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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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宗教は、苦痛に注目する 

2025年03月04日 | 苦痛の価値論
4-7. 宗教は、苦痛に注目する     
 辛苦・苦痛について、宗教は、世俗とは異なった解釈・対応をすることがある。快も苦もあるこの世において、苦に殊更の関心をよせる。医療が病苦の者に関わるほどではないけれども、快・愉快なことにではなく、苦痛・辛苦の世俗に、より注目する。かつ、その苦痛について、医療がこれの無化に、治療にかかわるように、その注目する世俗の苦について、これの解消・無化に心を砕く。世俗の者が生(生活)における苦からの解放を模索する場合は、世俗での豊かさ・快適さを求めていくのが普通である。だが、宗教では、同じように苦に向かい合うとしても、その解放は、世俗の豊かさとか快ではなく、この苦をもたらしている世俗自体を超出することに向かう。
 世俗では不幸のような辛苦・苦痛を否定的に捉えるのに対して、宗教では、しばしば逆に、これを未来に向かっての幸福・安らかな世界への因とし、積極的な意味をもたせようとする。キリスト教では、いま不幸な者は、幸いであるという。世俗一般でも、苦労をもってこそ恵みは獲得できるという人間的忍耐の意義をいうが、キリスト教が、いまの世俗の苦難に積極性を見出すのは、それが、未来、天国への救済の元になると考えてのことである。仏教では、この世は、苦しみに満ち満ちた苦界だと解される。かつ、これへの積極的な対策を練って挑戦していく世俗とちがい、この苦とそれへの世俗的挑戦から離れて、この世俗自体からの超越を説く。俗世の苦しみを、俗世自体の破棄・超越で無くする。あるいは、俗世の存在、「色」は、本来的には空無だと「色即空」を説く。世俗の色の苦の世界は、即空、無だと。確かに、辛苦は、思いよう次第というところがある。相手の対応に激怒し苦痛に思うとしても、それは、そのひとの解釈が生み出していることである。相手の対応を不十分で気障りと捉え解するから、怒りが生じる。そう捉えることをやめて、「まれにみる不器用な奴だが、それにしては人並みに近い。よく頑張った」と解すれば、同情はしても、怒りは生じないであろう。自分の描き出す「色」の世界は、「空」「無」といってもよい。世俗の人々は、苦に翻弄されて人生を苦界としつづけることが多い。だが、仏教は、苦となる「色」の世俗は、本来「空」だと、色即空だと説き、苦界からの超越を企てる。
 世俗の苦は、空無だと仏教はいうが、その仏教でも、宗教的な苦痛については、これに積極的な意味を見出す。修行=苦行は、世俗を超出するために大きな役割を果たすと言う。その苦痛甘受の忍耐をもって宗教的に優れた存在になろうとつとめる。苦痛甘受を目的実現の手段とする世俗のあり様を踏まえての、修行である。きままな欲求充足・快享受の反対、苦痛を受け入れることをもって、修行者に特殊な能力が身につくと考える。スポーツなどで身体を酷使してその体力を高めるのと似たやり方である。山岳信仰の修験道では、身体を酷使し荒行をすることで、身体的能力はもちろん霊力・呪力が身につくという。キリスト教でも、イエスの受難にならって苦行をすることがある。苦難が人を鍛え世俗を超出させてくれることだし、苦痛をもって、十字架上のイエスに一体化するという宗教的高揚が可能となる。

破壊(痛み)が主となる破壊的創造  

2025年02月25日 | 苦痛の価値論
4-6-5-1. 破壊(痛み)が主となる破壊的創造  
 創造的破壊、破壊的創造の言葉を耳にすることがあるが、本論考では、前者は、破壊ではあるが、なんといっても創造的なものだと、創造に苦痛・破壊が力となり必要という肯定的ニュアンスのもの、後者は、創造ではあるが、破壊が目立ち、新規のものの登場・創造によって既存の大切なものが破壊されるという否定的ニュアンスになる言葉と捉えておきたい(破壊的創造も、創造の核心は破壊だと、創造的破壊と同じく肯定的な意味に使うこともありうる)。破壊を被ることの大きい者にとっては、創造であっても、破壊に圧倒された悲惨な事態となれば、破壊のみが目に付く破壊的創造となろう。
 生産は、創造的破壊である。原料など生産手段を維持・保存するのでなく加工し破壊するのであり、労働者の消耗(破壊)をもって成り立っている。工業も農業も、自然を保存するのではなく、これを生産において加工し、自然からいえば、破壊するのである。それをもって創造は成り立つのではあるが、いうなら、創造的破壊であるけれども、破壊される側から見るなら、創造においてとはいえ、辛く悲しい破壊、消耗、破壊的創造である。破壊は、そのもののもつ秩序・構造をばらし解体する。ひとは、この破壊をふまえて、自分たちに有用なものにと組み立てなおし再構築し、自分たちのための価値物をそこに構築、創造する。創造には、既存のものの解体・加工といった破壊の伴うことが一般的である。ときには、既存のものを積み重ねるのみで済むこともある。破壊なしでの創造となるが、それでも、既存のものの在り方自体は抑止して新規のものの部分に貶めるのであり、若干はやはり破壊ということが伴う。
 新しい建物を建てるとき、そこが更地で何もなければ、壊すものはなく、創造がスムースに進む。だが、そうでなければ、まずは古い建物を破壊することから始めなくてはならない。社会的な新規の機能の創造の場合は、古い勢力の抵抗があるから、これを破壊し一掃するという手続きが必要になる。それまでの社会的な仕組みは束縛となり妨害物となるから、これを破壊しなくては、新規の営為はスムースには進まない。アメリカが資本制をもって社会を構築したときには、抵抗勢力は少なかったので、急速に資本制は発展した。だが、ヨーロッパは、中世の仕組みがしっかりとしていたので、そのしがらみを破壊することをしなくてはならなかった。創造的な破壊が必要となった。これも破壊される側から見れば、破壊が主要になっての陰鬱な破壊的創造であった。日本も、江戸時代の仕組みを破壊して明治の資本制の創造となった。上級武士からいえば、破壊が目立ったものだったが、しかし封建制では何もできなくなっていたのであり、受け入れざるをえない資本制の創造、暗い破壊的創造と映ったことであろう。下級武士や町人には、維新の創造は、若干の破壊、古いしがらみの一掃をふまえた、明るい創造的破壊という意識であったろう。
 旧勢力と新勢力の対立の場合は、創造と破壊は、異なった担い手をもっての外的な対立となる。が、これが一つのもののうちで展開する場合は、個人の飛躍がその典型になろうが、創造と破壊は一体的であり、創造のために自己の過去を廃棄・破壊して未来の自己がなるという進み行きになる。自己実現の歩みは、自己否定、過去の自己の破壊をもっての、未来の自己の生成、創造となる。「死して成れ!」である。持続する生は、より発展した姿をもつには、脱皮が必要となる。古い自己の破壊があって、その生の新規の自己は創造されていく。おそらく、しっかりと古いものを破壊し否定しておかないと、新規のものは、成長を妨げられる。創造は不十分になってしまう。脱皮(羽化)しそこなった蝶は、羽ばたくことすらかなわず、死ぬ。生の成長には破壊・否定の苦痛がともなう。苦痛は、快とちがい、自己に留まることをしない。停滞を好む快とちがい、苦痛の自己から逃れたいと必死になって先に進む。苦痛(破壊)は、その点、本質的に創造的である。しかし、その自己実現の未来に生成したものが、失敗ということも生じる。創造していたのだが、結果は、破壊でしかなかったと。非創造的な破壊となる。国家が自滅するときは、改革をもっての創造を試みつつも、もはやどうにもならず、根底から破壊され破滅する。個人になると、ときには、はじめから創造などあきらめて、反創造の破壊のみをもたらすこともある。自己による自己の破壊、自暴自棄である。

創造的な破壊(苦痛)  

2025年02月18日 | 苦痛の価値論
4-6-5. 創造的な破壊(苦痛)   
 生の破壊・損傷を知らせる苦痛は、受け入れがたく、心身を疲弊させる破壊的な感情である。しかし、その破壊・損傷の苦痛受容をもって、これを犠牲にし手段とすることで、これを耐え忍んで、ひとは、自然的には不可能な、価値あるものの創造を可能にしている。創造では、緻密に組み立てられている既存の形成物を解体・分解、つまり破壊して、新規に、分解された諸物の中から役立つものを拾い上げつつ、より高度なものにと構成しなおすことが多い。既存のものの上に単に積み上げるだけのものもあろうが、真に新規の優れたものの創造、その高度の構成・創造においては、先行するものを解体し破壊し一掃するのが普通であろう。創造は、破壊の痛みを伴うことになる。
 苦痛・破壊を受け入れるとしても、それは、より大きな快の享受とかより大きな不快・苦痛の回避のためという、快不快のもとでの自然的な対応である場合もある。熊が大好物のハチミツを得るという快のために、ミツバチにさされるという苦痛、破壊・損傷を受け入れるようにである。ひとでも、同様なことはある。大きな価値のために、小さな反価値の破壊・苦痛を受け入れる。ここでは、何が破壊され苦痛になるかが問題であるよりは、その破壊という手段の小さいことが優先的に選択される。背に腹は代えられないということがある。極貧であれば、高貴な精神的苦痛(自尊心の破壊等)が小さければ物乞いの惨めさを受け入れて、身体的な大きな空腹という苦痛を回避し快をとることがある。
 その苦痛が大きかろうと小さかろうと、ことの成就に、苦痛・破壊の受け入れが不可避になる場合がある。ひとは、目的論的な営為を行うが、その目的成就には、手段を介していくことが必須である。その目的実現の不可避の手段・媒介となるものは、快であることもあろうが、多くは不快・苦痛が手段となる。その苦痛がそのとき、他の苦痛の選択肢に比較して大きいものであっても、これを回避したのでは、目的実現が不可能になるのなら、この苦痛をとる。目的論的な苦痛甘受、忍耐は、人固有の自然超越の貴い営為である。できるだけ損傷・破壊は少なくしたいのは自然の感情であるが、それのならないときがある。その苦痛の手段を通してのみ目的が実現されるというとき、ひとは、その目的が重要なものであれば、現前には苦痛・破壊しかないのだとしても、時には破壊が生を脅かすような事態になっても、手段としての破壊・苦痛を甘受する。創造的破壊を言う。高い目的のためには、そういう創造のためには、反創造の破壊をもってする以外ないのであれば、その創造の不可避の手段として破壊・苦痛を受け入れる。「死して成れStirb und Werde!」という創造的破壊である。 
 この創造的な破壊・苦痛は、その忍耐は、破壊が主、自己目的になってはならない。あくまでも、貴い目的のための手段・犠牲である。どこまでも目的実現という創造のなるようにと制御された破壊・苦痛甘受でなくてはならない。苦痛で生が消耗させられるとき、それが目的のために資するものになるよう、冷静に制御されているのでないと、「骨折り損のくたびれもうけ」となってしまう。目的を見失った、骨を折るだけの盲目的な破壊では、創造はならない。制御され、目的をしっかりと見定めた破壊・苦痛甘受であってはじめて、創造、目的実現への道は開けてくる。

近未来の人は、何に生きていくのであろう  

2025年02月11日 | 苦痛の価値論
4-6-4-4. 近未来の人は、何に生きていくのであろう 
 資本制は、儲け・利益ということをテコにして、人間社会を経済的に豊かな社会にしてきたが、その儲けは、本源的には労働者に剰余労働を生み出させることによっていた。だが、現在進行中の情報革命は、生産において、労働者を無用にしつつある。精巧なロボットが身近になり、工場は、巨大なロボットとして自動的な生産体制をつくり無人化し、レストランのウェイトレスですら、ロボットによって担われつつある。労働者の剰余労働は、その労働者を無用にすることで、不可能になりつつある。したがって、資本制的な儲け・利潤は、その源となる(剰余)労働がなくなることで、存在しがたくなってきている。新規の発明とか発見をもって新規の仕事をはじめれば、当座は、創業の利得が可能であろうが、みんなが参加すれば、その創業の利益もなくなる。というより、現代のような物質的豊かさは、今ですら、分配の不備のことを言わなければ、過剰とも思える状態であり、新規に多くの消費(したがって購買、需要)を望むことはできにくくもなっている。資本制的な営為は、まもなく、停滞していきそうである。
 近未来は、高度に自動化した工場や農場で生産すれば、労働者は少なくてよく、労働が社会の中心にはならなくなるであろう。それは、今の水道局のように、必須の供給を担うものではあるが、社会の全体的活動からいうと、ごく小さな位置づけになろう。社会を担う中心は、物質的生産の経済的活動ではなくなっていく。個人の日常生活に必要なものは、3Dプリンターなどをもって各自のもとで必要に応じて生産するなら、自己生産、自給で賄うことが多くなっていこう。所有、私的所有は、あまり意味がなくなる。使用・享受できればよいのだから、所有は、場合によると、わずらわしさを増すだけで無意味なものになりかねない(いまですら、資産であった家・土地の所有も、場所によっては、庭の草取りを強いられ、税金を取られるだけで厄介なお荷物となっている)。自動車は、使用できればいいのであって、所有する必要はない。私的所有の貪欲さは、現代社会では顕著であるが、儲けて私有財産をふやしたいという欲求自体のなくなりそうな近未来は、それをもってなりたっていた資本制をなくして行きそうである。
 バーチャルなもの(仮想現実)で多くが賄われることになろうから、逆に、実在的世界、実物に、自然に触れていたいという欲求が切実になる可能性が大である。自分で家をこつこつ楽しみつつ作ったり、自分で農作物を作ってこれを消費するといったことが、その生の楽しみな充実した営為の欠かせない部分を占めることになるようにも思われる。本論考がテーマとする苦痛は、生産、労働といった営為のもとでは、なくなっていこうが、何をするにしても困難にぶつかり苦労することは当然あろうから、苦労とか苦痛が意味をもつことでは変わりはなかろうか。自然的な心身の苦痛は、当然あろうし、苦労が人を鍛え、忍耐をもってする自己実現は大切なものであり続けるであろう。
 アダムとイヴがエデンの園を追放され生産での苦痛甘受が不可避になったという、その子孫が我々現代人であるが、その生産の苦痛は、まもなくなくなっていきそうである。現代にいたるまでの人の進歩は、この情報社会で頂点に達して、あとは、ローマ市民の「パンとサーカス」ではないが、快の極楽になって、やがて、衰退していくような予感もしないではない。古代ギリシャでは、人類は(この宇宙も)生成消滅を繰り返すという発想が多かった。近代でも、シェリングのように、現文明の発生以前に高度の絶滅した文明が存在していたという発想をもつこともあった(古代からの神話はその痕跡を示すと見た)。最近でも、サイルリアン(Silurian)仮説というのがあって、古生代のシルル(Silurian)紀(4億年前)等に高度な工業文明があったかも知れないと想像をたくましくする者達がいるようである。現太陽の消滅を限界にして、それ以前に何回も文明の生成消滅の繰り返しは可能ではある。その余裕の時間はたっぷりある。労働という苦痛のなくなる極楽が近未来に想像されるが、本論考のテーマである苦痛という方面から見ると、苦痛を回避し、快楽(極楽)にのめり込むだけの人類では、家をつぶす三代目となっていくような気がする。その間、虐げられ苦痛に耐えている身近な動物のどれかが高度化して次の文明を興していく可能性もありそうである。 

自己実現か、疎外・搾取かは、人間関係しだい  

2025年02月04日 | 苦痛の価値論
4-6-4-3. 自己実現か、疎外・搾取かは、人間関係しだい  
 同じ仕事、営為が、異なった人間関係のもとでは、まるで異なった意味をもつ。自分や家族のためにする営為は、どんなに苦痛でも、これの報酬を求めることはない。その営為自体が自己の充実であり、いわば自己実現の営為である。同じ老人介護の苦労が、自分の老母へのそれの場合は、無償であることを当然とするが、他人である老人の介護をする場合には、有償となる。後者では、自己自身の充実ではなく、自己の喪失の時間ととらえるからである。奴隷と職人が同じ仕事をしていたとしても、職人は、自己の時間分を報酬として要求するが、奴隷は、報酬なしとなり奴隷主がすべての果実をとりあげる。
 奴隷扱いで過酷な扱いを受けていた少女が、実は、当家の死んだ跡取り息子の一人娘だと分かったら、翌日からすぐ奴隷扱いはやめて、小公女扱いをされていく。動物でも、我が子は大切にするが、自分の子でない場合、冷淡に扱う。同じ子供なのに、まったく別扱いする。人間社会も、そういう哺乳類の血を引き継いでいて、継子扱いを言う。同じ家に住んでいても、血を分けた子でないからということで、冷淡な扱いをすることがある。共同的に支えあって生きている一つの共同体のうちでも、血縁なのか否かでまるで別のあつかいとなり、血縁であれば、無償の贈与をしてはぐくみ、そうでない場合、冷たい扱いをすることが通ってきた。
 関係の捉え方、思いひとつで、自分たちの働きの意味は、まるで異なったものとなる。まったく同じ仕事・苦労をしていても、ひとりは、これを奴隷労働と捉え、自己疎外、自己喪失の耐えがたい時間と捉え、他のひとりは、これをボランティアと捉えて、自己充実の、満たされた時間と捉えることがある。小川や溝の掃除を地域全体ですることがある。それを、自発的にこれに参加するボランティアと見ることがある。が、田んぼを所有するひとが自分たちだけでやるべきで、自分には関係ないことと思いつつ、しかしことを荒立てたら、ゴミ出しもできなくなるかも知れないと思い、いやいやながら参加することもある。同じ溝掃除を並んでやっていても、不承不承やる者にとっては、ボランティアではなく、無償の強制労働、何の報いもない奴隷労働とみなすこともありうる。
 自分と他者のかかわり、全体とのかかわりの捉え方で、同じ営為も、まるで意味を異にすることであるが、逆に、その営為とか、価値物の動かし方しだいで、その人間関係が意味を変えていくのでもある。他人同士の間柄であっても、そこで家族内でするような無償の贈与をするとしたら、その贈与の営為は、そこでの他人同士の関係を親密な家族的関係に変えていく。家族にするように愛を持ってふるまうなら、他人同士であっても、兄弟のような関係になっていく。喜捨、施しを昔からいうが、これは、恵まれない他者への単なる贈与ではなく、その喜捨を行う人自身の心構えが、他者を無縁の他者とみなすことをやめて、同胞とみなしてすることである。そう扱われれば、これを受けた方も、家族類似の振る舞いを返していくことにもなっていくであろう。家族にするような無償の贈与は、そこでの他者関係を親密な家族同等の関係に変える。逆に、身内の者にひどい仕打ちを受けると、もう身内という関係ではなくして縁を切り、他人にみなしていくことも生じる。