4-7-2-2. 快即悪とするのは、行き過ぎだろう
快は、人を魅了する。享受したい代表であり、それにのめり込んで現を抜かすようになって、よからぬ状態を作り出しもする。快がしばしば否定的結果をもたらすというのは、わかる。また、苦痛を回避せず、これを甘受して忍耐することで、人間的生に価値あるものが可能になるから、その点では、苦痛は、良い手段・犠牲となりうる。だが、自然的日常的には、快にしたがい苦痛を回避することで良好な結果となるのであって、快即悪、苦痛即善とするのは行き過ぎであろう。が、精神的世界では、反自然的に、快を悪とし、苦を善とすることが少なくない。
カントは、自慰より自殺の方が悪は小さいと見た(『人倫の形而上学』「徳論」§7等)。自慰は快楽の肉欲に屈したものだが、自殺はそうではないからだと。自殺は、(神から与えられた)尊い生命をないがしろにする悪であるが、それより快楽の自慰の方が一層の悪だとし、快楽に対して厳しい見方をした。カントは、敬虔主義の強い影響下にあったというが、一般的に言って宗教など超越世界を求めるものにとっては、この肉体の牢獄から解放されることが大切であり、その肉欲の代表が性欲・食欲(その快楽)ということで、快楽を嫌悪するのは、宗教世界ではごく普通のことであった。それは、仏教でも同様である。禅宗の僧の中には、美味しい味噌汁では困ると言って、壁を削って味噌汁の中に入れてまずいものにして食した者もいる。ましてや性的快楽は肉欲の代表で、これからの超越は大切だった。
精神世界では、快は、なくてもよい些事である。喜びの快感情はなくても、価値物獲得がなればいいのである。問題は、感性世界での快であろう。これにかまけていたのでは、生が何かに挑戦していくことが上の空となって生促進にマイナスとなる。その点では、快は、悪といってもよい。快にのめりこみ陶酔した状態では、外界への注意はおろそかになり、先へと進むことを放棄した状態になる。とくに、麻薬のように、生促進のために資するものがゼロで快楽享受のみというのでは、激痛軽減にその快楽を利用するような場合を除けば、根本的にその快楽は悪である。酒等の麻薬が、悪として嫌悪され排除されるのは、もっともなことである。
しかし、快楽全般を悪とみなすのは、行き過ぎであろう。ひとも動物として、その動物的機能のもとでは快不快(苦痛)をもって適切に生の保護・促進が可能になっているのである。美味しいものは、身体に優れた栄養をもっているのであり、まずい苦痛をもたらすもの、苦いものは、有毒であることを知らせる感覚・感情である。性的な方面でも、人類はめぐまれているから中には逸脱する者もいるが、不倫等の逸脱で家族を壊すようなものを厳罰にして処すれば、おおむね、うまく種の再生産がいくようになっている。かりに、性的快楽がないとしたら、だれが子供を作ろうとするであろうか。食が快でないなら、たちまちに栄養失調になる。節制という中庸の在り方を古来人類は規範としてきた。食も性もそういう節制の姿勢をもって快を享受してきた。カントなどの厳格主義、敬虔主義は、精神的生を第一にする人においては有意義かもしれないが、これを人間一般の在り方として採ることはできないであろう。快楽全般の否定は、行き過ぎとなる。
快は、人を魅了する。享受したい代表であり、それにのめり込んで現を抜かすようになって、よからぬ状態を作り出しもする。快がしばしば否定的結果をもたらすというのは、わかる。また、苦痛を回避せず、これを甘受して忍耐することで、人間的生に価値あるものが可能になるから、その点では、苦痛は、良い手段・犠牲となりうる。だが、自然的日常的には、快にしたがい苦痛を回避することで良好な結果となるのであって、快即悪、苦痛即善とするのは行き過ぎであろう。が、精神的世界では、反自然的に、快を悪とし、苦を善とすることが少なくない。
カントは、自慰より自殺の方が悪は小さいと見た(『人倫の形而上学』「徳論」§7等)。自慰は快楽の肉欲に屈したものだが、自殺はそうではないからだと。自殺は、(神から与えられた)尊い生命をないがしろにする悪であるが、それより快楽の自慰の方が一層の悪だとし、快楽に対して厳しい見方をした。カントは、敬虔主義の強い影響下にあったというが、一般的に言って宗教など超越世界を求めるものにとっては、この肉体の牢獄から解放されることが大切であり、その肉欲の代表が性欲・食欲(その快楽)ということで、快楽を嫌悪するのは、宗教世界ではごく普通のことであった。それは、仏教でも同様である。禅宗の僧の中には、美味しい味噌汁では困ると言って、壁を削って味噌汁の中に入れてまずいものにして食した者もいる。ましてや性的快楽は肉欲の代表で、これからの超越は大切だった。
精神世界では、快は、なくてもよい些事である。喜びの快感情はなくても、価値物獲得がなればいいのである。問題は、感性世界での快であろう。これにかまけていたのでは、生が何かに挑戦していくことが上の空となって生促進にマイナスとなる。その点では、快は、悪といってもよい。快にのめりこみ陶酔した状態では、外界への注意はおろそかになり、先へと進むことを放棄した状態になる。とくに、麻薬のように、生促進のために資するものがゼロで快楽享受のみというのでは、激痛軽減にその快楽を利用するような場合を除けば、根本的にその快楽は悪である。酒等の麻薬が、悪として嫌悪され排除されるのは、もっともなことである。
しかし、快楽全般を悪とみなすのは、行き過ぎであろう。ひとも動物として、その動物的機能のもとでは快不快(苦痛)をもって適切に生の保護・促進が可能になっているのである。美味しいものは、身体に優れた栄養をもっているのであり、まずい苦痛をもたらすもの、苦いものは、有毒であることを知らせる感覚・感情である。性的な方面でも、人類はめぐまれているから中には逸脱する者もいるが、不倫等の逸脱で家族を壊すようなものを厳罰にして処すれば、おおむね、うまく種の再生産がいくようになっている。かりに、性的快楽がないとしたら、だれが子供を作ろうとするであろうか。食が快でないなら、たちまちに栄養失調になる。節制という中庸の在り方を古来人類は規範としてきた。食も性もそういう節制の姿勢をもって快を享受してきた。カントなどの厳格主義、敬虔主義は、精神的生を第一にする人においては有意義かもしれないが、これを人間一般の在り方として採ることはできないであろう。快楽全般の否定は、行き過ぎとなる。