4-7. 宗教は、苦痛に注目する
辛苦・苦痛について、宗教は、世俗とは異なった解釈・対応をすることがある。快も苦もあるこの世において、苦に殊更の関心をよせる。医療が病苦の者に関わるほどではないけれども、快・愉快なことにではなく、苦痛・辛苦の世俗に、より注目する。かつ、その苦痛について、医療がこれの無化に、治療にかかわるように、その注目する世俗の苦について、これの解消・無化に心を砕く。世俗の者が生(生活)における苦からの解放を模索する場合は、世俗での豊かさ・快適さを求めていくのが普通である。だが、宗教では、同じように苦に向かい合うとしても、その解放は、世俗の豊かさとか快ではなく、この苦をもたらしている世俗自体を超出することに向かう。
世俗では不幸のような辛苦・苦痛を否定的に捉えるのに対して、宗教では、しばしば逆に、これを未来に向かっての幸福・安らかな世界への因とし、積極的な意味をもたせようとする。キリスト教では、いま不幸な者は、幸いであるという。世俗一般でも、苦労をもってこそ恵みは獲得できるという人間的忍耐の意義をいうが、キリスト教が、いまの世俗の苦難に積極性を見出すのは、それが、未来、天国への救済の元になると考えてのことである。仏教では、この世は、苦しみに満ち満ちた苦界だと解される。かつ、これへの積極的な対策を練って挑戦していく世俗とちがい、この苦とそれへの世俗的挑戦から離れて、この世俗自体からの超越を説く。俗世の苦しみを、俗世自体の破棄・超越で無くする。あるいは、俗世の存在、「色」は、本来的には空無だと「色即空」を説く。世俗の色の苦の世界は、即空、無だと。確かに、辛苦は、思いよう次第というところがある。相手の対応に激怒し苦痛に思うとしても、それは、そのひとの解釈が生み出していることである。相手の対応を不十分で気障りと捉え解するから、怒りが生じる。そう捉えることをやめて、「まれにみる不器用な奴だが、それにしては人並みに近い。よく頑張った」と解すれば、同情はしても、怒りは生じないであろう。自分の描き出す「色」の世界は、「空」「無」といってもよい。世俗の人々は、苦に翻弄されて人生を苦界としつづけることが多い。だが、仏教は、苦となる「色」の世俗は、本来「空」だと、色即空だと説き、苦界からの超越を企てる。
世俗の苦は、空無だと仏教はいうが、その仏教でも、宗教的な苦痛については、これに積極的な意味を見出す。修行=苦行は、世俗を超出するために大きな役割を果たすと言う。その苦痛甘受の忍耐をもって宗教的に優れた存在になろうとつとめる。苦痛甘受を目的実現の手段とする世俗のあり様を踏まえての、修行である。きままな欲求充足・快享受の反対、苦痛を受け入れることをもって、修行者に特殊な能力が身につくと考える。スポーツなどで身体を酷使してその体力を高めるのと似たやり方である。山岳信仰の修験道では、身体を酷使し荒行をすることで、身体的能力はもちろん霊力・呪力が身につくという。キリスト教でも、イエスの受難にならって苦行をすることがある。苦難が人を鍛え世俗を超出させてくれることだし、苦痛をもって、十字架上のイエスに一体化するという宗教的高揚が可能となる。
辛苦・苦痛について、宗教は、世俗とは異なった解釈・対応をすることがある。快も苦もあるこの世において、苦に殊更の関心をよせる。医療が病苦の者に関わるほどではないけれども、快・愉快なことにではなく、苦痛・辛苦の世俗に、より注目する。かつ、その苦痛について、医療がこれの無化に、治療にかかわるように、その注目する世俗の苦について、これの解消・無化に心を砕く。世俗の者が生(生活)における苦からの解放を模索する場合は、世俗での豊かさ・快適さを求めていくのが普通である。だが、宗教では、同じように苦に向かい合うとしても、その解放は、世俗の豊かさとか快ではなく、この苦をもたらしている世俗自体を超出することに向かう。
世俗では不幸のような辛苦・苦痛を否定的に捉えるのに対して、宗教では、しばしば逆に、これを未来に向かっての幸福・安らかな世界への因とし、積極的な意味をもたせようとする。キリスト教では、いま不幸な者は、幸いであるという。世俗一般でも、苦労をもってこそ恵みは獲得できるという人間的忍耐の意義をいうが、キリスト教が、いまの世俗の苦難に積極性を見出すのは、それが、未来、天国への救済の元になると考えてのことである。仏教では、この世は、苦しみに満ち満ちた苦界だと解される。かつ、これへの積極的な対策を練って挑戦していく世俗とちがい、この苦とそれへの世俗的挑戦から離れて、この世俗自体からの超越を説く。俗世の苦しみを、俗世自体の破棄・超越で無くする。あるいは、俗世の存在、「色」は、本来的には空無だと「色即空」を説く。世俗の色の苦の世界は、即空、無だと。確かに、辛苦は、思いよう次第というところがある。相手の対応に激怒し苦痛に思うとしても、それは、そのひとの解釈が生み出していることである。相手の対応を不十分で気障りと捉え解するから、怒りが生じる。そう捉えることをやめて、「まれにみる不器用な奴だが、それにしては人並みに近い。よく頑張った」と解すれば、同情はしても、怒りは生じないであろう。自分の描き出す「色」の世界は、「空」「無」といってもよい。世俗の人々は、苦に翻弄されて人生を苦界としつづけることが多い。だが、仏教は、苦となる「色」の世俗は、本来「空」だと、色即空だと説き、苦界からの超越を企てる。
世俗の苦は、空無だと仏教はいうが、その仏教でも、宗教的な苦痛については、これに積極的な意味を見出す。修行=苦行は、世俗を超出するために大きな役割を果たすと言う。その苦痛甘受の忍耐をもって宗教的に優れた存在になろうとつとめる。苦痛甘受を目的実現の手段とする世俗のあり様を踏まえての、修行である。きままな欲求充足・快享受の反対、苦痛を受け入れることをもって、修行者に特殊な能力が身につくと考える。スポーツなどで身体を酷使してその体力を高めるのと似たやり方である。山岳信仰の修験道では、身体を酷使し荒行をすることで、身体的能力はもちろん霊力・呪力が身につくという。キリスト教でも、イエスの受難にならって苦行をすることがある。苦難が人を鍛え世俗を超出させてくれることだし、苦痛をもって、十字架上のイエスに一体化するという宗教的高揚が可能となる。