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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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奴隷は、家畜やロボットと同じ扱い  

2025年01月28日 | 苦痛の価値論
4-6-4-2. 奴隷は、家畜やロボットと同じ扱い
 奴隷は、尊厳を有した人間であるのに、売買され物扱いであった。かれが殺された場合、殺人であるが、そうはみなされず、物が壊されたのと同じ扱いであった。奴隷状態から解放されれば、人間とみなされ人間扱いされたのであるから、奴隷状態に陥れられたとしても人間であった。目の前の人をどうとらえるかは、その見る人次第である。奴隷主でなくても、「影になって邪魔になやつがいる、どかしてくれ」という場合は、その人を妨害物にと物扱いしているのだし、「カエルには温かい手は不快じゃろ」というときは、おそらく(温血)動物として見ているのである。これが社会関係において、人身売買で、あるいは戦利品として奴隷となっている者を扱うときには、動物扱いとなり、牛馬・家畜扱いにと貶めることとなる。制度的にそうなっている場合だけではなく、日々の現代の生活においても、人を奴隷扱いしたり、物扱いすることはある。そういうとき、人間の尊厳を守れ、人間扱いしろという声がでてくる。
 奴隷扱いの人間が生産活動に使われるとき、自由な労働者と異なり、生そのものが自分のものでなく、自分の(自由な)時間自体が存在しない。そこで労働の血と汗を流し、生産物に結晶させているもの、その価値は、すべて奴隷主のものとなる。奴隷は、自由をもたず自己を有さないものとして取り扱われる。だが、同じ人間であり、したがって、人間的能力による高度の創造が可能である。サトウキビ畑で作られた砂糖は、自由な労働者が作ったものと奴隷が作ったものは変わらない。それだけの時間を砂糖に結晶させている。作られたものは、人間の労働の結晶とみなされるであろう。だが、その成果はすべて主人のものとされる。奴隷労働によったものと分かったとき、砂糖購入者は、買いたたくであろう。奴隷主は、値をさげるが、その限界は、牛馬やほかの生産手段の購入価格と同様な扱いになろう。つまり、奴隷を購入した時の価格と、奴隷の使用可能年限を踏まえて、減価償却してマイナスにならない限度までは、場合によると下げることとなるであろう。ここでは、奴隷は、まずは、人間的労働の持ち主として人間的労働を生産物に結晶させているものと評価され、しかし、扱いは牛馬なみの動物あつかいとなり全てを搾取される。かつ、その生産物の売買の中では、まずは人間的労働の結晶したもの扱いをし、売れなければ、牛馬などの家畜扱いにまで下げていくこととなろう。
 高度な作業をするロボットは、人間にはできないことをする。もちろん、奴隷にもできない。それが一般的になり高度な無人工場での生産の方がよい品物ができるのなら、牛馬が現代社会ではまるで無用になってしまったように、奴隷はもちろん労働者もやがて用がなくなる。その方がよい品物を安く作れるのである。ロボットなどにはその購入代金があって、それの使用可能時間で割って、これを生産物に転嫁することであろう。減価償却である。そうなると、表向きは、儲けはゼロとなっていく。無理して生産しても意味がないこととなりかねない。資本制的な儲けをばねにして動いていく社会は、成り立ちがたくなろう。
 未来の生産体制はどのようになっていくのであろうか。利益を求め、儲けを求めて、これまでの社会は動いてきた。それが成り立ちにくくなる未来においては、各人を駆り立てていくものは、利益・儲けではなくならざるをえない。別の動機が人を動かすものとなっていくのであろう。現に公務員とかボランティアは、儲けで動かされるのではない。家族内では、(苦痛・労働の)等価交換を原理とすることなく、うまく動いている。社会の仕組みは、近い未来において、根本的に異なったものとなっていきそうである。

賃金労働者と奴隷の違い

2025年01月21日 | 苦痛の価値論
4-6-4-1. 賃金労働者と奴隷の違い 
 竹籠造りの職人が求めに応じて出かけて大きな竹籠を作る場合とか、自作農が自分の田畑を耕した場合は、一日働いたのなら、自分の労働の結晶したその一日の時間は、すべて自分のものであり、報酬・代価ではその分全体をもらう。これに対して奴隷の場合、自己の生そのものを奴隷主に売っているので、その働いた一日分の結晶の代償は、ゼロである。それらに対して、雇われた資本制下の労働者は、その資本家の取り分の残りを受け取る。搾取ということでは、自営の個人の場合は、ゼロ、奴隷の場合は、すべて結晶分は、奴隷主のものとなる。賃金労働者の場合は、結晶の一部、労働時間の一部が取りあげられることになる。
 機械とか原料を使った場合は、それらについての減価償却をもって生産者も購入者も計算することであろう。そのときに消耗した分だけを購入者は支払う。これに対して、人間が労働して生産物に結晶した労働分は、それが奴隷であろうと自立した個人であろうと、雇用された労働者であろうと、その働いた人間の労働分が結晶しているのであれば、その分を、購入者は、支払うことになる。外見からは、奴隷であっても労働者であっても、それらの働きの違いはなく、同じ労働が結晶しているのである。ちがいは、生産するときの人間関係のみである。
 労働者は、自由な主体であり、自己の時間を切り売りする。時間を売る。これに対して、奴隷は、人生を売るか、戦争などで捕虜となり、人生を奪われて奴隷主のものとなり、自己の所有する時間はもたない。そこで物の生産に使われたとしても、その全時間は、奴隷主のものだから、その創造したもの・労働の結晶は、すべて奴隷主のものである。これに対して労働者は、自己の自由を有しており、その労働する自身を切り売りする。自営業者の場合は、自身の働くまるまるを自身の成果とし、その労働の結晶したものの全体を自身のものとして、売買では、その労働分の全部を自身が報酬として得る。これと、資本家に雇用されての労働者の在り方は異なり、労働者は、自分が働いて生産したその結晶の一部を受け取るだけである。もし、全部を受け取るのなら、資本家の方は、儲けはないから、雇って生産することなどしないであろう。儲けがあるから経営するのである。その儲け分を、労働の結晶・価値の一部から受け取るのでなくてはならない。
 この儲けのからくりについて、マルクスは、資本制では、労働者は、労働力を売るのであって、労働を売るのではないというところに見出した。実際に工場で費やすのは労働であり、それは、何時間かの労働ということである。それが製品に結晶する。だが、労働者が受け取るものは、自身の労働力を売った分だという。資本家は、ほかの原料などと同じく、労働力を買ってこれを生産に使用する。労働力は、労働力商品である。その値段は、他の商品と同じように、これに要する費用ということ、つまり、労働者が自身の生を保つために要する費用である。これを支払うなら、あとの剰余は資本家のものになる。価値創造の労働時間のうち、労働力に支払う労働時間を超えて働かせる部分は剰余労働となり剰余価値となって資本家の取り分になるということである。
 労働者は、自身を(労働力)商品として売って生計をたてる。資本家は、その労働力をほかの生産手段と同時に購入して、生産してこれを販売する。労働者は、他の原料等と同じくそれ相当の価格(自身を償うに要する価格)で自己の労働力を売る。そこには、労働力を買いたたくのでなければ、不公正な取引はない。であれば、なぜ、マルクスは、資本制を否定して共産主義を導き出したのであろうか。それは、労働者は、労働する時間の全体において自己喪失し疎外されていると見たからであろう。損傷は、全労働時間である。これを真に償うには、そういう喪失の時間すべてを償ってもらわねばならないということになっていく。剰余労働の部分も労働者の時間の喪失・損傷であり、この部分を取り上げるのは、搾取であり、これをなくしなくてはならないと考えたのであろう。つまりは、苦痛と損傷として労働そのものをみたということである。剰余労働の部分でも、労働者は自己の時間を喪失しているのであり、自己は疎外されている、苦痛・損傷を被っているのである。本論考が労働者の労働自体を、その時間分、疎外され損傷・喪失で苦痛になるとみたのと同様のことを根底においていたと解してよいであろう。 

仕事内容を問わない苦痛甘受・時間犠牲としての賃労働

2025年01月14日 | 苦痛の価値論
4-6-4. 仕事内容を問わない苦痛甘受・時間犠牲としての賃労働  
 人の手助けをするような場合、自身の時間を犠牲にして尽くすが、その目的、犠牲の結果は、はっきりしている。その苦痛甘受は、たとえば、重い荷物を運ぶ場合、重荷の苦を忍びつつ、荷物を目的とする場所に運んで達成される。だが、長い期間雇用されるような場合は、しばしば、どんな仕事かは分からないままに、これに従事することとなる。「事務手伝い」「軽作業」といった形で雇用される場合、なにが作られて生産物となるのかは、不明であるような仕事となる。「軽作業」では、単にその場で必要となる労苦を引き受けてこれに関わるのであり、何か特定の物の生産のために力を尽くすというのではなく、全体や成果は何かは分からない状態でのこととなりうる。つまり、その生産の基本からは疎外されて無関与状態におかれたままでの、労働の提供である。その労苦は、生産物という目的を描かないままで、その部分の苦痛甘受を引き受け、その間の時間の犠牲を引き受ける。苦痛、犠牲一般であり、特定の仕事の発揮を念頭において関わるのではない。何の仕事になるかは不明、無限定のままに、一日8時間の自分の時間を犠牲にする。その犠牲に見合うものが賃金ということになる。生産した物が自分の作った物として、自分に属するということとは無縁になり、単に何でもいい労働をして、その時間犠牲の分を賃金として受け取る。ここでは、苦痛の甘受や時間の犠牲を引き受けているのは、賃金のためということになる。なにか特定の物を創り出すことを意識してのものではなく、時間を犠牲にし価値一般を、お金、賃金を生み出したのである。
 一般的な賃労働では、その苦痛の労働の生み出す物は、かならずしも目的にはならない。仕事は、肉体労働であれ、事務などの労働であれ、おそらく、日々ちがった、自分ではやりたくない仕事に向き合うことが多くなろう。細分化された分業では、その作っているものが何になるのか知らないということが普通ともなる。そこで一貫して目的になるのは、賃金であろう。自分の労働は、普遍的な交換価値を創造しているということである。であるから、賃金が二倍になる仕事が見つかったら、他の不利なことがなければ、みんなそちらに移る。かりにもとの仕事が好きであったとしても、趣味にしているのでなければ、賃金が倍の方に移ることであろう。自身のための普遍的な交換価値を賃労働では産み出しているのである。
 その生産の過程は、自身の望んで取り組んでいるものではなく、経営者の求める作業を行っていて、その労働の苦労の間、その労働時間は、自身のものではなく、自身は疎外されている。その労働者は、賃金をもって経営者・資本家に買われたのである。自身の自律自由の意志主体は、その時間の間、ないものとされて、被支配者となって、使われる。その時間の間、自己は無化し、自己疎外、自己喪失となり、犠牲に供されているということになる。得た賃金は、苦労の時間犠牲との交換であり、そのお金において、自身の苦労は、求めるどんなものとでも交換可能となる。その賃金のもととなる労働は、労働一般として、苦労一般、時間犠牲一般としての普遍的な(交換)価値をもつものとなる。

費やし犠牲にした時間が価値評価の中心になる

2025年01月07日 | 苦痛の価値論
4-6-3-3. 費やし犠牲にした時間が価値評価の中心になる  
 他者のために力を注いで何かをしたとして、その力を注いだ当人の思いと、これを受けた他者の思いが一致してはじめて、その尽力は価値となって実を結ぶ。働いた者が報酬を請求するのは、その時間の間、自身を犠牲にし、自分の時間を放棄して相手の時間として使用したと思うからである。他方、支払う方は、その犠牲にしてもらった時間があっても、そのことで実現した物とか事柄が有益なもの、価値(使用価値)を有すると思えるのでなくてはならない。それを自分の欲求とし獲得したいと思うことにおいて、それに費やしてもらった時間分について、報酬として出そうという気になるのである。かりに、働いたという人が、求める使用価値を創り出していないのなら、報いる必要を感じない。報酬を出そうという気になるのは、その間の働きが自身にとっての使用価値を産んでいてのことである。その上で、どれだけの支払いをするかということでは、使用価値の創造が尋常であれば、あとは、それを創造するにかかった時間をもってすることであろう。他方、創った方も、かりにそこで犠牲にしたものであっても、その創造に起因しない特殊な犠牲であったとしたら(腕が故障していて辛い痛みを耐えて犠牲にしたのだとしても)、それは除外して、それが一般的にいってどれだけの時間の犠牲を要するのかをもってすることになるであろう。双方が一致してする評価は、そのものの創造に要した時間の長さということである。一般的にみての犠牲にした時間である。
 昔は、大きな竹かごなどを作る時は、その買い手の家に出掛けて、用意されている竹をもって、一日かごを作っていた。かれは、その一日は、まるまるその買い手のために犠牲にしたのであり、その時間が償われねばならない。二日かかれば、その時間分の竹籠の量となって多くの価値物が創造される。それらの使用価値は、後々の使い方次第であり、報いるべきは、そこに費やされた時間、二日分の労賃、交換価値ということになる。
 その時間は、苦労であり、自己を喪失しての犠牲である。お祝い事によばれて時間をつぶしたというような、快の場合は、償われる必要を思うことはなかろう。それでも、同じように楽しんでも、コンパニオンなどは、基本は、嫌でも楽しそうに振舞い楽しみを盛り上げる要員であるから、報酬を必要とする。時間を他者のために犠牲にしているのである。微妙な場合はあろうが、普通には、自分の時間ではなくなり、相手のために役立て、自身の時間を犠牲に供しているということである。それは、苦痛・不快なものになるのが一般だが、場合によっては、快であることもある。そうではあっても、そこでの時間は、あくまでも、自分の時間ではなく客のための時間であり、客は、時間を買ったという意識であり、使用人に対する主人の意識である。自分が好き勝手に自由にできる時間ではなく、買われた時間となっている。不快ではないとしても、自身の疎外され失われた時間であることに変わりはない。したがって、報酬の対象となる。

価値創造では、時間の忍耐そのもの、待つこと(無為)も多い

2024年12月31日 | 苦痛の価値論
4-6-3-2. 価値創造では、時間の忍耐そのもの、待つこと(無為)も多い  
 創造的営為だといっても、なにもせず「待つ」我慢の中心になることが結構ある。待つ間は、能動的積極的に働きかけるのを抑制することが肝心となる。成り行きを見守りながら、手出しはせず、静かに受け身に徹して、待つ。おなじように時間の経過をじっと待つとしても、植えた苗が育って実るという、人の目的とする方向にと自然が進むのを時々見守るだけの場合と、酒造りのように、酵母菌、麹菌がうまく働くようにと温度などに始終気を付けて監視する場合とでは、かなり様子が異なる。後者の場合は、ほぼその時間は、実質的な労働としてその時間分が価値創造になり生産したものにと結晶することになろう。だが、稲の育つのを待つ間は、ときに水とか害虫、生育の在り方に注意するとしても、その間の長い時間は、ほぼ他のことに回せる。兼業農家では、稲が実るまでは、土日に生育状況のチェックをする程度で、週日は、町で働くことができる。
 価値創造は、積極的能動的になされることであるが、意外に、待つというような受け身・無為になる場面が多いのではないか。酒を造るというが、ひとが自分でアルコールを作るのではない。酒を作るのは、菌類である。ひとは、菌が酒を造るための条件を整えるだけである。農業・牧畜全般も似たものであろう。ひとは、作物・家畜が自ずと育つのを援助するだけであろう。その自然の創造するものを、じっと待つことが大切となる。待つ消極的受動的な態度が価値創造の要めになる。価値創造における肝要事は、能動的意思だが、それは大局的にはそうだが、時間的な主要な展開は、自然に任せてじっと見守るだけという、時間に耐え、待つということになるものが多くある。条件を整えたら後は、自然の成り行きに任せるのが一番ということは、ひとの「理性の狡知」の粋である。掲げた目的に向けて自然を整えるのが人のなす営為・仕事であり、うまく目指すものを自然が作り出していくように塩梅して、自然自身に働かせる。ひとが働くのではなく自然を働かせるのである。そういう自然の巧みな利用がひとの自然相手の労働では多いことで、その自然が思うように動いている間は、ひとは、これを監視するだけで、思わぬ方にまがりそうになってはじめて、手を加える。多くの時間は、自然の働くのを見守るということに、つまり、無為に時間を過ごすことになる。
 なお、同じ「待つ」にしても、その間、事を忘れて気楽に無為に過ごすのと、まだかまだかとイライラしながら苦痛を甘受し忍耐しつつ待つのとでは、まるで異なったものとなる。それが客観的にそうなりがちのものと、当人の気質からしてそうなるものがあろうが、客観的にみて、気が抜けず目が離せないというものでは、例えば、酒造りの過程では、これは、労働の時間と苦痛に属し、生産したものにそれが結晶するとみなせることであろう。菌類に働いてもらってアルコールが生産されている間は、じっと待つのではあるが、忘れていてはならず、うまく菌類が働いてくれるように温度などの設定に気を使いつづけることになる。が、稲の生育では、その途中では、無為に放置し、待っていることすら忘れていてもよい。当然、誰かを雇うということもその間は無用である。その待つ無為の間は、ほかの仕事をしていてよい。うまく育って後、刈り取るという段になると、積極的な労働の時間と苦痛がその物に結晶することになろう。