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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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禁欲主義 

2025年06月17日 | 苦痛の価値論
4-7-5-2. 禁欲主義 
 ひとは、動物的自然を超越した存在である。動物は、快に引かれ不快・苦痛を回避して生きている。だが、ひとは、これらを超越している。快あるいは、欲求がそのあるべきことにふさわしくなければ、これを拒否し、禁欲する。逆に、苦痛については、自然的にはこれを回避するが、必要とあれば、ひとは、これを甘受する。 
 禁欲の多くは、快への欲望の抑止・禁止である。人の動物的欲求は、快を直接的な目的にする。快に惹かれるのは、動物的なレベルにと自身を落とし込むことである。人間にふさわしい行為からは、外れることが生じる。精神的にしっかりと生きようとする場合、そういう欲求・快を禁じるべきことにしばしばなる。しかも、快は、これの享受においては、のめりこみ、周囲のことを放置しがちとなり、危ういことを招きかねないのでもある。さらに、逆の苦痛については、自然的には、これを回避する。苦痛からの逃走衝動、回避の欲求・衝動を動物的にはもつ。その衝動・欲求を禁じることも人はする。忍耐は、苦痛を回避する欲求を禁止して、これを甘受する。禁欲は、欲求を禁じることだが、それは苦痛であることが普通なので、苦痛甘受、苦痛を受け入れて耐え忍ぶことをイメージすることになりがちである。しかし、激痛のがんを耐えることを禁欲とは言わないし、絶望の苦悶に耐えることを禁欲とも言わない。禁欲は、苦痛を耐える面をもつとしても、それは一面であって、中心は、やはり、文字通りに、欲求を禁じることだというべきであろう(asceticism(禁欲主義)は、ギリシャのaskeō( 訓練する、鍛える)からで、欲を抑止するよりは、苦痛に耐える方に近いようである)。
 禁欲の対象は、動物的な欲求が基本になろうが、場合によると、精神的なレベルでの楽しみの禁止を含むこともある。囲碁将棋等の娯楽、音楽とか文学等の芸術も禁止するようなことがある。社会的な営為も、金銭とか名誉を求めるようなことは、醜いエゴの欲望であり、しばしば禁じられるべきものであった。出家とは、家を捨てることであるが、それは、あらゆる欲求・欲望を捨て去ること、全面的な禁欲であった。宗教的禁欲は、神仏に日常のすべてを投げ出して仕えるとか、世俗の欲望を禁じ、苦痛から逃げず、その生み出す価値を捧げるとか、聖域に入るに際して精進潔斎して欲望を絶って清浄な心身になるといったことで、世俗一般の欲求を禁じるものであった。
 禁欲の対象の欲求・欲望は、これを抑止していると、それに慣れてきて、欲求自体の消滅することが多い。動物的なそれであっても、食欲は、個体維持に不可欠だから、元気なら、いつまでも残り続けるけれども、類保存の性的本能は、刺激がなくなると、消える。いまは、刑務所でも性的刺激がなくならないから、どうか知らないが、かつては、刑務所に入ると、食欲の方は旺盛で夢にも食べ物が出てくるが、性欲は、消失したようである。まして、名誉欲とか出世欲は、社会に出ても、底辺にでも置かれれば、おのずから消えていく。宗教的禁欲主義のもとでは、社会と隔絶した生活をするようなことになれば、食欲は別として、割と簡単に欲求自体が消えたり委縮して、禁欲主義は、幅広く厳密に実行されていたのではないかと思われる。食欲は、個体維持に必須だから簡単には消えないけれども、この食欲すらも断食(昼間のみ食べないラマダンとか、寝ているときだけ食べないで朝から食べるブレックファスト(fast=断食をbreak=破るとかの朝食)などと違い、基本、水だけで過ごす断食)をしていると、消滅するという。禁欲に慣れてきたら、禁欲主義といっても、欲を禁じる必要がなくなるのが普通であったろう。巷の禁酒・禁煙などでも、慣れてくると、禁じるという辛い思い自体が無用になり、禁酒も禁煙も意思することが不要になる。
 禁欲主義の求めるものは、穏やかな生である。単に欲望や欲求をなくするというのではなく、動物的感性的な情欲の世界を脱出して、理性的に精神的に豊かな生を営むことである。それの妨害となる主として動物的な衝動を抑制するのが一般的な禁欲主義である。それは、慣れた場合は、なんでもないことになるが、衝動などを放置している者から見ると、厳しいものに映る。

宗教的苦行は、かなりが無意味な受苦であろう 

2025年06月10日 | 苦痛の価値論
4-7-5-1. 宗教的苦行は、かなりが無意味な受苦であろう 
 宗教ではしばしば苦行をして、神仏に救いの手がかりを得ようとし、自身に神的能力・呪力を身につけようと努力した。前者は100%無意味な、無駄な営為であった。後者については、神的能力は身につくはずもなかったが、世俗の者に比しては、かなりの知的身体的能力を身につけることが可能であったろう。激しい山岳修行では、身体は、鍛えられて強いものとなり、感覚も研ぎ澄まされて、世俗の者の感受しえないものを感じうることが可能となったであろう。苦行は、ひとの能力を開発する。だが、ひととしての能力以上になることは無理である。神的な呪力を願っていたとしても、それは、無理なことである。なんといってもこの現実を制御支配する神などいないからである。
 神に超自然的な救済の営為を期待してのひとの犠牲は100%無駄なことであったが、人類は、長い歴史の中で膨大な犠牲を宗教的営為において払ってきた。世界中に人身御供の伝説・痕跡がある。その社会にとって一番価値のある大切な生命までも神にささげた。神仏を妄信する者は、神仏をあがめ奉るほどに、人間を虫けらや悪魔の類と見下すので、いまでもときに(地下鉄サリン事件やイスラムのテロなど)殺人事件を平然と引き起こすことがある。雨乞いをして、乙女を殺して神にささげもした。だが、神など存在するわけがなく、悲惨で愚かしい犠牲・殺人行為であった。  
 神からの物的客観的救済そのものは、幻想であったが、これを信じる者には、確かな心の救済とはなった。信じるとは、真偽不定のものを、知的な懐疑をストップしてそのままを受け入れることだから、信じることができるものは、狐疑逡巡し悩むことはなくなり、その救済を嬉々として待つことができた。来世での救済、極楽往生は、この世では確かめようがなく、多いに知的には疑いうることだが、信じる者は、知性を麻痺させてその懐疑をやめるので、本心からこれを喜んで待つことができた。この世の苦痛は、その来世での救済確信によって些事になり、この世で安らぎすらも得られた。
 信心深い人は、自分の些細な罰当たりを心配して、安養浄土には行けないかも知れないと、心配することがあるが、心配無用である。天国・極楽を信じる者も信じない者も、善人も悪人も、死後の世界では、あらゆる苦痛・苦悩から間違いなく解放される。苦悩に耐えきれず安楽死等自死するものがいる。死ねば、安楽になり苦がなくなることを確信しているからである。苦悩は肉体の死とともに無化する。この世を終わるときには、辛苦のこの苦界から解放されて、すべてが無化し、やすらかな空の世界となる。そういう意味では、死を迎えるときには、苦行の有無にかかわらず、信不信を問わず、利他の善人から極悪のエゴイストまでの万人が「往生安楽国」である。

苦しめば良いという訳ではなかろう

2025年06月03日 | 苦痛の価値論
4-7-5. 苦しめば良いという訳ではなかろう
 ひとは、苦痛甘受を手段として、大きな価値を創造できる。動物は、苦痛から逃げるという自然的な快不快の反応にとどまり、一般的には、苦痛甘受を手段とする純粋な目的的営為はしない。苦痛甘受の忍耐で人の創造できる目的物は、巨大であり、したがって、苦痛の意義には巨大なものがある。そのことの反復を踏まえて、苦痛を忍耐すれば、自ずからに価値が創造されると普遍化される傾向を生じる。
 だが、苦痛は、本来、損傷をもたらすことへの感覚・感情であり、それだけであった場合、損傷がもたらされるのみであり、嫌な陰鬱な苦痛を被るだけである。苦痛の忍耐が意味をもつのは、それを手段として価値ある目的が実現できる場合に限定される。ということは、無駄な見当違いの苦痛甘受が時に生じるということである。日頃、ひとは、目的論的な活動をしている。なんでもないことでも、目的をもって動く。面倒なのに窓を開けるのは、空気を入れ替えようとの目的をもってである。それが苦痛であっても行うのは、その苦痛をもって新鮮な空気が得られるからである。そういう些細なことでも手段として苦痛を我慢して行動を起こす。それが日常化しているので、なにか苦痛を受け入れるようなことがあると、それに見合う大きな価値あるものが得られると連想してしまう。苦痛は価値を生む、と単純に思う傾向をつくる。だが、苦痛による価値創造は、それを手段・踏み台にして目的を実現できる目途あるものに限られる。いくら、激痛を我慢しても、目的が実現できる手段でないのなら、無駄なことである。雨乞いにと自分の腕を切り落としても、その願いは、いくら真剣であっても、100%実現不可能なことである。だが、日常的に目的的に苦痛の忍耐をしているので、大きな犠牲(苦痛)を払えば、それだけで、それに相当する価値あるものが実現されると思いたいし、そう錯覚しがちとなる。
 宗教が苦痛と真剣にとりくむのは、目的があってそのために新規に手段の苦痛を求めるというより、そのはじめに苦痛・苦悩があって、これをなんとかしたいということである場合が多い。宗教は、悩めるものの慰安の営為としてあり、苦悩・苦痛のない者には、宗教は無用であるのが昨今であろう。自分を打ちのめす苦悩をまえに、これを解消したいということで、自然的にはこれから逃れられないというような切迫的状況下で、救済を宗教に求めるのである。そして、理不尽に思える辛い苦痛について、これに価値を見出そうと、目的を安楽の天国あたりに描いて、苦痛を有意味なものと解釈してこれを受け入れる。それは、慰めにはなるが、苦痛自体に価値があるわけではないのが普通である。
 農業には、天候が決定的な影響力をもつ。しばしば日照りで農産物は壊滅状態になる。その深刻な苦悩をなんとかしたいと救済策が求められた。天候が穏やかで農業に適した状態が続くのなら、苦悩はなく、日照りをなんとかという苦悩への救済は不要である。だが日照りは、多くの地域で生じた。その苦悩の解決は、灌漑などで解決できない状態のところでは、人為では無理であった。超自然の存在とみなされた神々に願う以外になかった。その方法として、自分たちが大きな犠牲を払うことで、その苦痛をささげることで見返りの雨を期待した。犠牲・苦痛をささげて神の救済を求めた。苦痛の日照りや洪水をもたらす荒ぶる神に、さらに自らの捧げる別の苦痛をもって、安らいで暴れないでいてほしいと懇願したのである。だが、悲惨な洪水も旱魃も、神は容赦することはなく、その人身御供などの苦痛の犠牲は虚しいものに終わった。

受苦に、神に選ばれていると意識する

2025年05月27日 | 苦痛の価値論
4-7-4-2. 受苦に、神に選ばれていると意識する  
 信仰者は、自身の世俗の営為、辛く困難な仕事を、神からの使命・課題と見なすことがある。課題というと、子供の宿題がそうだが、だいたいが、難しい、解けるぎりぎりの困難なものになり、困難なものであるほどに、自分が出来るから卓越しているから選ばれて困難な宿題を出されていると感じうる。信仰者の苦難も、その苦痛が大きく困難であればあるだけ、神に選ばれた民であるという意識をもてた。親は、優れた子に対して、とくに難しい課題を与える。期待しているのである。それによってその子の能力が一層開発されるのでもある。これと同じ発想をもって、信仰者は、世俗での困難があると、使命であると張り切り、一層の磨きをかけていく。
 人類の発生とともにあったであろう神への祈願では、苦痛とその生み出した価値物を(荒ぶる)神に捧げ、神に価値を贈ることをもって、見返りに、望む価値あるものをいただこうとした。異なった存在同士の物々交換に似た発想になる。最大の苦痛贈与であろう人身御供は、そのことで見返りに干ばつとか洪水をなしにとか、橋などの建造物をしっかり守ってもらいたいという価値交換であった。だが、労苦・苦痛が神から課された宿題であり、求められた使命だという発想は、疎遠な存在同士(荒ぶる神と被害者の人間)の物々交換とは異なる。自分たちの王(支配者)のもとで忠実に尽力する従順な臣下という意識である。自分たちのもとに苦難・苦痛が現にあってこれを神からの課題とみなして、これに力を尽くして応えるのである。神を満足させ喜ばせる価値を捧げているのではあるが、その苦難、労苦、苦痛の結果(生産物)は、直接的には神に捧げるのではない。課題を解くことは自分たち自身のためであり、成果は、自分たちが享受するのであって、神に捧げる献物とするのではなかった。神への献物、人身御供のような、価値を神に捧げて、見返りに救済(神からの加害の見逃し等)を求めるという異なった存在との間の物々交換的な意識とは異なり、自分たちの尊い支配者のもとでの一体化(慈悲の神と、忠実な子羊)の意識になったことであろう。  
 自分の仕事が神から自分に世俗のもとで与えられている使命だという意識は、その仕事を聖なる仕事、聖職そのものとみなすことになる。仕事のそういう解釈は、その仕事に誇りをもたせ、神との結びつきがそこに見出されるから、それこそ喜んで苦痛・犠牲を引き受けようということになる。世俗の金儲けが下賤なものではなく聖なるもので、誇りをもって取り組めるものと解されえた。使命は、当人にできる最高の仕事になる。使命感をもった者は、自分の最大を尽くそうと懸命になる。信仰者の苦行が、自身の身体を無意味に鞭打ち傷つける等、世俗的には無価値な苦痛を神に捧げることも少なくない中で、世俗の生きざまを神の使命とみなしていくことは、世俗自体にとっても大いに有益なものであった。

苦痛をもっての神への二様の関わり方 

2025年05月20日 | 苦痛の価値論
4-7-4-1. 苦痛をもっての神への二様の関わり方  
 神に関わる場合、ひとは、自分たちの苦痛・苦労で生み出した価値をもって関わりとすることが多い。その場合、ちょうど、人が自分の有している価値物をもって、疎遠な者達と価値を交換するようなやり方をして、疎遠な神から、人知では不可能な価値を得るのが一つのやり方である。もうひとつは、自分たちの首長(支配者)にかかわる場合に見られるもので、命令されるもの(辛い使命)を臣下が忠実に果たすことで、両者の間に堅い絆を作り上げるようなあり方である。古くは、荒ぶる神への関わりであったろうから、この神は、身内などではありえず、疎遠で敵対的な超越者への関わりとなり、見知らぬ異部族との物々交換のような在り方をした。自分たちの犠牲・苦痛、それをもって生み出した価値物を荒ぶる神に献物とし、ときには人命を犠牲として捧げて、それと交換に災害等から自分たちの守られることを求めた。神に価値を贈ることをもって、見返りに、望む価値あるものをいただこうということであり、異なった存在同士の物々交換に似た発想になろう。最大の苦痛贈与であろう人身御供は、それだけ切実に災い(干ばつとか洪水)をなしにしてもらいたいという価値の交換であった。
 神とのもう一つのかかわり方は、所属の一体的な共同体のもとでの有り方に似たものになり、自分たちの首長に対する関係に見出されるような苦痛の献身である。王が臣下に命じることを臣下が命がけで、苦痛・犠牲を払って尽くすような在り方である。臣下は王の命じることを忠実に実行することで、王との堅い絆を確保する。それは、神との間では、神からの使命とみなすもの、聖なる仕事・職と懸命に取り組むことに見出された。労苦・苦痛が神から課された宿題であり、求められた使命だという発想は、疎遠な存在同士(荒ぶる神と被害者の人間たち)の物々交換とは異なり、慈悲深い王・神へと己の存在をかけて尽くすことであり、そこに強固な絆ができてくるという発想であった。荒ぶる神への関わりは、個人としてであるよりは、共同体全体として関わることが多かったであろうが、苦難の使命を果たすという場合は、個人個人が神からの使命を果たすのであり、個人として犠牲・苦痛をしっかりと担い、使命を抱いた個人が個人的に神との絆を意識したものになる。
 キリスト教のプロテスタントなどは、自分たちの世俗の苦痛の仕事を神からの使命と捉え、この使命としての仕事において、自分たちが神に選ばれているという意識になった。使命=仕事に懸命になり、犠牲・苦痛を甘受し尽力することで、神に結ばれていると実感しえた。仕事に懸命になることで、神を満足させ喜ばせる価値を捧げているのではあるが、その苦難、労苦、苦痛の結果(生産物)は、直接的には神に捧げるのではない。使命を果たし課題を解くことは自分たち自身のためであり、成果は、自分たちが享受するのであって、神に捧げる献物とするものではなかった。神への献物、人身御供のような、価値を神に捧げて、お返しとして救済を求めるという、異なった存在の間(荒ぶる神と、惨めな人間)の物々交換的な意識とは異なる。自身の苦痛(使命・犠牲)をもってして、自分たちの尊い主(支配者)との一体化(慈悲の神と忠実な子羊の絆)が強固になるとの意識をもった。