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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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自らの苦痛(犠牲)を神に捧げる  

2025年05月13日 | 苦痛の価値論
4-7-4. 自らの苦痛(犠牲)を神に捧げる  
 ひとは、動物とちがい、苦痛を必要なら回避せず甘受して、それを手段・犠牲にし、目的とする価値あるものの創造を行うことができる。かつ、そういう苦難を受け入れることで、自身の能力をより高いものにと開発することもできる。宗教でも、この苦痛の利用を重視する。苦行をもって、そこに宗教的な価値が創造され、あるいは、自身の宗教的能力が高まるとする。神仏に価値ある世俗のものを献物とすることもあるが、より真摯に真剣になった場合は、自身の苦痛・苦行をささげる。本気であることを示すには自身の苦痛・犠牲なくしては、かなわないという思いがある。他人任せではかなわず、自身がお百度を踏むとか、自身がお茶断ちをするなど、自らの犠牲・苦痛が必要ということである。それは命がけのものになることも、かつては、あった。山岳修行とか、お遍路さんの聖地巡礼なども、いまとちがって、己の命をかけてのものだったであろう。
 キリスト教でも、苦痛をもって神に近づくことをする。修行者が自身を鞭打つようなことは他の宗教と同様だが、さらに、自分たちの世俗の苦労の仕事自体も神に関わるものと見た。プロテスタント等が世俗の職業を神聖な「使命」とするのは、その仕事に苦労することをもって、神の求めるものを実現しているという意識であろう。世俗の王に忠誠を誓う者は、王の発する使命を懸命に果たそうとする。そのことで、王の忠実な臣下として王との絆を確かなものにして、臣下であることが保障され一家の安寧も可能となるのである。これと同じことが神と人の間にも想定されて、神からの使命とするもの(世俗の苦労)を自らが尽くすことで、神との絆を固いものにした。神に自身の使命となる苦痛をささげるのであり、そのことで神の思し召しにかなう忠実な子ということになった。かつ、使命=職業に精出すことで、自身を神にかなう高度な能力をもった存在にと高めたのでもある。古い時代、荒ぶる神に苦痛・犠牲を捧げる場合は、個ではなく、共同体全体でもって対処することが多かったであろうが、使命を神から与えられてという意識の場合、使命を果たすのは個人で、当然、苦痛・苦難はその個自身が担うものとなっていなくてはならなかった。 
 自分の世俗の仕事が、神から与えられた神聖な「使命」だとの解釈のもとでは、その苦痛は、神が与えたものということになる。その苦痛に耐えることは、神からの試練に耐え応えることとなった。苦労の仕事は、尊い使命、聖なる職として、これに燃え尽き命つきて、身を神に捧げたことになり本望ということにもなる。同じ辛い仕事でも、これが単に冷酷な経営者に搾取されているという意識なら、より多くの苦痛には、経営者への反発心をより大きくするだけであろう。だが、同じことが神からのものと解されるなら、苦痛を多く受け入れるだけ、より多く神の求めに応えて使命を忠実に果たすこととして、神との絆をより強くすることになった。

苦痛の理解が、浄土教とキリスト教ではちがう  

2025年05月06日 | 苦痛の価値論
4-7-3-3. 苦痛の理解が、浄土教とキリスト教ではちがう 
 仏教でも浄土教の方では、キリスト教的になり、来世での救済を語る。この苦難の世俗のもとでは、救済はならず、これに耐え続けたあと、来世で浄土に迎え入れられるということである。浄土の教えを信じることで、それが保証され、「南無阿弥陀仏」と唱えることにおいて、この苦界からの超越が観念的には成就することになった。キリスト教では、この世の苦難自体が神から与えられたもので、それは神からの使命(聖なる職)であり、その苦難の使命に取り組むことで、来世の幸福が保証された。『創世記』でのアダムの楽園追放では、苦痛は、罰として神が与えたものであった。苦は神との絆であれば、これに積極的に挑戦しようという姿勢がもてた。
 だが、浄土教の場合は、この世の苦は、それ自体が手段として来世への踏み台になるというような発想ではなかろう。どうしようもない下賤で醜悪の自分という自覚であり、あくまでも、阿弥陀如来の慈悲によって救済されるだけのことであった。この世の苦難に挑戦することが救済につながるというのではなかった。苦痛苦悩の、悪業としての醜悪な世俗の仕事を逃れられない底辺の自分たちであり、慈悲の阿弥陀如来を信じて任せる以外ない、度し難い悪人という自覚であった。極悪低劣な自分たちは、自力で悟ったり極楽往生することなど不可能な惨め存在であり、阿弥陀仏にお願いする以外なにも残っていないという、徹底した他力本願による来世での救済にかけていた。
 キリスト教では、この世の苦は、アダムの末裔としての自分たちに課された罪であり、その苦難の使命(仕事=聖職)にひたすらに励むことで、神との結びつきを確かめることになっていた。だが、仏教の浄土教では、この世俗の苦痛の仕事は、悪そのものであって醜く汚いものであった。キリスト教では、苦痛は神自身がアダムたちに与え課したものであったが、浄土教では、阿弥陀仏は、救い手ではあるが、救いとなる特別の苦痛を与えるようなものではなかった。仏は、俗世の下賤な仕事をあわれと思い、仏という存在をかけて救済を決意したのだった。生き物を殺すのが仕事であっても、そういう悪業が自分たち底辺のものの宿命と諦念しつつ、自分たちこそを仏は救おうと、慈悲の眼を注いでくれているのだと悪人往生という救済に望みをかけた。仏の救済の対象となる賤業なのだと、その賤業に前向きになり専念する姿勢を持ちえたことであろう。その苦痛から逃げず、これを耐え忍んでいこうとする心構えになりえたに違いない。アダムの労苦ほどの神仏につながる誇りはもてなかったとしても、生き物を殺めるような仕事であっても、自己卑下して隠れるようにしてこそこそと生きることはないのだ、仏の慈悲は、下賤な自分たちにこそ向けられているのだと、法然や親鸞の浄土の教えをもって、日々の苦痛を耐え忍んで生きることに積極的になりえたことであろう。

「南無地獄大菩薩」-苦に価値を見出す仏教(禅宗)もある  

2025年04月29日 | 苦痛の価値論
4-7-3-2.「南無地獄大菩薩」-苦に価値を見出す仏教(禅宗)もある
 苦痛を甘受する者は、この苦痛が平気になれるようにと、世界の解釈や自己のあり様を変えていくことを時に行う。大きな苦悩であればあるほど、その変革が大きく求められる。ひとは、切羽詰まることがないと、なかなか自己変革を実行する気にならない。苦悩がこれを自分に強いるのであり、苦悩は、自分を強靱に、大きくするのに、偉大な教師となりうる。白隠は、「南無地獄大菩薩」を言った。地獄の責め苦こそが自分を卓越した存在にと改革してくれるのであり、生半可な優しい菩薩よりは、地獄の方が自分を駆り立て済度してくれるありがたいものになると。
 逆境の者は、地獄のような生活を強いられるなかで、少々のことにはへこたれない強靱な精神をもつ存在にと育つことがある。もちろん、逆境に、多くは、惨めな生を送って終わることであるが、ときに、ひとを偉大な存在にと育てる。おそらく、天性において強いものがあってのことであろうが、やはり、それを開花させるものとして、逆境がしばしば挙げられる。スポーツでは、鍛練は、当該の筋肉に負荷をあたえ傷つけて筋肉痛を与えることで、その回復時により大きな強い筋肉にと変えていくのが基本になる。逆境も、精神を傷めつけることで、これをより強靱なものにと開発していく。過度のそれは、だが、スポーツでは体を痛めてダメにするし、逆境に打ちのめされて悲惨な人生に終わる場合も多いことではある。ほどほどであることが大切なのであろうが、それ以上に、当人の強い意志が問題となる。どんな苦痛(逆境)も受け止めて見せるという主体的な意志は、どこまでも自分の自由にできることである。
 欲望が快不快を生じさせる。快を求める欲望は、際限なくこれを求める。求めえず欲求不満となり苦痛を生じる。欲求がなければ、快もないが、苦もなくなる。自動車への欲望があるから、苦が生じる。欲望がなければ、所有しても大型ごみでしかなく、快ではない。所有できなくても、不満はない。苦ではない。欲が快不快をつくるのであり、不快(苦)をなくするには欲をなくするのが一番ということになる。地獄の苦悩・苦痛が、その生じる根源の欲望の愚かさを気づかせることになる。盤珪和尚は、地獄を自身が作り出していることを説き、「身のひいき」をするから、つい欲をもち、その不充足に不快をいだくのであり、身のひいきさえやめれば、即、仏心であり、安楽の世界がなると説いた。
 キリスト教は、苦を積極的に甘受して、それを幸福への必須の手段とみなす。苦痛は、神が自身を選んで与えてくれた試練・使命だと捉えた。神と自分を結ぶありがたい絆(手段)として苦痛があるという解釈をした。苦痛から自然本性にしたがって逃避するようなことはしないで、これに挑戦する姿勢が生まれえた。仏教も、苦痛から逃げない。が、色即空と苦痛を空無とみなしてということだから、その限りでは苦痛に歯を食いしばって耐え挑戦していくというような姿勢にはならないであろう。この苦界に住む以上は、苦痛は常に襲ってくる。これを甘受し、なんでもないこととして持続して受け入れうる心の仕組みにと、自らを根本から変革していくのが色即空になろう。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」である。苦に力むことはやめて淡々とこれを受容するという、苦を超越した空の悟りの世界へと自身を高めていく。苦が自身を、優れた空の境地へと駆り立てる原動力になるとすれば、苦痛は、ありがたいもの、白隠が言ったように「南地獄大菩薩」ということになる。

苦の世俗からの出家・出世間   

2025年04月22日 | 苦痛の価値論
4-7-3-1. 苦の世俗からの出家・出世間 
 この人間世界、世俗が苦だということでは、キリスト教も仏教も一致している。旧約聖書『創世記』は、エデンの楽園から追放された人間には、苦痛の罰が課されたと語る。苦痛に忍耐することがひとの動物的自然世界との違いになると見た。仏教も、この世界を苦界、苦海と捉えた。苦痛に耐えることが人間の世俗の在り方となっているのは確かである。その苦痛の世界からの解放を宗教は求めた。キリスト教は、苦痛の世俗の仕事を神からの使命と解し、これを果たすことによって、来世の救済、天国行を確信した。苦痛の労働を神から与えられ課された試練・使命だと解することで、ありがたい稀有の労苦ということにもなった。苦痛に、この罰をしっかりと受け止めることに、神と結び付く絆を思い、マゾヒストのように苦痛に価値を見出した。
 仏教は、この輪廻転生の苦の世界を嫌悪し、極楽への飛翔を夢見た。と同時に、この世界にいながらにして、耐えがたい苦悩から逃れる道もまた求めた。ひとは、妄念を抱く。仏教では、苦痛・苦悩は妄念ではないかという。苦痛は、傷害に生じるが、人間世界において自身に害となり障りとなるようなものは、自身が勝手に作り上げている妄念になることが日常生活では多い。自動車を買いたいという欲望が生じるから、買えないことに苦悩する。免許のないものなど、そういう欲望自体をもたないから、車を買えないことには苦悩することがない。CMで魅力的な車の宣伝があっても、快も不快も抱かないで、無視する。つまりは、苦痛は、しばしば自身が妄念・欲望を抱くことで生じているものであって、そのようなことで生じている苦痛は、その欲望をなくすれば、直ちに消えていくことである。苦の根源はおのれに、個我のうちにあるのであり、我欲を滅することで苦も滅するということになる。仏教では、出世間をいう。無暗な欲求・欲望をいだくから、それがかなえられず苦悩するのであり、そういう欲望の世界から、世間から離れるなら、苦もまた消滅すると、出世間、出家をいう。
 この世俗の生活を離れ、家族を捨てる出世間は、宗教においては、どこでもやってきたことである。キリスト教でも、修道院などは、俗世間から離れて世俗の欲望をなくして、その苦悩から解放された世界である。いまでも、そういう生活をしている人たちがいる。ギリシャのアトス半島は、その地域全体がギリシャ正教を中心にした聖地で(グーグルのストリートビューで、アトス半島にはいる車道をたどってみたことがあるが、途中からは進めなくなっていた)、いまも女人禁制で、犬ですら、雌は入れないのだとかいう。
 そういう世俗との切断でなくても、移民とか移住で、これを実現するものもいる。わずらわしさに苦悩するなかで、耐えがたいということになって、別天地に住み替えるのである。受験戦争で悩む者のなかには、こんなくだらない社会はいやだと、行方不明になったり、異境に移住することがある。受験戦争から解放されて、穏やかな精神をとりもどす。それがかなわない場合でも、切羽詰まって健忘症、記憶喪失となることで、過去から切り離されてそこに生じていた苦悩から解放されるというようなこともある。耐えがたさの限界になって見出す自己救済の手になるのであろう。悲惨なのは、自殺である。これは、自分の苦悩の世界を捨てるだけではすまない。産湯とともに、赤ちゃんをも捨てて人生を終わらせてしまう。

仏教は、苦を、即空(無)と達観 

2025年04月15日 | 苦痛の価値論
4-7-3. 仏教は、苦を、即空(無)と達観  
 苦痛は、快と異なり、長くつづくし、生の基礎的生理的レベルから、高度な精神的世界まで満ち満ちていて、ひとの意識を常にそれへと向けさせる。仏教は、この世は苦界だと捉え、苦のない世界を理想として、極楽浄土を描く。輪廻転生する生は、今生では、苦界に留まっているが、次には可能なら浄土の安楽国に生まれたいと願う。
 来世はそうありたいとしても、現在の苦痛自体は、なくならない。が、仏教は、いまのままで、無苦になる方途をも見出した。それは、苦が空無だと悟ることによってなるという。「色即空」で、「五蘊皆空、度一切苦厄」と。五蘊(色、受、想、行、識)という、この私のもとで世界を構成する根本は、みんな、空(無)であり、そう解することですべての苦は超越できると。この世界は、主観が構成したものであり、主観の在り方・思い方しだいで、すべては変わりうる。実体としては、無であり、空でしかないと。音も色彩も、主観が作り出しているもので、主観がそう構成しないなら、無・空でしかない。苦悩としての絶望とか悲嘆にしても、それをもたらしているものは、主観の解釈である。理解を、解釈を変えるなら、悲嘆の原因の、例えばわが子の死ですら、それを、この世の地獄の悲惨さを体験することなしで安らかな極楽浄土へと昇って行ったのだと解するなら、悲嘆すべきことではなくなる。解釈しだいで、それらの苦悩は空無となって消失しうる。仏教者であっても、苦痛を苦痛と感じることは同じであろう。ちがいは、それを実体化してこれに囚われ執着して、これに命をすり減らすような愚かなことをせず、苦痛を前に、なんでもないと、これにとりあわず流していくことであろう。
 苦痛は、その生を脅かすものとして、ひとは、嫌悪しこれを回避しようと動く。その苦痛を空無と解するのであれば、無いものは、なにも回避することもない。無と無視できるのであれば、これから逃げずこれを淡々と引き受けることともなろう。幽霊とか鬼神を妄想するものは、これに脅かされこれを避けたいと思い、怖れおののき祟られる。だが、そんなものは、主観の作り出した幻覚・妄想にすぎないとなれば、真実には無でしかないのなら、平気であり、これを避けることなく、平然と対応することができ、祟られることもない。妄想におびえるものは、これに祟られ、苦痛となり、これに忍耐がいるが、これを空無と見るものは、なんでもないから、平然とし、忍耐なども無用である。
 損傷とその苦痛のうち、後者は、もっぱらに主観内の出来事であるのに対して損傷は客観的なものとして、主観のうちで片づけられるものではない。その点でいえば、苦痛のように、簡単には損傷は無化することはできない。苦痛は、仏教者でなくても、麻酔をかければ、無化することができる。だが、損傷は、生の部分的な客観的な破壊であり、主観が動かせるものではない。仏教は、苦痛を空無化するが、損傷はそうはいかないであろう。ただし、生の損傷は、場合によると、損傷かどうかの解釈の問題となることがあり、その場合は、やはり、主観的な解釈を変えることで、損傷であったりなかったりする主観的なものともなろう。心身の障害について、ときに、それは、個性としての在り方になるのであって、障害とか損傷とみなすことはないということがある。そういう理解ができれば、損傷も、無化することが可能かも知れない。手の指が五本でなく六本の者がときにいるが(時々あるようで、豊臣秀吉はそうだったという)、それを欠陥とか障害とみなすのは、結構主観的なものであろう。五本の者が圧倒的だからといっても、それ以外は障害というのもおかしなことである。かつ、問題は、これを苦痛にし悩むことであろうから、この苦痛を主観のうちから空無化できれば、指の数が何本であろうと、淡々と向かい合えることとなる。