4-7-4. 自らの苦痛(犠牲)を神に捧げる
ひとは、動物とちがい、苦痛を必要なら回避せず甘受して、それを手段・犠牲にし、目的とする価値あるものの創造を行うことができる。かつ、そういう苦難を受け入れることで、自身の能力をより高いものにと開発することもできる。宗教でも、この苦痛の利用を重視する。苦行をもって、そこに宗教的な価値が創造され、あるいは、自身の宗教的能力が高まるとする。神仏に価値ある世俗のものを献物とすることもあるが、より真摯に真剣になった場合は、自身の苦痛・苦行をささげる。本気であることを示すには自身の苦痛・犠牲なくしては、かなわないという思いがある。他人任せではかなわず、自身がお百度を踏むとか、自身がお茶断ちをするなど、自らの犠牲・苦痛が必要ということである。それは命がけのものになることも、かつては、あった。山岳修行とか、お遍路さんの聖地巡礼なども、いまとちがって、己の命をかけてのものだったであろう。
キリスト教でも、苦痛をもって神に近づくことをする。修行者が自身を鞭打つようなことは他の宗教と同様だが、さらに、自分たちの世俗の苦労の仕事自体も神に関わるものと見た。プロテスタント等が世俗の職業を神聖な「使命」とするのは、その仕事に苦労することをもって、神の求めるものを実現しているという意識であろう。世俗の王に忠誠を誓う者は、王の発する使命を懸命に果たそうとする。そのことで、王の忠実な臣下として王との絆を確かなものにして、臣下であることが保障され一家の安寧も可能となるのである。これと同じことが神と人の間にも想定されて、神からの使命とするもの(世俗の苦労)を自らが尽くすことで、神との絆を固いものにした。神に自身の使命となる苦痛をささげるのであり、そのことで神の思し召しにかなう忠実な子ということになった。かつ、使命=職業に精出すことで、自身を神にかなう高度な能力をもった存在にと高めたのでもある。古い時代、荒ぶる神に苦痛・犠牲を捧げる場合は、個ではなく、共同体全体でもって対処することが多かったであろうが、使命を神から与えられてという意識の場合、使命を果たすのは個人で、当然、苦痛・苦難はその個自身が担うものとなっていなくてはならなかった。
自分の世俗の仕事が、神から与えられた神聖な「使命」だとの解釈のもとでは、その苦痛は、神が与えたものということになる。その苦痛に耐えることは、神からの試練に耐え応えることとなった。苦労の仕事は、尊い使命、聖なる職として、これに燃え尽き命つきて、身を神に捧げたことになり本望ということにもなる。同じ辛い仕事でも、これが単に冷酷な経営者に搾取されているという意識なら、より多くの苦痛には、経営者への反発心をより大きくするだけであろう。だが、同じことが神からのものと解されるなら、苦痛を多く受け入れるだけ、より多く神の求めに応えて使命を忠実に果たすこととして、神との絆をより強くすることになった。
ひとは、動物とちがい、苦痛を必要なら回避せず甘受して、それを手段・犠牲にし、目的とする価値あるものの創造を行うことができる。かつ、そういう苦難を受け入れることで、自身の能力をより高いものにと開発することもできる。宗教でも、この苦痛の利用を重視する。苦行をもって、そこに宗教的な価値が創造され、あるいは、自身の宗教的能力が高まるとする。神仏に価値ある世俗のものを献物とすることもあるが、より真摯に真剣になった場合は、自身の苦痛・苦行をささげる。本気であることを示すには自身の苦痛・犠牲なくしては、かなわないという思いがある。他人任せではかなわず、自身がお百度を踏むとか、自身がお茶断ちをするなど、自らの犠牲・苦痛が必要ということである。それは命がけのものになることも、かつては、あった。山岳修行とか、お遍路さんの聖地巡礼なども、いまとちがって、己の命をかけてのものだったであろう。
キリスト教でも、苦痛をもって神に近づくことをする。修行者が自身を鞭打つようなことは他の宗教と同様だが、さらに、自分たちの世俗の苦労の仕事自体も神に関わるものと見た。プロテスタント等が世俗の職業を神聖な「使命」とするのは、その仕事に苦労することをもって、神の求めるものを実現しているという意識であろう。世俗の王に忠誠を誓う者は、王の発する使命を懸命に果たそうとする。そのことで、王の忠実な臣下として王との絆を確かなものにして、臣下であることが保障され一家の安寧も可能となるのである。これと同じことが神と人の間にも想定されて、神からの使命とするもの(世俗の苦労)を自らが尽くすことで、神との絆を固いものにした。神に自身の使命となる苦痛をささげるのであり、そのことで神の思し召しにかなう忠実な子ということになった。かつ、使命=職業に精出すことで、自身を神にかなう高度な能力をもった存在にと高めたのでもある。古い時代、荒ぶる神に苦痛・犠牲を捧げる場合は、個ではなく、共同体全体でもって対処することが多かったであろうが、使命を神から与えられてという意識の場合、使命を果たすのは個人で、当然、苦痛・苦難はその個自身が担うものとなっていなくてはならなかった。
自分の世俗の仕事が、神から与えられた神聖な「使命」だとの解釈のもとでは、その苦痛は、神が与えたものということになる。その苦痛に耐えることは、神からの試練に耐え応えることとなった。苦労の仕事は、尊い使命、聖なる職として、これに燃え尽き命つきて、身を神に捧げたことになり本望ということにもなる。同じ辛い仕事でも、これが単に冷酷な経営者に搾取されているという意識なら、より多くの苦痛には、経営者への反発心をより大きくするだけであろう。だが、同じことが神からのものと解されるなら、苦痛を多く受け入れるだけ、より多く神の求めに応えて使命を忠実に果たすこととして、神との絆をより強くすることになった。