦痛となるかどうかということにもなろうか。

価値創造の手段になる中心は、苦痛か、損傷か

2024年11月26日 | 苦痛の価値論
4-6. 価値創造の手段になる中心は、苦痛か、損傷か
 損傷と苦痛を手段にして、価値ある目的が実現される場合、その手段の何が価値評価されるのであろうか。苦痛と損傷のいずれが中心になるのであろう。苦痛は、主観的なため、外からは見えにくいが、損傷は、より見えやすく、客観的に算定しやすい。生自体に重大なのは、苦痛よりもそれの損傷である。辛苦の労働は、価値ある生産物を創造するが、その苦労・苦痛の評価は、労働時間で測られる。労働の間は、自分のための自由の時間を奪われる。いわば、自分の生の時間がその間、欠損するのであり損傷を受ける。それが主観的に苦痛であるかどうかは、分かりにくい。
苦痛は、主観的だし、評価しにくい。弱虫ほど、ささいな苦痛を大きく感じて大きな忍耐が必要となる。苦痛を小さく感じて多くを創造するものの方が好まれることで、結局、苦痛を多く感じるものも、それに合わせないと作ったものを交換してもらえなくなる。労働時間(という損傷)がどれだけだったのかの方がより公平に価値評価しやすい。自分の時間を割いて、ひとのために一日働くとすると、その時間分は自身の時間の喪失、損傷であり、その一日分の償いをしてもらわねばならない。
 しかし、労働は、苦痛あってのもので、これが快楽なら、みんながそれを求めてすることになり、快だったのなら労賃などいらないであろう。漁は、いやでもするのが仕事である。苦痛・辛苦あっての漁師仕事であり、苦労して釣った魚は、それ相当の値段がつく。だが、同じ釣りが、道楽の場合は、お金を出して船頭を雇い、二束三文の小魚を釣って料理して楽しむ。その小魚は、時間的には一日かけて釣ったのであるが、楽しみの釣であり、ひとに成果を分け与えるのも楽しみであって、代価を受け取ることはない。創造するものは同一でも、苦痛なら、売られる価値創造の営みとなる。他の者のために一日の自分の時間を割くとしても、それが身内のお祝いごととか、楽しい旅行に付き合うという場合は、それに割いた一日分の報酬を要求することはない。そういう点では、やはり、苦痛があっての報酬であろう。
 好きな魚釣りとかお祝いへの参加は、自身が主体的に参加しているのであり、充実した自身の時間である。だが、仕事の漁とか、無縁の他人の結婚式の手伝いでは、自身の時間を他者にゆだねて、自己の時間はその間、失われ奪われ、損なわれている。その時間の欠損分、損傷分が価値となるのであり、賃金をもって償われる。かつ、その損傷の間は、同時に苦痛を感じることが多くなる。損傷が中心になり、損傷の主体的感情が苦痛ということで、報酬がなりたつということになろうか。それが自己の時間の喪失・損傷であるのは、なんらかの形で苦痛がそこに伴っていてのことであろう。