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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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不愉快なものには、苦痛・反価値を与えたくなる

2023年08月01日 | 苦痛の価値論
3-5-3-1. 不愉快なものには、苦痛・反価値を与えたくなる 
 醜い貧しい者は、苦痛の反価値をもって対処されることが多い。蛇は、不快でひとに苦痛をあたえる姿なので、見つけたら、これに石を投げつけて痛めつけ、殺そうとまでするが、醜・貧は、蛇に相当し、不愉快で苦痛を与えるものとなり、美・富は、パンダ相当で快となる。醜く貧しい者は、蛇やゴキブリのように唾棄され、不快、苦痛を与えるものとして、反価値(苦痛)をもって処される。何か選抜の事柄があると、醜・貧の者を避けて排除し、これに苦痛を与えるが、醜・貧の当人は、自分が攻撃され否定されるのは納得できない。醜・貧は不快感を与えるとしても、自身にその相手のいだく不愉快の醜・貧の責任があるのではないからである。というより、醜・貧の者は、嫌なのにそうなっているのであり、自然(造物主)に由来する被害者なのである。周囲の者は、被害者の傷に苦痛の塩を塗り込むようなことはやめて、醜・貧への嫌悪・攻撃は造物主にすべきで、それならば、自分も大いに加担せねばならないと醜・貧の者も賛同することであろう。配偶者に選ぶのは、醜・貧の者か、美・富の者かというと、自然的感情にしたがう者は、醜・貧を排して美・富をとる(もちろん、美は、結婚までのこと、以後は他人に美となるだけで災いを呼び、富は、当人を怠けものにしているから、未来を見る賢い男女は、結婚でこれらを優先することはない)。醜・貧の者は、失恋という大きな痛手を何回も受け入れさせられる。
 多くのひとは、蛇を嫌悪する。これに恐怖(不快・苦痛)感情を抱かされるので、この苦痛を与える動物には、苦痛をもってお返しをしたいと痛めつけ、殺そうとすら思う。蛇は、ひっそりと、平和の鳩どころではなく穏和に生きていて平和の象徴にしてもいいぐらいだろうに(WHOとか救急車に蛇マークをつけることがある。医薬の神アスクレピオスの杖の蛇ということのようである。その杖に横棒を足せば十字架のイエスになる。十字架の横棒を外し打擲の棍棒にしてアダムとイヴの末裔たちは、蛇を痛め付ける。あの、杖にしがみついた蛇は、受難の蛇と見てもいいのではないか)、その容姿が嫌悪感(苦痛)を生じさせるので、唾棄して、見つけ次第、これに苦痛を与え、挙句の果ては殺処分するというのが楽園追放以後の人類史であった(子供が犬をいじめていたらやめなさいという先生も、蛇の場合、石をぶつけている子供の石をとりあげて、自分が投げつけて殺す。もっとも最近は、生命の尊厳をいう新時代になっているので、おそらく、そこまでのことはしないのではという気もする)。パンダが、見かけの愛らしさ故に、ちやほやされるのとえらい違いである。ゴキブリなどは、蚊と違い人には無害であろうに、いまでも、見つけ次第これを叩き潰しにかかる。殺熊猫剤など語るだけで大事になろうに、平然とそれ用の殺虫剤まで市販している。不快感を与える存在ということであり、その不快(苦痛)に、不快(苦痛)を与えて応える。醜・貧・愚・狂の者(ちなみに、私は、このすべてのタイトルの保持者である)を排除し差別する方は、そのつもりではないことも多かろうが、受け取る方は敏感であり、少しの差別も、あるいは、差別意識なしであっても、ちょっとした区別のつもりでも差別と受け取り、傷に塩を塗り込まれる大きな苦痛となる。

不快(苦痛)をもたらすものに、苦痛で報いる

2023年07月25日 | 苦痛の価値論
3-5-3. 不快(苦痛)をもたらすものに、苦痛で報いる 
 ひとの交わりでは、等価交換を原則にする。人同士が同等であることを踏まえて、あるいは同等と望んでの振る舞いである。快・善が与えられれば、これには、同じく、快・善でもって応える。苦痛・悪が与えられたのなら、同じく苦痛・悪で応えようとする。「目には目を」の、善をも含めての同じもので報いようという報復律である。悪・苦痛を与えられた者は、とくに、そのお返しをしなくては済まないという気になる。マイナスを与えられたのだから、マイナスのお返しを、報復をということである。 
 美醜や貧富は、自分で制御できるところは、かなり小さいであろうが、それらが、交わる者に快不快の感情をもたらすことは少なくない。美人や富者は、快をもたらし、したがって快で応えることになりやすい。問題は、逆の醜人とか貧者が、不快・苦痛で対処される結果になることである。蛇は穏やかにひっそりと生きているのに、ひとに不快感・苦痛を与えるということで、ひとは、そのお返しをしなくてはならないと、棒でたたき石をぶつけて苦痛を与える。唾棄される蛇に相当する醜・貧は、周囲に不快感を抱かせがちになれば、不快に思った者たちが同じ不快で応えるのは、自然的反応ではあろう。だが、不快で応えられ差別される醜男・醜女、貧者は、それらは自分の責任ではないから、その差別等を不当なこと、理不尽なことと憤りをもつ。最近は、表向きでは、美醜、貧富でもって差別扱いすることは抑止されているが、それでも、内実は、美・富をもつものを優遇し快等の価値を与え、醜・貧側には、苦痛を与えるようなことが相変わらずある。
 善に快の褒美、悪に苦痛の罰を与えることは、善悪の担い手自身にも納得のいくことである。苦痛の罰を与えられた者は、自身のいたらなかったこと、劣・悪を、苦痛をもって反省し、報いと自覚し、善を行うように改めねばと思うことである。だが、美醜・貧富は、そうではない。自身の意思をもって醜くなったり貧困に陥ったのではない。自身、いやなのに拒むことができず、そうされているのである。醜・貧が周囲に不快感を与えたとしても、これを自身の責任とすることはできない。醜く鈍に生まれたがゆえに、友達や親兄弟から差別扱いされ、いじめられるようなことは、今は少なくなったであろうが、つい最近まで普通にされていたことである。その当人は、自分でそうしたのではないから、何ともやりきれないことになる。にもかかわらず、あたかも責任のある罪かのように不当に苦痛をもって処されるのである。それに泣き寝入りする者は、前世に自分が悪いことをしたからだろうと、(責任を引き受けて)納得してしまうこともある。だが、真実は、だれも自身が醜く貧しくなろうと意思したことではなく、何の責任もないことであり、それに苦痛をもって処されるのは、傷口に塩をすり込むことに等しい。貧・醜の者は、いうなら傷を負って苦しんでいるのに、周囲がさらに、就職とか恋愛・結婚等で、万人平等の表向きとはちがい、差別し心に苦痛を与える。この苦痛は、受け入れがたいものである。その苦痛は、人を幾重にも苦しめるだけの、不当・理不尽な疎ましい反価値である。

「何の因果でこんな苦痛を」と嘆く

2023年07月18日 | 苦痛の価値論
3-5-2. 「何の因果でこんな苦痛を」と嘆く  
 心身の損傷について、あまりにもそこに生じる苦痛が大きすぎると、この苦痛自体に不平をいいたくなる。損傷・苦痛は、自分の責任でそうなったのではない場合も多かろう。だいたい、損傷を自らが被ろうとすることはまれで、苦痛がなくても、注意していることである。それでも生じる損傷は、不運なのである。その不運のうえに苦痛をという場合、戒めにはならない。傷に塩をぬるようなものだといいたくなる。「何の因果で」とその痛みに恨みをもちたくなる。なにも悪いことをしていないのに、罰の苦痛を受けるという感覚である。いうなら、その苦痛は、冤罪である。罪は犯していないのに、罰としての苦痛を味わうのである。事故や病気で苦痛を味わうことを強いられた者は、「何で自分だけがこんな目に遭わなくてはならないんだ!」と、持って行きようのない不満を漏らすことになる。
 ときには、長々と続く苦痛のもとでは、それでも自分に非があったのかもと反省もする。冤罪のはずだけれども、長時間の拷問(苦痛)で、ありもしないことを自白するような心境になって、自分にも非があるのだろう、生きてきたうちでは、罪になることをしたのかも、と振り返る。不摂生で不健康なことを、無理をさんざんしたから、身体を酷使し、内臓も負担に耐え切れず、病いを得たのだろう、自分の不摂生が悪かった等と思う。それはそれで、反省を誘うこと自体は、悪くはない。だが、大抵は、皆がしている不摂生である。自分だけが罪を負わされることではないはずなのだが、みんなの代表として苦痛を甘受するのだと、犠牲の子羊、神の子羊の気分になることもあろう。
 「親の因果が子に報い」というようなことを思う古い世代があった。因果応報は、因果関係をいうものとしては、いまも受け入れられる考え方であるが、「親の因果」は、いまは、新興宗教にはまっている者以外では、本気で思うことはなかろう。しかし、古くはそれが通っていた。親子は一体的で、自立精神の希薄な時代では、先祖の善悪は自分のものでもあった。徳川の三百年を、恵まれた無為徒食の武士の子孫としてのうのうと暮らせたのは、命を懸けて戦った先祖のおかげであった。当時は刑罰からして、家族一人の犯したものであっても、一族郎党に適用された。五人組だなんだといって、近所のものまでも責任を負わされた。いまでも、家族の一人の犯罪で、家族全員がひどい目(報復・制裁)にあうのはまれではない。血のつながるものの一体性の意識のもとでは、親の犯した罪を自分の苦痛で返すという因果応報は、その苦痛を耐える気力を保たせたことであろう。武士として江戸時代を安楽に暮らせたのは、初代が多くの敵を殺した手柄、そのお陰だった。その殺人の罪を自分が負って苦痛に耐えることは、その先祖の霊を救うことでもあるのだ、その恩を返すことがこの苦痛に耐えることで可能になる、といった発想だったのであろう。その苦痛において、自分と祖先との一体性を実感して、精神的に穏やかになれた。現代は、圧倒的に個人主義が支配しているので、こういう先祖の因果というようなことは思わない。したがって、自分だけが、責任のないことで苦痛に見舞われるのは納得できないと、ごく全うな発想になっている。

苦痛でもって反省してもらう

2023年07月11日 | 苦痛の価値論
3-5-1. 苦痛でもって反省してもらう 
 生が損傷を受けて、苦痛がないとしたら、ひとは気楽に構えるであろう。苦痛の、嫌悪・拒絶の反応とか、抑鬱や焦燥とか悶え、疲労困憊といった、うんざりすることがないと、損傷を気にすることは少なくなろう。痛覚のないひとがまれにあるが、このひとは、しばしば身体に損傷を受けてしまうという。苦痛があるから、気づく。損傷があっても苦痛という不愉快なものがないなら、あまり損傷に注意しなくなる。肝臓などには痛覚がないから、相当にひどい損傷をうけていても、みんな平気で飲酒し続けて、肝硬変になって大慌てする。初期から苦痛があれば節酒していたのにと残念がる。
 事業でも、失敗し損害をうけても、それをその事実を知るだけに終わって気にしなければ、おそらく、また同じ失敗を繰り返す。その失敗を厳しく罰して痛めつけ、この苦痛がこたえておれば、同じような事態が出来したとき、苦痛が思い出されて、細心の注意をして、苦痛を受けることのないようにと努力することになる。苦痛体験は、同じ失敗・損害を少なくする。
 悪いことをして社会に損害を発生させたら、これを償わせる。だが、その損害に見合うものを償うだけでは終わらさない。罪を背負わせ、苦痛等の刑罰を受けさせる。ひとのお金を盗んで、発覚したら、その額を返すというだけであれば、おそらく、盗みを促進させるようなことになる。それで済むのであれば、盗む者には何の損害もない。見つかったのがよくないとなるだけであろう。盗み自体を罰することがいる。盗まれることで生じる諸種の対応・不愉快さに対するお返しをしないと被害者たちは気が済まない。さらに、厳しく苦痛を与えて懲らしめ、窃盗犯に、こういう苦痛には二度と遭いたくないと思わせる必要がある。軽いと、見つかっても、「少し苦痛を我慢すれば済むことだ」となって、その犯罪は繰り返されやすくなる。耐え難い苦痛を与えることである。
 損傷を単に処理するというだけでは、その後の損傷阻止への心がけは保たれないであろう。そこに、二度と体験したくないような苦痛が与えられることで、二度と損傷を受けるようなヘマはしないぞと心掛けることになる。損傷ではなく、苦痛を二度と味わいたくないという思いが損傷をも阻止する。損傷のうえに苦痛までとの二重の受難は、損傷反復の阻止とか、懲罰としては、もっともなことであり、納得できよう。軽すぎるムチ、短い苦痛は効かない。苦痛は、強く長い方が効き目がある。懲罰、戒めとしては、苦痛がしっかり効くようにすることが肝要である。後日のことを考えて、できれば損傷なしで傷跡を残さず、苦痛だけをしっかりと与えることである。強く苦痛を感じて、その戒めを身に染みて受け止めれば、次は、その苦痛を二度と味わいたくないと、誤り・過ちを引き起こさないように注意するであろう。過酷な苦痛は、こういう場合は、生保護の価値となる。


褒美としての快、懲罰としての苦痛

2023年07月04日 | 苦痛の価値論
3-5. 褒美としての快、懲罰としての苦痛  
 苦痛は、損傷だけで十分なのに、さらに輪をかけて痛めつけて、二重にひとを困らせる厄介なものだと言いたくなることがある。だが、それは、やむを得ないことと見るべきでもあろう。快は、褒美・飴であるが、苦痛は、反対で、多かれ少なかれ、懲罰・鞭である。苦痛は、失敗や悪事への報いであれば、そういうことを繰り返さないようにと、いやな苦痛をもってしっかり懲らしめることであろう。快は、よいことをしたという褒美で、その褒美がもっと欲しければもっと良いことをすればよいと勧める。逆に、懲罰では、苦痛を与えて懲らしめる。二度と同じ過ちを繰り返さないようにと戒めるには、二度と味わいたくないような耐え難く大きく長い苦痛を加えるのが一番である。
 苦痛は、傷に塩をぬるものといいたくなることがあるが、そうは言っても、苦痛がないと、注意を怠り、損傷を繰り返し、一層、損傷が大きくなるのも確かである。痛い目に合わないと、なかなか注意を持続はさせないだろうし、ほかに引かれるものがあれば、損傷など気にせず、突き進むことにもなろう。虫歯という歯の損傷があっても、それが苦痛でなければ、放置するであろう。苦痛があって、苦痛を回避・排除したいということがあるから、歯医者にいくのである。もし、ひと自身が苦痛や快を塩梅する造物主にでもなったら、おそらく、おなじように苦痛で懲らしめ戒めることをするのではないか。苦痛の効きすぎることが、ときに弊害になるとしても、二度と同じ誤り・過ちを繰り返さないようにするには、大きく長い苦痛をもってしっかりと戒めることであろう。大きな苦痛を感じたものほど、過ちを繰り返すことが少なく、生存競争の勝者となりえたのではないか。
 人同士で、褒美を与え、懲罰を加えるとき、褒美では、快で価値あるものを与える。快が何になるかは、ひと毎に異なるから、快になるものが何かを見極めてする。懲罰は、反価値を与え、価値を奪うことでなされるが、とくに刑罰になると、それを加えられる者にまちがいなくマイナス・反価値と受け取れるものになることが必要で、苦痛をもってすることが多くなる。罰金などは金持ちには、懲罰としての効き目はあまりない。ほぼ万人に同じように懲罰としての効き目があるものということになると、なんといっても苦痛である。