4-7-5-2. 禁欲主義
ひとは、動物的自然を超越した存在である。動物は、快に引かれ不快・苦痛を回避して生きている。だが、ひとは、これらを超越している。快あるいは、欲求がそのあるべきことにふさわしくなければ、これを拒否し、禁欲する。逆に、苦痛については、自然的にはこれを回避するが、必要とあれば、ひとは、これを甘受する。
禁欲の多くは、快への欲望の抑止・禁止である。人の動物的欲求は、快を直接的な目的にする。快に惹かれるのは、動物的なレベルにと自身を落とし込むことである。人間にふさわしい行為からは、外れることが生じる。精神的にしっかりと生きようとする場合、そういう欲求・快を禁じるべきことにしばしばなる。しかも、快は、これの享受においては、のめりこみ、周囲のことを放置しがちとなり、危ういことを招きかねないのでもある。さらに、逆の苦痛については、自然的には、これを回避する。苦痛からの逃走衝動、回避の欲求・衝動を動物的にはもつ。その衝動・欲求を禁じることも人はする。忍耐は、苦痛を回避する欲求を禁止して、これを甘受する。禁欲は、欲求を禁じることだが、それは苦痛であることが普通なので、苦痛甘受、苦痛を受け入れて耐え忍ぶことをイメージすることになりがちである。しかし、激痛のがんを耐えることを禁欲とは言わないし、絶望の苦悶に耐えることを禁欲とも言わない。禁欲は、苦痛を耐える面をもつとしても、それは一面であって、中心は、やはり、文字通りに、欲求を禁じることだというべきであろう(asceticism(禁欲主義)は、ギリシャのaskeō( 訓練する、鍛える)からで、欲を抑止するよりは、苦痛に耐える方に近いようである)。
禁欲の対象は、動物的な欲求が基本になろうが、場合によると、精神的なレベルでの楽しみの禁止を含むこともある。囲碁将棋等の娯楽、音楽とか文学等の芸術も禁止するようなことがある。社会的な営為も、金銭とか名誉を求めるようなことは、醜いエゴの欲望であり、しばしば禁じられるべきものであった。出家とは、家を捨てることであるが、それは、あらゆる欲求・欲望を捨て去ること、全面的な禁欲であった。宗教的禁欲は、神仏に日常のすべてを投げ出して仕えるとか、世俗の欲望を禁じ、苦痛から逃げず、その生み出す価値を捧げるとか、聖域に入るに際して精進潔斎して欲望を絶って清浄な心身になるといったことで、世俗一般の欲求を禁じるものであった。
禁欲の対象の欲求・欲望は、これを抑止していると、それに慣れてきて、欲求自体の消滅することが多い。動物的なそれであっても、食欲は、個体維持に不可欠だから、元気なら、いつまでも残り続けるけれども、類保存の性的本能は、刺激がなくなると、消える。いまは、刑務所でも性的刺激がなくならないから、どうか知らないが、かつては、刑務所に入ると、食欲の方は旺盛で夢にも食べ物が出てくるが、性欲は、消失したようである。まして、名誉欲とか出世欲は、社会に出ても、底辺にでも置かれれば、おのずから消えていく。宗教的禁欲主義のもとでは、社会と隔絶した生活をするようなことになれば、食欲は別として、割と簡単に欲求自体が消えたり委縮して、禁欲主義は、幅広く厳密に実行されていたのではないかと思われる。食欲は、個体維持に必須だから簡単には消えないけれども、この食欲すらも断食(昼間のみ食べないラマダンとか、寝ているときだけ食べないで朝から食べるブレックファスト(fast=断食をbreak=破るとかの朝食)などと違い、基本、水だけで過ごす断食)をしていると、消滅するという。禁欲に慣れてきたら、禁欲主義といっても、欲を禁じる必要がなくなるのが普通であったろう。巷の禁酒・禁煙などでも、慣れてくると、禁じるという辛い思い自体が無用になり、禁酒も禁煙も意思することが不要になる。
禁欲主義の求めるものは、穏やかな生である。単に欲望や欲求をなくするというのではなく、動物的感性的な情欲の世界を脱出して、理性的に精神的に豊かな生を営むことである。それの妨害となる主として動物的な衝動を抑制するのが一般的な禁欲主義である。それは、慣れた場合は、なんでもないことになるが、衝動などを放置している者から見ると、厳しいものに映る。
ひとは、動物的自然を超越した存在である。動物は、快に引かれ不快・苦痛を回避して生きている。だが、ひとは、これらを超越している。快あるいは、欲求がそのあるべきことにふさわしくなければ、これを拒否し、禁欲する。逆に、苦痛については、自然的にはこれを回避するが、必要とあれば、ひとは、これを甘受する。
禁欲の多くは、快への欲望の抑止・禁止である。人の動物的欲求は、快を直接的な目的にする。快に惹かれるのは、動物的なレベルにと自身を落とし込むことである。人間にふさわしい行為からは、外れることが生じる。精神的にしっかりと生きようとする場合、そういう欲求・快を禁じるべきことにしばしばなる。しかも、快は、これの享受においては、のめりこみ、周囲のことを放置しがちとなり、危ういことを招きかねないのでもある。さらに、逆の苦痛については、自然的には、これを回避する。苦痛からの逃走衝動、回避の欲求・衝動を動物的にはもつ。その衝動・欲求を禁じることも人はする。忍耐は、苦痛を回避する欲求を禁止して、これを甘受する。禁欲は、欲求を禁じることだが、それは苦痛であることが普通なので、苦痛甘受、苦痛を受け入れて耐え忍ぶことをイメージすることになりがちである。しかし、激痛のがんを耐えることを禁欲とは言わないし、絶望の苦悶に耐えることを禁欲とも言わない。禁欲は、苦痛を耐える面をもつとしても、それは一面であって、中心は、やはり、文字通りに、欲求を禁じることだというべきであろう(asceticism(禁欲主義)は、ギリシャのaskeō( 訓練する、鍛える)からで、欲を抑止するよりは、苦痛に耐える方に近いようである)。
禁欲の対象は、動物的な欲求が基本になろうが、場合によると、精神的なレベルでの楽しみの禁止を含むこともある。囲碁将棋等の娯楽、音楽とか文学等の芸術も禁止するようなことがある。社会的な営為も、金銭とか名誉を求めるようなことは、醜いエゴの欲望であり、しばしば禁じられるべきものであった。出家とは、家を捨てることであるが、それは、あらゆる欲求・欲望を捨て去ること、全面的な禁欲であった。宗教的禁欲は、神仏に日常のすべてを投げ出して仕えるとか、世俗の欲望を禁じ、苦痛から逃げず、その生み出す価値を捧げるとか、聖域に入るに際して精進潔斎して欲望を絶って清浄な心身になるといったことで、世俗一般の欲求を禁じるものであった。
禁欲の対象の欲求・欲望は、これを抑止していると、それに慣れてきて、欲求自体の消滅することが多い。動物的なそれであっても、食欲は、個体維持に不可欠だから、元気なら、いつまでも残り続けるけれども、類保存の性的本能は、刺激がなくなると、消える。いまは、刑務所でも性的刺激がなくならないから、どうか知らないが、かつては、刑務所に入ると、食欲の方は旺盛で夢にも食べ物が出てくるが、性欲は、消失したようである。まして、名誉欲とか出世欲は、社会に出ても、底辺にでも置かれれば、おのずから消えていく。宗教的禁欲主義のもとでは、社会と隔絶した生活をするようなことになれば、食欲は別として、割と簡単に欲求自体が消えたり委縮して、禁欲主義は、幅広く厳密に実行されていたのではないかと思われる。食欲は、個体維持に必須だから簡単には消えないけれども、この食欲すらも断食(昼間のみ食べないラマダンとか、寝ているときだけ食べないで朝から食べるブレックファスト(fast=断食をbreak=破るとかの朝食)などと違い、基本、水だけで過ごす断食)をしていると、消滅するという。禁欲に慣れてきたら、禁欲主義といっても、欲を禁じる必要がなくなるのが普通であったろう。巷の禁酒・禁煙などでも、慣れてくると、禁じるという辛い思い自体が無用になり、禁酒も禁煙も意思することが不要になる。
禁欲主義の求めるものは、穏やかな生である。単に欲望や欲求をなくするというのではなく、動物的感性的な情欲の世界を脱出して、理性的に精神的に豊かな生を営むことである。それの妨害となる主として動物的な衝動を抑制するのが一般的な禁欲主義である。それは、慣れた場合は、なんでもないことになるが、衝動などを放置している者から見ると、厳しいものに映る。