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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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動物は苦痛を持続させないとかいう

2023年06月27日 | 苦痛の価値論
3-4-6-3. 動物は苦痛を持続させないとかいう 
 犬などの動物は、大けがをしてもそんなに長く痛む様子ではないという。苦痛は、損傷を軽視せず適切に処置すれば、それで役割を終わる。痛みは、その間つづけばいいことで、それ以上に長く痛むのは、その生を余計に苦しめてダメージを大きくするだけである。ひとによくみられる傷口に塩をすりこむような苦痛の在り方は、動物ではしてないのかも知れない。
 ひとは、無駄に長々と苦痛を感じさせられる。創造主は、ひとには、過酷なのであろうか。それとも、もっと長く損傷対策をとれというのであろうか。動物には、損傷があってもその損傷に気づいても、それ以上になにかできるわけではない。ということで無駄に苦しめないように苦痛も早々に終わりにするのであろう。ひとでも内臓は、痛んでもどうできることでもなかったからであろうか、痛覚を原則的にもっていない。だが、皮膚などは、ひとならば、苦痛が続けば対処をそれなりに続けて行うので、苦痛を持続させるのは、意味がある。犬ならどうしようもないからであろう、痛まないか、適当に気づかせてあとは痛みはなくなっているように見える。自然は、あまり無意味なことはしないのであろう。ひとのばあい、歯痛でも何日も痛む。その痛みを早々になくしたら、おそらく虫歯の治療はしないことになる。長くいつまでも持続するので、痛みに根負けして、最後は、自分で抜歯もするし、昨今なら歯の治療にと歯医者の門をくぐることになる。苦痛があればこそ、である。     
 もっとも、ひとでも、大きな損傷が生じている場面では、意外に激痛は感じていないのかも知れない。ライオンに襲われた人が回顧していたものに、かまれるまでは、恐怖で耐えがたかったが、かまれ始めたらもうなんともなく、苦痛ではなかったと書いていた。私の何回かの事故体験でも、痛みはあまり記憶に残っていない。最近、熊に食べられて死んだ若い女性が、携帯で母親に、いま熊に食べられていると電話して、はじめは痛いと言っていたけれども、しだいに、かじられているのはわかるが、もう痛みなどないと言っていたようである。ひとは、文明の過保護状態にあるときは痛みを気にすることで、これを持続させるが、荒っぽい自然状態においては、そんなに苦痛は持続しないものなのかもしれない。気にする余裕のない場合、大事故に遭遇したときなど、動物と同じように、ひとでも痛み自体はあまり問題にならないように思われる。

余計な苦痛がなければ、もっと楽天的になれよう 

2023年06月20日 | 苦痛の価値論
3-4-6-2. 余計な苦痛がなければ、もっと楽天的になれよう 
 損傷を知らせてくれる情報として、あるいは、生の防護・予防の価値としては、苦痛は、大いに価値となるが、うちのめし煩悶させ疲労困憊の状態にする苦痛は、ない方がましであろう。末期癌の痛みなどは、末期ならもう痛み情報など余計なことである。静かに最期を迎えたいことであろう。現に、そういうときには、激痛を余計とみなして、医療でも麻薬をつかう。苦痛は、ここでは、生を保護する価値などではなく、それ自体が疾病として生を破壊する悪魔的な反価値ということになる。
 不安など、ひとによっては、長い人生の過半を占めることもある。いためつけるために生かされているような気になる。人生は、牢獄だ、墓場だということになる。苦痛は、役に立たないどころか、生を傷めつけ疲弊させ自殺にまで追い込むような悪魔の感情だといいたくなろう。この世に創造主がいるとすると、よほどいじわるで、ひとの苦しみを楽しんでいるのだろうとすら思いたくもなる。旧約聖書の神は、欠陥品をつくってはこれを破壊し、やり直しをしているが、意味のない過剰な苦痛を生体にし込んでいるのも、そのひとつだといいたくなろう。いまも貧困・病苦に人生を送る者は多い。単に一つのことを苦労させるだけでは済ませず、次から次へとさんざんに苦痛で痛めつける。残忍な独裁者のなかには、苦痛にのたうつ者を見て楽しんだものがいるが、創造主(自然)は、そんな残酷な者も驚くほどの悲惨をこの世にまき散らしつづけている。
 その苦痛がなければ、この世は、楽になる。仏教は、この世を「苦界」ととらえ、その苦がなくなったのを「極楽」とする。苦痛がなければ、それだけで、安楽な世界となる。損傷があっても、苦痛・苦悩がなければ、淡々とその損傷に向かい合えることで、安楽であろう。幸福論者の多くが、不幸がなければ、それだけで十分に幸福なのだという。不幸のない無の状態は、穏やかであり、すがすがしいことである。その上に、積極的な快楽となるようなものがなくても一向に差し支えない。快楽は、瞬時に終わることだし、ひとをまどろませ停滞させるだけであれば、なしで結構である。それより、苦痛さえなければ、この生は、どんなにか爽やかで穏やかであろうかと想像される。

苦痛がいつまでも続くことには納得できない

2023年06月13日 | 苦痛の価値論
3-4-6-1.苦痛がいつまでも続くことには納得できない   
 単に損傷のみであれば、これに冷静に対応してその損傷の拡大を阻止し、その修復を淡々と進めることである。だが、これに苦痛が伴う場合、損傷への気づきは早くなるが、緊張・萎縮させ焦燥させ無駄に悶えさせて、ひとを疲労困憊の状態にする。ときに、苦痛は、損傷の回復に気を廻す余裕を奪い、損傷を一層深刻なものにしかねない厄介な存在となる。 
 快不快の自然において、快は、これを享受しつづけたいが、享受できるのは、ほんの瞬時になる。しかし、快が瞬時に終わるのは、残念だけれども理にあっており、この自然にひとも納得する。苦労の末に成果を出したその褒美が快である。それが最後に出されるのも、瞬時に終わるのも、やむをえないことである。ことのはじめとか途中で快を出したら、そこにとどまり、先には進まないであろうから最後に出すのは、理にあっている。かつ、瞬時に終わるのも、そうしないと、その快にのめり込み、いつまでも、そこから抜け出すことをしなくなって、麻薬中毒にあるように、その快の奴隷となって生は停滞する。快が早々に消えるのも正解である。
 だが、苦痛・不快の方は、問題がある。それがことのはじめに出ることは、そこから先へと駆り立てるということでは、正解である。むちは、はじめから使って、手段となる途中でも使い、目的となるところへと駆り立てる。苦痛のむちがはじめからあり、最後になるまで、あり続けるのは、やむを得ないが合理的である。だが、ことが終わってもいつまでも苦痛の居座ることには納得できない。末期癌の場合、激痛をつくりだす。ことが終わりかかって、はやくくたばれとばかりに、むち打ち痛めつける。ひとの苦しみを楽しむ愉快犯のような仕打ちである。絶望なども、もう十分、痛い目にあって反省し、やり直そうと思うのを、これを拒むかのように、むち打ちつづけ奈落の底へとひとを追い込んでいく。絶望や不安という苦痛・不快感情は、大きくなれば、ひとを徹底的に叩き潰し、その苦悩に耐えがたくさせて、生を絶つことへと向けさえする。苦痛感情としての絶望・不安に苛まれ続けることがなければ、再度の挑戦の試みもスムースになるであろうに、絶望感・不安感がこれを阻止して、死を覚悟させたりする。損傷よりもそれへの苦痛の方が、ことを荒だて悲劇的な方向へと落とし込んでいく元凶になりかねない。慈悲の神仏は存在せず、悪魔・邪神なら居ると思わせるような残酷な仕打ちを続ける。苦痛は、ここでは、反価値の塊でしかない。

苦痛は、損傷に追い打ちをかけ二重三重の反価値をもたらす

2023年06月06日 | 苦痛の価値論
3-4-6. 苦痛は、損傷に追い打ちをかけ二重三重の反価値をもたらす  
 苦痛は情報価値、警告・予防等の価値をもつが、それは、ときに行き過ぎ、効きすぎて、苦しみを二重三重にして、反価値の顕著な苦痛となることもある。価値ある苦痛は、損傷への警告や通知をするものとしてあって、病気では、それは診断的価値ということになる。だが、損傷が分かって以後も痛みは継続するし、損傷はないのに痛みが悩ませつづけることもある。そういう苦痛は、その苦痛自体が病いということになる。
 治癒の可能性のない末期癌で激痛のつづくことがある。末期癌という深刻な状況にうちのめされているのに、さらに追い打ちをかけるように激痛を死ぬまで加えるのである。どうしようもないのなら、せめて、苦痛だけでも小さくして、穏やかな死を迎えるようにしたいことだが、いじめつくすかのように、激痛を付け加える。傷口に塩をぬって追い打ちをかける。さらに死の恐怖、残された家族を思っての悲嘆までを付け加えて、幾重にも苦痛の反価値をもたらす。激痛の上位を争うという腎臓結石の降りるときも、途方もなく痛むという。痛むことが、石の降りるときに有益なのであれば我慢のし甲斐もあるが、むやみに苦痛を付け加えるだけのようである。精神的苦痛も、絶望など、単に希望を絶たつというだけにはとどめず、徹底していためつけ、その耐えがたい苦悩・苦痛はひとを死にさえ追い込む。苦痛さえなければ、どんなにか楽なことであろう。
 損傷だけで十分に傷めつけられて難儀なことを背負ったのである。生に深刻な損傷は、普通はそれだけで十分に分かることで、苦痛にその損傷を教えてもらわなくてもいい。損傷にうんざりしているのに、苦痛は、これに輪をかけて、嫌悪や焦燥や煩悶をもって身を疲労困憊の状態にする。時には、もう傷は完全に癒えていて災難にあった不幸を忘れているのに、これを思い出させるように、古い傷口が無用な痛みをもつこともある。苦痛は、傷口に塩をぬって二重三重にひとを苦しめる途方もない反価値だと言いたくなる。

苦悩は、過去を語り、未来を示唆し創造する 

2023年05月30日 | 苦痛の価値論
3-4-5-1. 苦悩は、過去を語り、未来を示唆し創造する   
 絶望は、精神的苦痛の代表となろうが、そのつらいことは多くが身体的苦痛以上であろう。だが、単に人を痛めつけダメージを与えるだけではない。そのことをもって、この苦悩に耐えているならば、おのずと、未来がどうあるべきかもその苦悩の中に見えて来る。苦痛・苦悩が当人のあるべき道を語ってくれる。まず、消極的に、これまでの歩みは、取ることができないということを、身をもって分からせる。かつ、積極的には、この苦痛から逃げず耐え続けるなら、その先に、その苦痛に見合う何かがなるといった予知・想像が可能になる。
 絶望は、希望が絶たれて生じる。希望は、自身にとり可能な最高の未来である。これがかなわず未来が絶たれて懊悩することになる。希望がかなわなかったということは、その希望が高すぎたのかも知れない。自身の見立てが甘く、未来に向けての自身の能力を買いかぶりすぎていた可能性がある。それを絶望は教えてくれる。そうではなかったのだとすると、その希望へ向けての自身の取り組み様が悪しく、努力が不足したのである。これまでのやり方が反省される。
 絶望は、未来(希望)を絶たれた深刻な状態にある。その絶望に耐ええなかった場合、自棄になったりして破滅的になりそうである。だが、その苦悩は、これに耐えて、逃げ出さなければ、絶望した未来に新規の希望の生起を可能にしていく。身体の苦痛に耐えることで、その方面の力をつけていくことができるように、絶望は、ひとを精神的に鍛える。挫折をすることで、それを知らないで順調に進んでいたときとは異なって、我慢し停滞もせねばならないことがあると知り、忍耐力、謙虚さ、大らかさ等を養うことになる。人ができてくる。あるいは、不足していた自身の能力が開発されることも、そのつらいことから逃げずに耐え続けるなかで可能になってくることであろう。やがて新たな希望の創生がなってくる。
 希望が絶たれて彷徨することにおいて、自身の道がさらに別にもありうることが見えてくる。自分の過去の道は一本しか残っていないが、その未来に向けては多くの道が開けており、多様な世界の広がっていることが見えてくる。なによりも価値観が変えられてくる。受験で絶望を体験する者には、よい大学よい就職口にと進んでいたのでは見えてこない多彩な世界が顔を出し、その挫折に耐えるなら、自身の世界が広がり、価値観が豊かなものになってくることであろう。自身で気づいていなかった不遜で狭隘な自己の過去が見えてきて、自身が変わっていく。絶望は(これに耐え続ける限り)、そういう自己改造へと自身を強制もしていく。