4-6-4-2. 奴隷は、家畜やロボットと同じ扱い
奴隷は、尊厳を有した人間であるのに、売買され物扱いであった。かれが殺された場合、殺人であるが、そうはみなされず、物が壊されたのと同じ扱いであった。奴隷状態から解放されれば、人間とみなされ人間扱いされたのであるから、奴隷状態に陥れられたとしても人間であった。目の前の人をどうとらえるかは、その見る人次第である。奴隷主でなくても、「影になって邪魔になやつがいる、どかしてくれ」という場合は、その人を妨害物にと物扱いしているのだし、「カエルには温かい手は不快じゃろ」というときは、おそらく(温血)動物として見ているのである。これが社会関係において、人身売買で、あるいは戦利品として奴隷となっている者を扱うときには、動物扱いとなり、牛馬・家畜扱いにと貶めることとなる。制度的にそうなっている場合だけではなく、日々の現代の生活においても、人を奴隷扱いしたり、物扱いすることはある。そういうとき、人間の尊厳を守れ、人間扱いしろという声がでてくる。
奴隷扱いの人間が生産活動に使われるとき、自由な労働者と異なり、生そのものが自分のものでなく、自分の(自由な)時間自体が存在しない。そこで労働の血と汗を流し、生産物に結晶させているもの、その価値は、すべて奴隷主のものとなる。奴隷は、自由をもたず自己を有さないものとして取り扱われる。だが、同じ人間であり、したがって、人間的能力による高度の創造が可能である。サトウキビ畑で作られた砂糖は、自由な労働者が作ったものと奴隷が作ったものは変わらない。それだけの時間を砂糖に結晶させている。作られたものは、人間の労働の結晶とみなされるであろう。だが、その成果はすべて主人のものとされる。奴隷労働によったものと分かったとき、砂糖購入者は、買いたたくであろう。奴隷主は、値をさげるが、その限界は、牛馬やほかの生産手段の購入価格と同様な扱いになろう。つまり、奴隷を購入した時の価格と、奴隷の使用可能年限を踏まえて、減価償却してマイナスにならない限度までは、場合によると下げることとなるであろう。ここでは、奴隷は、まずは、人間的労働の持ち主として人間的労働を生産物に結晶させているものと評価され、しかし、扱いは牛馬なみの動物あつかいとなり全てを搾取される。かつ、その生産物の売買の中では、まずは人間的労働の結晶したもの扱いをし、売れなければ、牛馬などの家畜扱いにまで下げていくこととなろう。
高度な作業をするロボットは、人間にはできないことをする。もちろん、奴隷にもできない。それが一般的になり高度な無人工場での生産の方がよい品物ができるのなら、牛馬が現代社会ではまるで無用になってしまったように、奴隷はもちろん労働者もやがて用がなくなる。その方がよい品物を安く作れるのである。ロボットなどにはその購入代金があって、それの使用可能時間で割って、これを生産物に転嫁することであろう。減価償却である。そうなると、表向きは、儲けはゼロとなっていく。無理して生産しても意味がないこととなりかねない。資本制的な儲けをばねにして動いていく社会は、成り立ちがたくなろう。
未来の生産体制はどのようになっていくのであろうか。利益を求め、儲けを求めて、これまでの社会は動いてきた。それが成り立ちにくくなる未来においては、各人を駆り立てていくものは、利益・儲けではなくならざるをえない。別の動機が人を動かすものとなっていくのであろう。現に公務員とかボランティアは、儲けで動かされるのではない。家族内では、(苦痛・労働の)等価交換を原理とすることなく、うまく動いている。社会の仕組みは、近い未来において、根本的に異なったものとなっていきそうである。
奴隷は、尊厳を有した人間であるのに、売買され物扱いであった。かれが殺された場合、殺人であるが、そうはみなされず、物が壊されたのと同じ扱いであった。奴隷状態から解放されれば、人間とみなされ人間扱いされたのであるから、奴隷状態に陥れられたとしても人間であった。目の前の人をどうとらえるかは、その見る人次第である。奴隷主でなくても、「影になって邪魔になやつがいる、どかしてくれ」という場合は、その人を妨害物にと物扱いしているのだし、「カエルには温かい手は不快じゃろ」というときは、おそらく(温血)動物として見ているのである。これが社会関係において、人身売買で、あるいは戦利品として奴隷となっている者を扱うときには、動物扱いとなり、牛馬・家畜扱いにと貶めることとなる。制度的にそうなっている場合だけではなく、日々の現代の生活においても、人を奴隷扱いしたり、物扱いすることはある。そういうとき、人間の尊厳を守れ、人間扱いしろという声がでてくる。
奴隷扱いの人間が生産活動に使われるとき、自由な労働者と異なり、生そのものが自分のものでなく、自分の(自由な)時間自体が存在しない。そこで労働の血と汗を流し、生産物に結晶させているもの、その価値は、すべて奴隷主のものとなる。奴隷は、自由をもたず自己を有さないものとして取り扱われる。だが、同じ人間であり、したがって、人間的能力による高度の創造が可能である。サトウキビ畑で作られた砂糖は、自由な労働者が作ったものと奴隷が作ったものは変わらない。それだけの時間を砂糖に結晶させている。作られたものは、人間の労働の結晶とみなされるであろう。だが、その成果はすべて主人のものとされる。奴隷労働によったものと分かったとき、砂糖購入者は、買いたたくであろう。奴隷主は、値をさげるが、その限界は、牛馬やほかの生産手段の購入価格と同様な扱いになろう。つまり、奴隷を購入した時の価格と、奴隷の使用可能年限を踏まえて、減価償却してマイナスにならない限度までは、場合によると下げることとなるであろう。ここでは、奴隷は、まずは、人間的労働の持ち主として人間的労働を生産物に結晶させているものと評価され、しかし、扱いは牛馬なみの動物あつかいとなり全てを搾取される。かつ、その生産物の売買の中では、まずは人間的労働の結晶したもの扱いをし、売れなければ、牛馬などの家畜扱いにまで下げていくこととなろう。
高度な作業をするロボットは、人間にはできないことをする。もちろん、奴隷にもできない。それが一般的になり高度な無人工場での生産の方がよい品物ができるのなら、牛馬が現代社会ではまるで無用になってしまったように、奴隷はもちろん労働者もやがて用がなくなる。その方がよい品物を安く作れるのである。ロボットなどにはその購入代金があって、それの使用可能時間で割って、これを生産物に転嫁することであろう。減価償却である。そうなると、表向きは、儲けはゼロとなっていく。無理して生産しても意味がないこととなりかねない。資本制的な儲けをばねにして動いていく社会は、成り立ちがたくなろう。
未来の生産体制はどのようになっていくのであろうか。利益を求め、儲けを求めて、これまでの社会は動いてきた。それが成り立ちにくくなる未来においては、各人を駆り立てていくものは、利益・儲けではなくならざるをえない。別の動機が人を動かすものとなっていくのであろう。現に公務員とかボランティアは、儲けで動かされるのではない。家族内では、(苦痛・労働の)等価交換を原理とすることなく、うまく動いている。社会の仕組みは、近い未来において、根本的に異なったものとなっていきそうである。